イノシシの生け捕りをやってみた。
イノシシを抑えて縛って背負って、背中に息づかいを感じながら山を下った。
食べるのが残念だけど、食べる。

 

 

これまで狩猟にはあまり積極的にはなれなかった。

 

肉を食べて生きるのであれば、生命は自分の手で絶つのが本来のあり方だという考え方はどこで身につけたものだったろうか。日本のような高度消費社会から飛び出せば、屠殺は日常的な風景の中にあったし、サバンナで野生動物たちが一日一日の生存のためにシノギを削っている様子を目の当たりにしてきた。生命の交換をブッラクボックスに入れた社会、何も考えずに100円のチキンナゲットを口に放り込むような生活は嘘くさいとしか思えなかった。

 

でも、いざ狩猟をするにあたり抵抗感が生じた。

自然で美しく生きている生命を奪うほどに自分に価値があるのかという疑問。

自分が捕食する立場でいられるのは、自分でない誰かが作った文明の利器(ワイヤーやナイフなどの狩猟道具)のおかげであって、裸一貫ではとても敵わないじゃないかという事実があり、卑怯な生命のやりとりというイメージが払拭できなかった。

もう一つは、玄米を食べるようになって肉を食べる欲が落ちたことも狩猟への関心を薄くした。

 

自分の山を持って変わったのは、ひとつの場所(山)に通うようになったことだ。

通勤路にある花の開花に気がつくように、動物の痕跡を定点観測することになった。どのケモノ道がどこに繋がっているとか、何の種類のどれくらいの大きさの動物がどの道を使っているかが、なんとなく分かるようになった。自分が歩くと、そこを避けるようにケモノ道が別に生じたりして、姿の見えないコミュニケーションをしているようだった。時々、日中にクマやイノシシが近くを走り去っていくことがあり、嬉しくて叫んだりした。

僕の場合、この抑えられない気持ち(恋みたい?)は写真を撮ったり絵を描いたりという方法では解消されないと思えたので、とことん仲良くなるか、もしくは捕まえて食べる(もしくは食べられる)選択肢しかないように思えた。極端といえば極端。世の中には、餌付けという方法を超えた野生動物との関係作りがあるのだろうか。ないわけではないと思う。でも自分にはその壁を越えるイメージができない。

 

狩猟方法は、罠で捕獲することを選んだ。銃は自分には強すぎる。

捕獲した獣を屠る方法として一般的なのは、棒でたたいたり電気で気絶させてからトドメを刺すこと。足をワイヤーで括られた状態とはいえ、数メートルの範囲で暴れる獣を気絶させるのは簡単ではない。うまく急所を打てないと血みどろの泥仕合になる。

でもワイヤーが切れたり、ワイヤーで括られている足がちぎれるようなことがない限り、安全圏からの攻撃を繰り返すだけだ。

そして、気絶させる行程で傷を負わせてしまうので、外傷による雑菌の感染や内出血による不完全な血抜きが肉の臭みに繋がる。肉の臭みとは血の腐敗によるもの。腐敗とは細菌による分解のこと。そして、血の腐敗は驚くほど速い。つまり、野生動物はそもそも肉が臭いのではなく、血の処理が難しいことがそうさせているのだ。せっかくいただく生命、臭いと言いながら食べたくない。

これらについて悩んだ末、罠で捕獲したイノシシを生け捕りにする手段があることを知った。暴れる獣を手で抑えて、紐で縛るのだ。それはちょっと危ないでしょ、と思ったが、文明の利器に頼りっぱなしのアンフェアな狩猟方法にしっくりこない気持ちがある程度解消されるのと、完璧な血抜きを実現できる二点により、これを自分の狩猟スタイルにしようという気持ちが湧いて来た。

 

はじめて生け捕りにした個体はまだ若い、2~30kgの雌だった。

背負って山を降りる間、わずか1時間ほどだったが、揺られて眠ったようになっている息づかいを背中に感じていた。屠殺は8歳の息子と一緒に行った。刺激せず、興奮していない状態で一瞬で喉をついた。息子は震えながら手を合わせた。

 

血は栄養の面だけでいえば捨てるにはあまりにもったいない。とにかく足が速いから流通が難しいという問題はある。
今回、生け捕りによって、スムーズな血抜きと10分以内の加熱処理が可能だった。台湾の「猪血湯」を参考にして、水と塩をまぜて蒸してゼリー状にし、薬味とあわせてスープにした。食べてみると、臭みは皆無で、薬味もいらないほどだった。

 

 

 

肉は死後硬直がとけるまで4〜5日ほど沢水にさらす。うちには冷蔵庫も冷凍庫もないので、食べ切れない分は燻製にする。
捨てるものはゼロ。ハラワタも食べる。食べにくい排泄器官周辺はニワトリが食べてくれた。腸に入っていた排泄物は畑にまく。無傷の骨はすべて集めて標本にする。皮はなめしてみる(やったことないけど)。

 

ありがたく、ありがたく、すべていただきます。