2015/08/12 神奈川新聞
戦後70年/わたしの8・15 (1)
70年前の終戦の日前後、何を見て何を思ったのか。女優や作家に振り返ってもらった。
父が鉄道技師として南満州鉄道(満鉄)で働いていたので、旧満州(中国東北部)のハルビンで小学校生活を送りました。朝礼では「日出づる国・日本」に向かって頭を下げ、好むと好まざるとにかかわらず軍国少年に育ちました。
米軍が長崎に原爆を落とした1945年8月9日。日ソ中立条約を破棄したソ連は満州に侵攻し、関東軍はあっという間に蹴散らされました。ラジオで玉音放送を聞いたのは満鉄の社宅。内臓をえぐり取られたような気持ちになりました。8月15日は終戦の日と言いますが、私たちには「2回目の戦争」が始まっていたのです。
ある日、自動小銃を持ったソ連兵が社宅に侵入し、食事をしていた私のこめかみに銃口を当てました。歯を食いしばろうと思っても、全然かみ合わない。歯の音だけがガタガタと鳴り、震えが止まりませんでした。社宅裏の土手で女性が暴行されるのも見ました。
家族の引き揚げが決まったのは46年11月。列車や深夜の「行軍」で南方に向かいました。ハルビン出発から2カ月半で南満州の葫蘆島に着きました。その間「必ず迎えに来る」と言って現地の人に子どもを預ける母親を何人も見ました。食料もなく衛生状態も悪い中、子どもを守るためです。
戦争は一握りの人間の判断で始められますが、犠牲になるのはいつも無辜(むこ)の民です。今の日本に中国残留孤児の十分な受け入れ態勢があるでしょうか。腹が立って仕方がありません。
役者という仕事は右から左までいろんな考え方の人がお客様です。従ってノンポリを心掛けてきましたが、還暦を過ぎたころに「おい宝田、役者である前に」という声が聞こえました。自分の体験を若者に伝え「君たちはどういう選択をするのか」という問い掛け、リレーのバトンのようなものを次の世代に渡したいと思っています。
あのころ帰りたかった祖国の今ですか…。ウイスキーの原酒造りのようにたるの中で“熟成”されてきた平和憲法は、たがが外れて漏れ始めています。そのうち「数の力」で全てが大地に流されてしまうのではないでしょうか。
たからだ・あきら 34年生まれ。主な出演映画は「ゴジラ」「ミンボーの女」など。共著に「平和と命こそ」
戦後70年/わたしの8・15 (1)
70年前の終戦の日前後、何を見て何を思ったのか。女優や作家に振り返ってもらった。
父が鉄道技師として南満州鉄道(満鉄)で働いていたので、旧満州(中国東北部)のハルビンで小学校生活を送りました。朝礼では「日出づる国・日本」に向かって頭を下げ、好むと好まざるとにかかわらず軍国少年に育ちました。
米軍が長崎に原爆を落とした1945年8月9日。日ソ中立条約を破棄したソ連は満州に侵攻し、関東軍はあっという間に蹴散らされました。ラジオで玉音放送を聞いたのは満鉄の社宅。内臓をえぐり取られたような気持ちになりました。8月15日は終戦の日と言いますが、私たちには「2回目の戦争」が始まっていたのです。
ある日、自動小銃を持ったソ連兵が社宅に侵入し、食事をしていた私のこめかみに銃口を当てました。歯を食いしばろうと思っても、全然かみ合わない。歯の音だけがガタガタと鳴り、震えが止まりませんでした。社宅裏の土手で女性が暴行されるのも見ました。
家族の引き揚げが決まったのは46年11月。列車や深夜の「行軍」で南方に向かいました。ハルビン出発から2カ月半で南満州の葫蘆島に着きました。その間「必ず迎えに来る」と言って現地の人に子どもを預ける母親を何人も見ました。食料もなく衛生状態も悪い中、子どもを守るためです。
戦争は一握りの人間の判断で始められますが、犠牲になるのはいつも無辜(むこ)の民です。今の日本に中国残留孤児の十分な受け入れ態勢があるでしょうか。腹が立って仕方がありません。
役者という仕事は右から左までいろんな考え方の人がお客様です。従ってノンポリを心掛けてきましたが、還暦を過ぎたころに「おい宝田、役者である前に」という声が聞こえました。自分の体験を若者に伝え「君たちはどういう選択をするのか」という問い掛け、リレーのバトンのようなものを次の世代に渡したいと思っています。
あのころ帰りたかった祖国の今ですか…。ウイスキーの原酒造りのようにたるの中で“熟成”されてきた平和憲法は、たがが外れて漏れ始めています。そのうち「数の力」で全てが大地に流されてしまうのではないでしょうか。
たからだ・あきら 34年生まれ。主な出演映画は「ゴジラ」「ミンボーの女」など。共著に「平和と命こそ」