追悼 ジェームズ・スティーブンス | 子育てミュージシャン・ロンドン日記

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2012年7月4日(水)


「ジミー」こと、作曲家のジェームズ・スティーブンスが亡くなった。

パパが知ったのは、日曜日の夜。

甥のエロールからのメールで伝えられた。

亡くなったのは6月26日。

自宅での心臓発作だったという。

今日、Golders Green Crematoriumでのお葬式に参列してきた。

ジミーが、89歳の高齢だったこともあり、いったい何人の人が集まるのかなと思っていたが、平均年齢こそ高いものの、50人くらいはいたんじゃないか。

式も、彼の作曲した曲が2曲、オルガンで演奏され、そのあいまに参列者が思い思いに彼とのエピソードを語るといった、和やかで笑いの多い式だった。

ジミーらしいや。

カレンダーをめくってみると、5月14日に会ったのが、最後だった。

このときは、彼の「自筆原稿」や、詩作品、その他の記録をすべて大英図書館に寄贈したい、というかねての希望を実現するための打ち合わせをしたいということだった(実はこれまでに何度もやりかけては中断していたことだったのだが)。

かなりパパ的には時間がタイトで、かなり渋っていたのだが、もう自分には時間が残っていないという、ジミーには珍しく強引な態度に押されて、会いに行ったのだった。

思ったよりも元気で、パパはちょっと安心したのだったが、別れ際に、実に初めて「See you again」という言葉を、彼が使ったのだった。

このとき、パパは直観的にもうこの世で会うことはないのかな、と思ったのも事実である。

結局、これが最後になった。


このブログに初めてジミーに登場してもらったときに、彼のことに関していくつか書いた記憶があるから、繰り返しになるかもしれないが、いくつかのことを記録しておきたい。

ジミーの、将来が約束されていたも同然だった前半生に比べ、BBCと喧嘩別れした後の後半生は、作曲家としてはつらいものだったと思う。

このくだりに関して彼から聞いた話を、ここに書き残しておく。

学校を出てすぐに、彼はBBCから作品を依頼されるようになり、本当に順調にキャリアを築き始めた。

当時は、ラジオが一般の娯楽の花形だった時代で、これは日本も同じだと思うが、その日にオン・エアする「番組」のために、作曲家の需要が極めて高かった。

たとえばBBCのオーケストラもNHKのオーケストラも、そもそもはこうした番組のために編成されたものである。

この波に、ジミーも上手く乗ったようで、「当時は、僕はセレブだった」とは、ジミーの弁。

サウス・ケンジントンに、大きな専用のスタジオ(仕事場)を持っていた一時期もあったようだ。

もともと、音楽の各ジャンル間に優劣をつけない人で、あらゆるジャンルの曲をものしていた。

ヒット・チャートの1位を獲得した曲もあるし、また「Etymon」という作品では、英国人としては初めて「現代音楽家協会」から招待されたという前衛的な側面も併せ持った。

ところが、その頃就任したBBCの音楽プロデューサーと喧嘩をしてしまう。

彼によれば、自分が「ゲイである」ことを公言したのが、BBCのセンサーに抵触したのだ、という。

今でこそ、音楽界にゲイの人が多いのは常識でこそあれ、何の問題もないわけだが、もともと、英国は保守的な国である。

40年も前となると、これは十分ありうる話で、いったんブラック・リストに載ってしまえば、もう後は顧みられることもなく、どんどん後任たちに手渡されていったのかもしれない。

あるいは、時代が大きく変わっていく、その波に乗れなかったのかも知れない。

とにかく、ジミーは、どんどん「忘れられた」作曲家になってしまった。

ところが、この後に彼は「死者のための祝福」で、仏教伝道協会主催の国際作曲コンクールで、次席を取り(審査委員長の黛敏郎氏の弟子がグランプリを取ったらしいが、これはホームタウン・デシジョンで、実際はジミーの作品が最も優れていた、と後から武満徹氏に聞かされた、とジミーは言っていた。真偽のほどは分からない)、さらに三島由紀夫の「仮面の告白」に着想を得「Reluctant Masquerade」を完成させている。

かなり前に、ポール・シュレーダーかレナード・シュレーダーが監督し、緒形拳や沢田研二が出演、フィリップ・グラスが音楽を担当した「MISHIMA」という映画があったが、初め、この企画は、ジミーのところに持ってこられたという。

このとき、ミシマ・ファンだったジミーは自分のアイディアをプロデューサーにいろいろ語ったらしいが、結局、仕事は、彼が毛嫌いしているミニマル・ミュージックの大家フィリップ・グラスのところへ行ってしまった。

あながち、これが彼の被害妄想だと言えないのは、「リラクタント・マスカレード」が、三島と盾の会による基地襲撃のシーンから始まるのは、映画「MISHIMA」とそっくりである。

もっともジミーの話の逆もありうるが、映画のグラスの音楽は、ミスマッチだったと思うぜ、パパは。

「リラクタント・マスカレード」は、NAXOSの現代作品を収めるシリーズの中に入る予定で録音されたようだが、(恐らく)お金のトラブルで物別れ。

予定通り、NAXOSを通じて販売されていたら、その作品のグレードの高さからジミーの生涯に最後の彩を加えたのではないか。

実はパパが最後に会った日、ジミーにタイトルを変えてはどうかと進言していたのだった。

もっと直截的な方が、一般に分かり易くて売りやすかったのではないか、というのが今も変わらぬパパの考えである。

ジミーは、そう言われて少し怒っていたと思うけどな。

とにかく頑固だったから、あのおじいちゃんは。

ジミーは逝ってしまった。

今となってはどうでも良い、彼が金を稼ぎそこなったというだけの話だ。

芸術的な価値は変わるまい。

後半生に書かれた曲は、深みを増して「masterpiece」という呼び方にふさわしい作品だと、パパは信じている。

作曲家ジェームズ・スティーブンスは、メロディの力を信じる、古いタイプの作曲家である。

先にも書いたように、「ミニマルは音楽ではない」と、頑なにこれを拒否していた。

パパも知り合った当時は、「ミニマル的要素」を非難されたものだった。

とは言え、人を驚かせるようなギミックも大好きだっただろう、と思う。

今のパパのスタイルというのはジミーの影響が、大きいのかも知れない。

これも後になれば、もっと良く分かることだ。

Farewell, my friend.


BGM ジェームズ・スティーブンス 「四月の桜」


作曲家ジェームズ・スティーブンス(1923-2012)


http://www.churchill-society-london.org.uk/JStevens.html

http://www.imdb.com/name/nm0828459/

http://www.musicweb-international.com/StevensJames/index.html

http://www.pristineclassical.com/LargeWorks/Vocal/PACO500.php