2010/12/25 北海道新聞
「中国の人たちへの恩返しに、8歳の少女の目で見た戦争を書いたのがこの本です」
2006年12月、北京。自伝小説「約束の夏」中国語版の出版記念会で、深々と頭を下げた。日本の中国侵略に対する謝罪と、敵である日本人の引き揚げを助けた中国の庶民に感謝を表したのだった。
千葉県出身。1940年(昭和15年)、3歳の時に父の転勤で旧満州(現中国東北部)へ渡った。終戦直後、母子5人で帰国船の出る港を目指した際に栄養失調で衰弱した2歳の末弟を中国人夫婦に託した。この時、母は「将来も捜しに来ない」と約束した。
51年に札幌へ移り住んだ後も、生き別れになった弟のことは忘れられずにいた。「残留孤児の訪日調査を伝える新聞は必ずチェックしていました。もしかしたら弟がいるかもしれないと」と、夫の雅迪(まさみち)さん(71)は振り返る。
弟に会いたい。でも母の約束は重い。みき江さんは家族を引き裂いた戦争を憎み、北京できっぱりと言った。「日本が身勝手な戦争さえしなければ、こんなことにならなかった。戦争は絶対反対です」
結婚して高校教師を辞めた後、江別に移り、江別児童文学の会の代表を務めた。同人誌「麻の実」に93年から10年連載した「あの夏を忘れない」が「約束の夏」の基になった。「連載中から大好きで読んでいた」と語る江別市の劇団員、安念優子さん(58)は無宗教の葬儀で「約束の夏」の冒頭を朗読した。「戦争と向き合い、平和の尊さを子供たちに伝える大事な仕事をされました」としのぶ。
弟が中国で生きているかどうかは分からない。でも、いつか天国で家族が再会できると信じたい。「捜さない」という約束から解き放たれて。
(報道本部 佐々木学)
(わかまつ・みきえ)
【写真説明】「約束の夏」中国語版の出版を祝う会であいさつする若松みき江さん。本が日中の仲立ちになることを願っていた=2007年2月、札幌市内
「中国の人たちへの恩返しに、8歳の少女の目で見た戦争を書いたのがこの本です」
2006年12月、北京。自伝小説「約束の夏」中国語版の出版記念会で、深々と頭を下げた。日本の中国侵略に対する謝罪と、敵である日本人の引き揚げを助けた中国の庶民に感謝を表したのだった。
千葉県出身。1940年(昭和15年)、3歳の時に父の転勤で旧満州(現中国東北部)へ渡った。終戦直後、母子5人で帰国船の出る港を目指した際に栄養失調で衰弱した2歳の末弟を中国人夫婦に託した。この時、母は「将来も捜しに来ない」と約束した。
51年に札幌へ移り住んだ後も、生き別れになった弟のことは忘れられずにいた。「残留孤児の訪日調査を伝える新聞は必ずチェックしていました。もしかしたら弟がいるかもしれないと」と、夫の雅迪(まさみち)さん(71)は振り返る。
弟に会いたい。でも母の約束は重い。みき江さんは家族を引き裂いた戦争を憎み、北京できっぱりと言った。「日本が身勝手な戦争さえしなければ、こんなことにならなかった。戦争は絶対反対です」
結婚して高校教師を辞めた後、江別に移り、江別児童文学の会の代表を務めた。同人誌「麻の実」に93年から10年連載した「あの夏を忘れない」が「約束の夏」の基になった。「連載中から大好きで読んでいた」と語る江別市の劇団員、安念優子さん(58)は無宗教の葬儀で「約束の夏」の冒頭を朗読した。「戦争と向き合い、平和の尊さを子供たちに伝える大事な仕事をされました」としのぶ。
弟が中国で生きているかどうかは分からない。でも、いつか天国で家族が再会できると信じたい。「捜さない」という約束から解き放たれて。
(報道本部 佐々木学)
(わかまつ・みきえ)
【写真説明】「約束の夏」中国語版の出版を祝う会であいさつする若松みき江さん。本が日中の仲立ちになることを願っていた=2007年2月、札幌市内