2006~2007年は目まぐるしい変化の日々だった。

アルツハイマーの母の症状で迷子になったり行方不明になるなど頻発した時期。

その頃、義母が肺がんで余命宣告をされたのだ。

 

 実母にはできることはすべてしているとは思っていたけれども、いつ行方知れずになって生き別れになるかもわからないという状況。

 その症状の進行のおかげで、介護保険認定を受けサービスを受けられるようになった頃。

妹次女と二人力を合わせてなんとかたどり着いた母の介護保険サービス利用。

 

 当時妹次女はトリプルケア、つまり実母義母の介護そして子育て。

不安定になりがちな彼女を励まし、両親を励まし、持病と仕事が大変な妹三女を励まし。

 本当は自分も不安定で誰かに頼りたいすがりたい状態だったのに、そこは長女として厳しく躾けられたのろいから逃れられず、頑張るしかないと突っ走っていた。

そこに、義母は余命3か月宣言。

ひとり絶望感に見舞われる。

 

 当時私は、鹿児島県鹿屋市に住んでおり、実家が鹿児島市、義両親は大阪。

大阪に何度も帰省する余力はない。

両親も心配だが、義母も義父も義兄も心配。

結果、夫が休暇をとり夫婦で1か月弱大阪に帰省。

家族の在り方の違いにショックを受けつつも、自分が義母のためにできることを一生懸命する。一緒にいてもできることは少ないけれども、義母と私のためにできることをしたい。

毎晩義母の体を優しくなでるようにマッサージするのが滞在中の日課となった。

おしゃべりをして、義母の気分を紛らわすことに気を配った。

それはわたしにとって義母とのいい思い出。

 

 一方実母の度重なる迷子は次第に行方不明で警察のお世話になるように。

父の一瞬の隙をついて、不安の衝動から突如その場から逃げ出すように走り出していなくなる。そのたびに父から電話がかかってくる。それもすぐにではなく、だいぶだってから。

電話が怖い、喉が締め付けられるようになった。

電話をうけてすぐに駆け付けられない距離。

昼間のバスのいない時間帯は、最悪だった。

妹たちと連絡をとりあって、駆けつけるまで4時間以上かかった。

なんとか母が見つかって帰るときの疲労感。

当時もすでに週に1回土曜に実家で過ごすのが姉妹なりのルールになっており。

どんなことがあってもそれは欠かさないルール。

母がいついなくなってしまうかもわからない日々だったから。

 

初めてのことばかりで自分がいっぱいいっぱいだったのに、

それでも家族を支えなくてはと張り切って空回りすることも度々で。

 あの頃、もっと人を頼ればよかった。

今ならわかる。

ひとりで悩まない、抱え込まないことがお互いを救う道だと。

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松元佳子
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