以前書いたブログ の叔母のことなんですが。


彼女のおしゃべりを聞いたり質問したりしてるうちに、彼女が攻撃してくる理由がわかりました。


相手のことを決めつけて『嫌い』っていうのはいいんです。


なんだかどうしても好きになれない『嫌いな人』っていうのはいるもんです。


で、嫌いと反応する自分に興味がわくわけですが。


この人のどこが嫌いなんだろう?


から始まって、自分分析に入ってみると。


ほんとは嫌いじゃなくて、案外昔は大好きだったんだよな、と思い出したりして。


じゃ、なんで今は嫌いになったんだろう?


その人の言動だけかな?


自分が変わったから?


相手が変わったの?



おしゃべりしながら、あーでもない、こーでもないと考え続け。


あれ?


相手の言動がやけに優しくなってない?


表情も柔らかくなってるし。


話題も変わったかも?!


距離感が変わった!


近くなってる!




あーそーか!


普通の人っていうのは、歳を重ねると、案外孤独になっていくものなんだ。


とくに転勤族で、親族との関係がいまいちぎくしゃくしてて、それの理由はお互いにあるのに、自分には何もないと信じて疑わなくて、終の棲家は田舎で、ご近所付き合いが結構難しかったりする。


お互いの誤解もあるだろうけど(そこは気づいている模様)、そもそも相手に非こそあれこっちにはないよ!っていうスタンス。


孤独になると、なんでも他人が羨ましいし、妬ましいとか、ネガティブに傾きがち。


で、意地悪になる。



だから、じっくり、ゆっくり、共感をもって、相手の話に耳を傾けてみるといいんだった。


叔母は、ほんとおしゃべり好きな人なんだよね。


明るくて。


要領もいいし、はっきりモノがいえるし。


ただ、自分自分で相手の立場とか向こう側を理解するのが苦手なんだ。


勝手に相手の立場とか思い込んじゃう性質だし。


そうっだった、そうだった。


わたしも思い出してきたから、相手のここを開けてほしいんだよねな引き出しを引き出して。


ただ寂しいとか人恋しいのに、あまのじゃくな子どもみたいになってただけだ。


叔母にしてみたら私たちが大変で苦しくてどうしようもないくらいつらいはずなのに(認知症両親の介護の修羅場で)、いつもへらへら笑ってて、苦しいけど苦しんでる姿を見せるなんてつらいだけだから笑って過ごすんだ!って言って笑ってるから、信じられなくて妬ましかったんだ!だから、苦しめてつらいって言わせたかったんだろうな。


だけど、どんなつらい時だって、それが日常になったら、その中でも、面白いことは探せばあるし、楽しいことも嬉しいこともあるんだよね。


視点は持ちようだから。


試してみたら、結構イケるときもある。アカンときのほうが多いけど~!




結局、わたしも思い込んでた。


表面的な言動だけど、叔母の向こう側を感じてなかった。


嫌いではないけど、苦手ってところに、落ち着きました。


やっぱり、こっち側にどかどか土足で遊びにきて散々散らかして帰る人は苦手だった。



そういうわけで。


叔母との関係は修復されたってことでいいでしょうか?


いいんじゃない!


言いたいことは、我慢しないで、ちゃんとはっきりオブラートにはつつんで(表現には気をつけて)言おう!