認知症両親の介護が始まって、
自分にとって一番大変だったことは、
家族関係を再構築すること。
 
私の場合、
両親それぞれと
年子の妹二人との関係は、
ぎくしゃくしたものでした。
 
体罰で横暴だった父親は信頼しておらず、
母親はどこかよそよそしくて、
両親とも私にだけ
いろいろな制限をかけ厳しく
長女としての役割と責任を
押し付けました。
よくあるアレ
「お姉ちゃんだから」
にもっとすごいトッピングがある感じ(笑)
 
妹たちとは、
思春期の頃まで、
取っ組み合いの叩き合いや
陰湿な喧嘩をしていました。
利害が一致したら仲良し、
対立したら激しかった。
 
そんな家族関係を改善せずして、
母の病名を診断してもらうために
病院受診するまでの10年を、
その後の母と父の認知症の介護を
するなど不可能。
 
母の発病当初、
母本人も父も私たちも、
事実を受け入れることは困難。
 
その中で長女として厳しく役割を果たす
ことを強制された私だけが比較的早く
母の事実や家族それぞれの心理状態を
受け入れて、
将来を見据えて覚悟を決めたのでした。
 
絶対ひとりで介護することはできない。
家族と助け合って母を支えること。
父こそが母の助けになること。
一緒に住む妹たちの理解を得ること。
 
そのために、
それぞれの将来を考えたやり方を
模索していくこと。
 
大嫌いな家族を嫌いじゃないくらいには
なることが目標。
 
でも、だけど。
そういう否定的な言葉しか浮かばなかった
あの頃(20年以上前)
 
家族ひとりひとりと全然分かり合えなかった。
お互い自分の保身しか考えてなかった。
 
そこから、
激しくぶつかり合ったり、
ぶつかりすぎて完全にお互いを無視したり、
現実逃避にはしったり、
家族と自分自身との葛藤がブラックホール
のごとく不気味にものすごい吸引力ではじまる。
 
ただ決めていたことは、
「絶対に家族から逃げない」
「押し付けられた長女としての責任を全うしてやる」
の二つ。
意地だけでした。
いや負けん気?!
 
私が結婚して数年後、
妹次女が結婚を決め、
そのあたりで彼女と協力できるように
なりました。
 
家族全体と将来を見据える私の立場役割は、
時に応じて自分を殺すことも、
犠牲にすることも多々あり。
自分にかかる負荷をどうやってかわすのか?
ストレスを発散するのか?
そしてそんな自分を言い訳にして
家族にできるだけ当たり散らさないよう
我慢の連続が始まったのでした。
感情はジェットコースターか?
バンジージャンプか?
介護鬱という単語が頭をよぎる。
 
認知症の介護初期から中期は
一番苦労が多くて大変。
周辺症状というとてつもないモンスターに
翻弄されまくり。
 
そのたびに、
家族全員でバトル。
誰も譲らないとかしょっちゅう。
それぞれの環境から
妥協点を決めるまでが大変。
 
ぶつかり合って
本音をぶちまけあって、
少しずつまとまるように調整して、
今の家族になった。
 
姉妹の仲がいいのは、
仲が良くないとやっていけないことを
それぞれがよく理解したから。
 
わたしのこれからのことも
時間をかけて話していくことなんだなと
改めて思いなおす。
 
いくら怖くないといったって、
いくら安全だと
誰かがわたって見せたって、
高所恐怖症だと、
つり橋は渡れない。
 そういうことに似ている。
 
そんなときは、
つり橋を渡れる橋にかけかえればよい。
時間も技術もお金もかかる。
 
私の家族の再構築には
いちいちいろんな手間暇がかかる。
 
ずさんな工事で失敗してバラバラに、
それぞれが孤独な老後にしたくないから。
 それぞれが人生の最後に後悔しないよう。