正直、認知症の両親のことで、いっぱいいっぱい。


そうはいっても。


それだけのつながりでいるのは、社会生活を営む大人としていかがなものか?


と思っております。



12月に脳出血で倒れた叔父が、1月に転院して。


現在は、リハビリ専門の療養型病棟に入院中。



叔父の脳の機能は、回復傾向。


ただ、ダメージを受けている部分もあり、記憶障害もある。


その点については、血管性認知症になるのか?どうなのか?で、介護をうけるのか?治療に専念するのか?悩ましいところになってる様子。>叔母が。


介護保険と医療保険、どちらでどのように?という今後を考えるのは悩ましいお年頃。>叔父



長年両親をみているわたしにしても、そこらあたりの判断は慎重にしたほうがいいと思う。





で。何が?ですよね。


先日、祖母が亡くなって。>父の母。


叔父は、父の妹の旦那で。


祖母のお通夜に家族に伴われて、来たんですが。


本人には記憶なし。


叔母は、祖母の面倒を父の弟の叔父とふたりでみていたので。


祖母への(実の母への)思い入れは強い。


叔父の入院先に、それまで毎日のように顔をだして、食事介助をしていたのが、数日できなくなって、叔父のもとへ行けなかったり、滞在時間が短かったりしたところ。


叔父が、いわゆる深夜徘徊。


看護師の人数不足と、治療専門の病棟ということで。


精神科の入院病棟かグループホームに移って欲しいと、いきなり病棟の婦長に話を持ちかけられたという。。。


それって、どうなの?


危機回避とかそういうの?


叔母がそのことですごいショックをうけてパニック。


兄弟に相談したところ、誰もうまくアドバイスできないからどうしよう?ってわたしに相談が来るという。。。



わたしの見解は、叔父の徘徊は不安による行動で一過性。


叔母がこれまでどおりにできれば、治まる。


でも、転院してから叔父のお見舞いには行っていなかったので、翌日行きました。


その回復ぶりは、すてきそのもの=すばらしい。


そういえるのは、わたしが長年両親とくに母をみてきた経験から。




叔父は、わたしが誰だかすぐに認識できていたし。


一瞬一瞬の記憶が曖昧になったり、抜け落ちたりというのは、あまりなく。


抜け落ちる記憶というのは、生きていくうえで、重要ではないことばかり。


ちゃんとおしゃべりに反応してくれて。


言葉がすぐに出てこないのだけど、一生懸命しゃべろうと脳は必死に回路をつなごうとしていて。


その様子は、これからもどんどん回復することを予感させるしぐさ。




人は。


何かと出来ないこと、ばかりにフォーカスして。


そこを嘆くけれど。




そうじゃないよって私は思う。


できることをたくさん見つけて、素晴らしいよねって、ありがとうって、笑顔でいることだと思う。


生きてるだけでまるもうけってこと。


ほんとは、生きててくれるだけで、ありがとうなんだよ。


「生」が教えてくれてること、たくさんたくさんあるんだから。


そのひとつひとつを感じ取ることが、わたしが、あなたが、生きてることだとおもうんだよね。




な~んて、思って。


叔父と話して帰って。


また数日後お見舞いに行って。


叔父と叔母と一緒におしゃべりして。


楽しい時間を過ごしたの。



それだけでね。


叔母の不安も叔父の不安も、ちょっと薄らぐ。


そうして大丈夫のタネをみんなで育てて、安心して助け合いながら生きたらいいじゃない?って思う。



不安や恐怖でおののきながら、悪いことを心配して暗くて苦しい気持ちでいるより。



そんなことないよ!大丈夫だよ!みんなで一緒に生きていようよ!って。


励まし合って、面白おかしく笑いあって、今を過ごそうよって。


わたしは、思うんだな。



だから、自分ができると思うことを、どんどんやってみたいなって思う。


そうしたら兄弟が繋がって、家族が繋がって、よりどころが増えて、安心が増えると思う。


そうなったら、生きやすいよ。


楽しい毎日だよ。


ってなるよ、きっと。




お見舞いにいっただけなのに。


こんなにいろんなことを感じて、思って。


教えてもらった。


有り難いなぁ。


感謝しかないよ。