1800年大統領選挙と司法審査権の確立 | この世は舞台、人生は登場

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大統領選挙表紙

1800年の大統領選挙

 連邦党は、1799年に精神的支柱のワシントン(George Washington)がこの世を去ると、衰退ムードは加速して、1800年の大統領選挙も上院・下院の議員選挙でも大敗してしまいました。議員の三分の一を改選するだけの上院においてさえ多数党の地位を奪われ、全議員を改選する下院においては逆転どころか、ほとんどダブルスコアの惨敗でした。しかしここでも、アメリカ建国以来の憲法の弱点がさらけ出される出来事が起こりました。アメリカの歴史には必ず登場し、法学部の学生を悩ませる事件で、「マーベリー対マディソン事件(Marbury vs. Madison)」と呼ばれるものです。



アメリカ合衆国の首都ワシントン建造


 建国当初の合衆国には首都となる特定の区域はありませんでした。しかし、「合衆国憲法」第1条第8節17項の中で規定されているように「合衆国政府の所在地となる地域(the Seat of the Government of the United States)」は、「特定の州の割譲と、連邦議会の受納(Cession of particular States, and the Acceptance of Congress)」によって建造することになっていました。そして、大統領官邸は、新首都が建造されるまで、ニューヨークのサミュエル・オズグット邸(Samuel Osgood House)とアレクサンダー・マコーム邸(Alexander Macomb House)(1789年12月から1790年12月)とフィラデルフィアの旧ロパート・モリス邸(1790年12月から1800年5月)を転々と移動しました。ついに、1800年11月1日に、新しい首都ワシントンに大統領官邸が新築されたとき、最初の住人としてジョン・アダムスが入りました。


レイムダック(lame duck)の大量飼育

1800年議員数比較

 「レイムダック」とは、任期は少し残っているが、再選には負けているので何もできない大統領や議員のことを言います。敗戦濃厚なアダムズ大統領は、真新しい官邸に意気揚々と入ったわけではなかったことでしょう。上の選挙結果からも推測できるように、もはやアダムズの政権は死に体でした。しかし、そこでまた、旧憲法の弱点が露呈しました。下に添付しました現在の大統領選出日程と1800年当時のものを比較してみてください。


新旧大統領就任日程

 現在の総選挙は、合衆国の全州が同一日に行います。それは憲法第2条第1節4項で規定されているからです。その条文は次のようです。


 連邦議会は、選挙人を選出する日取りと彼ら(選挙人)が(大統領を)投票する日を決定することができる。その投票日は、合衆国全州で同じ日とすべし。(The Congress may determine the Time of chusing the Electors, and the Day on which they shall give their Votes; which Day shall be the same throughout the United States.)

 この条文は、1789年の憲法批准時のものですから、当然、1800年の選挙でも適応されなければなりません。ところが、実際にはまだ憲法を遵守して行われてはいませんでした。当時は、選挙人を選出する方法のすべてを各州に任せていましたので、市民の選挙による州もあれば、州議会で選出する州もありました。また憲法で規定されいるにもかかわらず、選挙日も4月におこなった州もあれば10月まで決まらなかった州もありました。しかし、アダムズが新築の大統領官邸に入った11月1日の時点では、次期大統領が誰かは民主共和党の不手際で決まってはいませんでしたが、連邦党の敗北だけは明白でした。大統領官邸を去ることになる3月3日までの4ヶ月間、このレイムダック大統領は、最後の馬鹿力を発揮することになります。


レイムダック大統領の馬鹿力

 前に添付しました1800年の選挙前と選挙後の連邦議会の勢力図からも明らかなように、連邦党と民主共和党の議員数は完全に逆転していました。現代ならば、この状態の大統領は退任を待つだけで手も足も出ない状態です。ところが、大統領選出の日程表を見れば推測できるように、活動する時間は十分にあります。

 1800年当時の大統領就任日と上院・下院両議員の就任日は3月4日でした。この月日に関しては憲法には記述はありません。その日付は、憲法の発効日の1789年の「3月4日」に因んでいます。(実は、この両日付は、1933年批准の修正20条まで変わりませんでした。)
 11月にはほとんどの新議員は選任されています。そしてその議員たちの就任日は、選挙翌年の3月4日です。ところが、連邦議会の開催が12月の第1月曜日ですから、新議員の就任前に定例議会が行われていることになります。その定例議会が続く限り、そこに出席している議員は、前の選挙で選出された旧議員たちでした。前に添付した新旧議員数を見れば分かり易いのですが、ほとんど半数の連邦党議員は三ヶ月後には議院を去るレイムダック議員でした。敗色濃厚のアダムズ大統領と敗北が決定した議員がその議会を牛耳ることになりました。



最初の大統領官邸の住人

 11月1日、大統領執務室に入ったアダムズ大統領は、3月3日までは連邦党が圧倒的多数を占める連邦議会を利用して、憲法第2条第2節2項で与えられた大統領の特権を行使しました。その大統領にだけ与えられた権利とは「上院の助言と承認により・・・最高裁判所の判事およびその他の合衆国の公務員を任命すべし(by and with the Advice and Consent of the Senate, shall appoint ・・・Judges of the supreme Court, and all other Officers of the United States)」という、最高裁判所から下級裁判所まですべての連邦裁判所の判事を任命することができることです。アダムズは、腹心の部下ジョン・マーシャル国務長官と連携して、自分の退任後も影響力を残すため、任期のない判事職に彼の息が掛かった人材を配置しようと画策しました。秘密裏のうちに短期間で行われましたので「真夜中の裁定(Midnight Judges)」と呼ばれています。
 

連邦最高裁判所首席判事の選任


連邦最高裁判所首席判事たち
初代から三代まではジョージ・ワシントン大統領によって指名され任命された判事です。

 ジョン・アダムズは、まず1800年9月30日に、健康上の理由で退任したエルズワース連邦最高裁判所長官(Chief Justiceなので「首席判事」と呼ぶ方が適切)の後任選びに着手しました。彼は、初代ジョン・ジェイに再任を依頼しましたが、ニューヨーク州知事の職に従事するため固辞しました。そこでアダムスは、奥の手としてマーシャル国務長官に首席判事を兼務させました。


真夜中の作戦決行

 3月3日までは自らが率いる連邦党が圧倒的多数で議会を独占していました。その議会を使って、アダムス大統領とマーシャル国務長官兼連邦最高裁判所長官は、合衆国全土(当時は16州)に点在する連邦裁判所に58人の判事を増やすための定員増法案を成立させました。その58の判事職すべてに連邦党の支持者を指名し、上院の承認を取り付けて任命状を送付しました。


3月3日大統領退任日

 とくに、影の参謀マーシャルは、退任する国務長官としての後始末と、新任したばかりの首席判事の忙しさから、大変なことを忘れていました。



3月4日大統領就任日


マーベリー対マディソン事件の始まり

 ウィリアム・マーベリー(William Marbury)は、ワシントンDC治安判事への就任が上院の承認もアダムズ大統領の任命も終えて、任命状の到着を待っていました。ところが、なかなか届かないので、任命状を渡してくれるようにマディソン国務長官に申し出ました。ところが、長官は任命状の送付を保留してしまいました。


マーベリーの請求を拒否

 マーベリーは、裁判所法により連邦最高裁判所に対して国務長官に職務執行命令を出すように要請しました。その訴えを受理することになったのは、連邦最高裁判所首席判事のマーシャルでした。まさに彼こそ、その任命状を出し忘れた張本人の当時の国務長官に他なりません。マーベリーとマディソンの法廷闘争にマーシャルが加わった三つどもえの複雑な関係が生まれました。


  マーベリーとマディソン事件の配役
マーベリーとマディソン事件の配役

 マディソン国務長官から任命状の発送を拒否されたマーベリーは、裁判所法(Judiciary Act of 1789)13条の「最高裁判所は、・・・合衆国の管轄下にある裁判所(=連邦裁判所)または官職にある者(=国家公務員)に対し、職務執行令状を発する権限を持つべし(The Supreme Court shall also have ・・・power to issue ・・・writs of mandamus to any courts appointed, or persons holding office, underthe authority of the United States)」を盾にとり、連邦最高裁判所に控訴しました。

 当然、この控訴に対処するのは、首席判事のマーシャルです。もはや議会の勢力は逆転していて、マーシャルの後ろ盾となっていた連邦党は、衰退の一途を辿っていました。そこでマーシャル首席判事は窮地に立たされます。


マーシャル独白1

 マーシャル首席判事は、もともとは連邦党の国務長官でマーベリーをワシントンDC治安判事に推した人物です。そして、マーベリーが控訴の根拠にしている裁判所法第13条は、確かにマーベリーに有利でした。


マーシャル独白2

マーシャルは、困って、悩みました。そして、ついに妙案が浮かびました。

マーシャル独白3

憲法が優先か。裁判所法が優先か。
現代では当たり前のことが、当たり前でなかった時代でした。


マーシャルの独白の4


 マーシャル首席判事が出した結論は、何もしないということです。すなわち、憲法に則していない法律は、法律としては無効であるという判断です。


マーシャルの独白5

 この「マーベリー対マディソンの事件」に対するマーシャルが下した裁定が、司法審査権(違憲立法審査権)の始まりとなりました。

日本国憲法司法審査家