様々な色金(銅、金、銀、真鍮など)を織り交ぜて鍛接し、得られる木目調の肌目を楽しむ伝統技法があります。表題のとおり木目金などと呼ばれていますが、一つとして同じ模様が無いことなどから、とても面白い金属工芸です。

 

今回は、刀装具工作で余った金属の切れ端などを使って、この世に一つしかない木目金の板材を製作します。製造方法はいたってシンプル、叩く叩く・・・焼き鈍す・・・の繰り返しです。

 

今回は銅を基調にした21層柾目鍛えです。 労力のわりに、たいして大きな作品は作れません(笑)

 

切断してみると・・・、ミルフィーユ状の積層面が見えます。剥離した部分があって、やや雑です。

折り返した回数よりも積層面が少なく見えるのは、柔らかい金属が過鍛造で見えなくなってしまったからでしょう。この製造上の問題は、各金属の特性がバラバラである事に起因します。叩いた時の伸び方が違うため、完成時の各金属層の厚みを均等化する(思い通りの模様に仕上げる)ために、鍛造開始前の各材料の厚みを調整しなければなりません。

 

例えば、真鍮は銅や銀に比べて硬いので、先に銅や銀が薄くなります。金などは、ほぼ見えなくなります。また、沸かす(溶接する)時の温度も違うので常温鍛造で金属疲労した銅を柔らかくしようと長時間熱を通すと、今度は真鍮が溶け出したり・・・、とにかく各金属が各々の個性を主張するので、特性の近い金属通しを選択することが無難です。

 

金属を鍛造していて思う事は、大和伝の柾目は折り返し鍛錬回数が相当少ないということです。火造りで最も難しいことは、鍛造回数を必要最小限度で仕上げる技術です。大和伝の刀匠(僧兵?)は、新刀特伝の様な精緻な肌を、それに必要な純度の高い鉄を用いて作り出す事も可能であったはずですが、最低限の鍛錬技法で作刀している理由は、それだけ高い技術をもっていたということであって、材料の特性を見極めていることと量産・歩留まりを考えた上での結論だったのだろうなあと思います。

日本の歴史の中で、刀剣が最も多く作刀された時期はいつか?と問われると、ほとんどの方が戦国時代を挙げます。

 

たしかに、集団戦の発達で武器の需要が急激に増えたと考えられますが、当時最も需要を獲得したのは槍などのより間合いの広い武器であったと思います。

また、鉄砲の登場で、従来の価値観が通用しなくなったことも刀の需要を抑える結果に繋がったことでしょう。

 

実は、日本刀が最も多く作られたのは、昭和です!

戦地に赴く将兵はこぞって刀剣を買い求め、官給品としても量産型の軍刀が増産されました。当時の逼迫した物資欠乏状態の中で唯一需要と供給のバランスが保たれていたのが軍刀であったわけですが、この軍刀、外見は同じでも刀身はまるで違います。

現地で粗製濫造された粗悪品から、玉鋼を古式鍛錬で打ち下ろした鋼の芸術品まで、実に様々な刀身が存在します。

それらは一括りに昭和刀と呼ばれ、粗悪品の代名詞のように今日まで扱われてきました。

実際に今日でも「昭和刀の研摩はお断り」という研師は多く、確かに鉄の硬さから修復は骨の折れる作業でもあります。

 

この昭和刀ですが、以前より相当数の名品が埋れていることを感じてきましたが、修復のご依頼で知らない作域の昭和刀が持ち込まれるたびに、驚きを提供してくれるおもしろい存在です。

特に、後発で参入してきた民間企業が終戦間際に駆け込み製造した軍刀身の中に、今までに見たことがない様な美しい刀が眠っているように感じます。

これらは、市場の評価を受ける前に敗戦の混乱期に至ったことで、完全に時代のはざまに忘れ去られてしまったのでしょう。錆身で持ち込まれる度に、受難の歴史を物語っているようで、ご苦労様と声をかけてやりたい気持ちになります。

 

 

古名刀を見慣れた愛刀家にとっては、どうしても鉄の材質や色も相まって、そこまで注意を払う刀剣ではないかもしれませんが、刀剣初心者や武道用途の方々にはこれほど扱いやすい刀剣はありません。

 

今回、工房にてお預かりしている刀身も、大変出来の良い御刀でした。

 

体配は健全で好ましく、若干先反り気味ではありますが、気にならない程度の寛文型。

 

魅力を感じたのは、刃中の働き。

 

良い研ぎがかけられている事も相まって、真面目な作域が好印象です。

 

 

軍刀身の中で、特によく出来た刀身には共通する特徴があるように感じます。

 

柾鍛えによる精緻な肌目と切先からハバキ元まで破断の無い見事な刃縁に、生まれの良さが表れる様に感じます。 

 

 

まだまだ、評価の低い昭和刀の魅力を、ぜひお手にとってお楽しみ頂きたく存じます。


自然が織り成す造形美は、なぜに美しいのでしょう?

 

刀剣がいかに私たちを魅了するものであっても、自然美を前にしては到底太刀打ちできるものではありません。やっとの思いで作り上げた刀装でも、こんな竹の節を切り出しただけの荒削りな美にすら、敵いません。それでも自然との調和を目指してあがき続けることが職人の目指すところなのであろうか?と、妙に哲学的な答えを求めてしまいます。果たしてあがき続けた先に、雲間から光明が射すことがあるのであろうか?

 

拵え工作は、完成された美しい素材を加工(破壊)し続けなければなりません。そんな破壊者たる私は、実に罪深い。そして、また今日も罪を犯し続けます(苦笑)。

 

今週末、友人らを招いて新しい工房の公開と、工房移転のためしばらくお休みしていた刀剣勉強会を再開します。(既に、刃物研ぎ教室にご参加頂いた方々はご来訪頂いていますが、片付いた工房へご来訪頂くのは今回が初の機会になります。)

 

そこで、この度の機会を記念して、荷物にならない程度のささやかなプレゼントを用意しました。

竹細工で作った目釘抜きです。目釘抜きはいくつあっても邪魔にならないと思いますが、加工したことで竹竿の美しさを汚してしまいました。

 

いつの日か、粗末に扱ってしまった材料の供養をしたいと思う今日この頃です。

ずっと探していたアイテムを、手に入れました!

 

欠品なしのジャガー製アナログミシン!若干のサビ以外は、ほぼ当時のままの状態です。

 

発見時、思わずガッツポーズを決めたほどの良好な保存状態でした。

 

このシリーズは、家庭用アナログミシンの有終の美を飾る伝説の名器といっても過言ではありません。その後の市場はマイコン搭載型へと移行し、追い討ちをかけるように外国からの安価な輸入衣料品に押されて、ミシン需要そのものが失われていきました。今日では、ミシンのある家庭のほうが珍しく、全ての操作が手動のクラッシックミシンの存在価値はほぼありません。

 

では、何がそんなに嬉しいの?というと、言うなれば旧車を転がす感覚と同じなのです。走りもしない古いバイクを永遠と修復し続け、「よくもまあ懲りもせずに・・・」と周囲に冷たい視線を投げかけられながらも、いつの日か復活を夢見て機械を弄るあの感覚と同じなのです!しかも実用品。

 

というわけで、早速必要な物を作っていきたいと思います!

 

まずは、簡単にラフスケッチ。  古い薄手のカーテンをリフォーム、そして完成!

 

布丈175cm×横幅180cmの暖簾ができあがりました。これは最も格式の高い長暖簾です。

長暖簾は、京都の高級料亭などで目にしますが、どれも特注品で業者さんに注文しようものなら桁違いの請求が当たり前です。

 

今回の作品は、坂東型で乳の数を11に設定しました。つまり、京都では目にすることのできないご当地仕様ということになります。

 

このあたり、暖簾の生い立ちを調べている研究者はあまりいません。これはあくまで私の想像ですが、京暖簾はその文化圏において結界をなす役割が当初の目的であったと考えられます。結界は、外部のものの侵入を防ぎ文化の流出を予防するための多角的な封鎖を意味しますが、平安期以前の外部のものとは、公界を往来する人ならざるものつまり異文化圏の住民(東夷とか俘囚とさげすまれた関東人)や魑魅魍魎からの護りのまじないです。

上記京暖簾の生い立ちに対し、坂東のそれは同じく結界ではあるものの戦場における陣地を知らしめる目的から用いられたと考えられます。そのため抑止力として内部の兵力を時に見せ、移動時には旗印として存在を誇示することが当初の目的だったのです。

このように東西の暖簾の違いは生い立ちが違うため、今日一般的にいうところの関西の隠す文化、関東の見せる文化との関連性を指摘する連想へと繋がっている様に感じます。

 

話がそれましたが、アナログミシン最高!(笑)

自宅の表札を作ります!

 

 

表札というのは、とても不思議な存在です。無ければ宅配業者さんや来訪の方が困りますが、有れば有るで防犯上の問題などが増える気もします。当然、最も目立つ玄関先や門柱に取り付けるわけで、最近はあえて設置しないお宅が増えているそうです。自分が何者かを明記しないことは、地域社会との距離を確実に広げますが、ひょっとしたら煩わしい人間関係を避けたいと感じる現代人的思考の現れなのかもしれませんね。

 

というわけで、我が家は設置する方向で何度も何度も下書き中。

 

何となく、作品の方向が定まってきました。

 

早速、製作・・・。う~ん、ちょっとヒョロヒョロした感じがイマイチ。

 

結局、一日かけて完成!肉厚な感じに仕上げました。

 

辺りはすっかり暗くなってしまいましたが、設置してみると暗い中でもちゃんと見えます!

 

一つ一つ無いものを作っていく楽しさは、何ものにも代え難い「ものつくり」の醍醐味です。

庭の梅が満開です!

 

梅は、バラ科のサクラ属に分類され、原種は大陸から日本にきました。梅の学名はprunus mume、英名はJapanese apricotです。

 

春の花といえば、現代人は「桜」がまず頭に浮かびますが、かつては「梅」を代表格に捕らえた時代もありました。

 

 

刀剣に用いられる題材としては、桜はあまり登場しません。刀身彫りなどでも花といえば、桜よりも梅を彫り込む傾向が見受けられます。おそらく枝が天に向かって真っ直ぐ伸びる様が武人の生き方に共感を呼んだのではないでしょうか?同様の価値観からくる不思議な傾向は、真っ直ぐ進むものや周囲と違うものが好まれました。例えば、猪は猪突猛進と言う様に好まれた題材ですし、蟹などは横に進むことから横行君子と呼び、尊ばれました。

では桜ですが、意匠として刀剣外装や刀装具の評価が高まったのは大戦中ではないかと思います(あくまで個人的な感想)。ただ言えることは、今日のように花は桜という確固たる認識は昭和に入るまでさほど明確ではなかったのかもしれません。

劇的に散り往く定めを演出する桜と葉隠れ精神が暗い時代の戦意高揚に一役かったことが原因でしょうか?ただ、そうした作られた価値観が、今日もなお固定概念として私たちの脳裏に焼き付いているとなると、一抹の奇妙さを感じます。

 

さて、引越し荷物の荷解きも程々に梅を眺めていると、時代を超え世代を超えて梅の花が長く愛されてきた理由が分かるような気がします。

 


こんなのどかな昼下がりには、万葉の歌が心に浮かびます。

 

わが宿に 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも

 

自己解釈:我が家に咲き乱れる梅の花の散る様を、みんなにお見せしたいなあ~。

詠み人の大伴旅人は、大伴家持の父で奈良時代の貴人です。官職に奔走した一生を過ごしましたが、こんな素朴な和歌も残しています。

 

終の棲家をこの地に決めた理由の一つは、緻密に計算尽くされた庭の植栽の見事さも一つの理由でした。もっとも、内覧を希望した時期は、紅葉に庭一面が染まっていましたが・・・。

 

さて、東日本で大きな震災が発生して早7年が経過しました。今日は、心の中で黙祷を捧げる一日でしたが、確実に世間の記憶は薄れていっています。現地でも地震の規模を示す痕跡はほとんど目にすることがなくなったそうです。それでも、多くの方々がお亡くなりになった震災を忘れないために、そしてそこにあった人々の生きた証や思い出を、梅の香りにのせていつまでも届けて欲しいと思います。

 

こちふかば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

 

自己解釈:東風(こち)にのせて香りを届けておくれ、梅の花よ。そこにかつての繁栄がなくても、いつまでも春を忘れずに微香を放ち続けるのですよ。

梅といえば菅原道真。梅の高潔なイメージは、菅原道真の生き方に由来しているといいます。平安時代の貴族たちは、競うように梅を邸宅に植える事で気品や高貴なイメージを高めました。

 

最後にこの歌を、北鎌倉で来訪者の足元を照らし続ける温かい存在のあの方に送りたいと思います。

 

君ならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る

 

個人解釈:梅の花の誠の美しさを、あなた以外の誰が理解できるというのでしょうか。色も香りも、良さが分かるのはあなたを置いて他にはありませんから。

詠み人は紀貫之、私の中のスーパースター(笑)。

 

工房を移転してから、はじめてのものづくりに取り掛かります!

すでに3ヶ月ちかく引越しの整理やら家屋の調整に追われて気ばかり焦りますが、まだまだ時間がかかりそうです。こればかりは直ちに終わるものではないので、ボチボチやっていくしかありませんね。

 

少しずつでも工房の体裁を整えていきたいので、まずは表玄関に設置予定の看板を作ることにしました。

 

リフォームで余った木材に彫刻を施していきます。

 

 

友人や地域の皆さんが気軽に足を運んで頂けるように、心を込めて工作に取り掛かります。

 

この技法は蒲鉾彫りなどと呼び、文字を浮き立たせる効果がある彫り方です。

日頃やらない工作だけに、新しい発見や工夫が見つかるかとワクワクしていましたが工芸用の特殊刃物や工具を取り出す機会はほぼなく、むしろ市販の彫刻刀が一番役立つ結果となりました。

この手の工作では、文字の外側の谷間を鋭角に立ち上げることで見た目にインパクトを与え迫力のある表情に仕上げますが、今回は文字の周りの肉を深く彫り込むことで木工芸の温かみを表現したいと思います。

また、蒲鉾彫りの文字の色づけは谷間を全部着色するのが一般的です、ただし今回は文字の周囲を深く広く彫り込んでいるので、内側だけに漆を塗って仕上げてみました。

 

 

この度の看板製作にあたり鎌倉中の寺院の扁額を見て歩き、自分なりにイメージを膨らませて方向性を定めました。

 

あと少しで完成です!

 

追記、引越しで酷使し続けた愛車が過労死しました。本当に良く頑張ってくれたなあ~と思いますしこの車がなかったら自分たちで引越しをすることなど考えもつきませんでした。思えば被災地への慰問や車中泊小旅行など、この数年いつもそこにある存在で、機械なれど欠かすことのできない大事な家族の一員でした。心の中で感謝の気持ちを送りたいと思います。

 

 

ちなみに、節操の無い?私は既に新しい相棒を駆って海岸線をひた走るのでした。

長年の夢の第一歩、工房の移転が決まりました!

地域の皆さんのお力添えのおかげさまで、この度の古民家を手に入れることができました!改めて、皆様に支えられて今があることに感謝感謝です。

古民家というと妄想が膨らみますが、定かな定義があるわけではなく、要は従来工法で建てられた伝統的日本建築なのです。建築年数も誰が建てたのかも今となってはわからないボロ家ですが、建物の価値はゼロなどと言われても私にとっては宝物。これから少しずつ手をかけて、大切に大切に使っていきたいと思っています。

今回は、運と出会いと多くの方々のご厚意に甘えて、ほぼ不可能と諦めかけていた物件の取得が実現し、ただ今引っ越しの荷造り作業中です。

 

ところで、我が家で一番重たい荷物・・・、それは、本・本・本・・・。

 


 

子どもの絵本の束を抜いて、我が家の本棚は刀剣関連書籍でいっぱいです。

時々、「刀剣関連の職人になるには?」というご質問を頂きますが、各分野平均5年間の修行が必要と言いますがそれは基本の伝授に過ぎず、この仕事を続けていくには常に技術力の研磨と周辺分野の学習が欠かせません。

特に、鑑定と考古に関する勉強を続けることは絶対条件なので、専門書を読み漁ることで自分なりの考えを固められるばかりか、納得の仕事にも繋がっていきます。

 

本を荷紐で縛ることは、本が傷みやすいのであまり気持ちの良いものではありませんが、そんな事は言ってられません。期日までに、現住所から退去しなければなりません(写真の刀剣書籍の束は、ほんの氷山の一角です。)

 

しばらく工房移転作業に集中しますので、お急ぎのお仕事は対応が遅れる懸念がございます。大変申し訳ございませんが、その旨ご理解ご了承下さいます様よろしくお願い申し上げます。

26日付け読売新聞によると、最古の刀剣書が発見されたそうです!

内容は、25日佐賀県立図書館が所蔵する「龍造寺(りゅうぞうじ)家文書」の中に、1351年頃(南北朝時代)の「銘尽(龍造寺本)」が見つかったというもの。

 


本書は、訴状の下書き2枚を再利用して裏側に記されています(上の写真は、記事より拝借)。訴状の下書きには「観応二年(1351)」と記されており、最古とされている観智院本(1423)よりも古いことになります。

 

ここで観智院本について、簡単に紹介します。

観智院本は、重文に指定(1968)された最古の刀剣書です。正和銘尽(原本は現存せず)の写本で、京都東寺の塔頭観智院が旧蔵していたことから観智院本と呼びます(伝来については諸説あって、観智院の旧蔵ではないとする説も今だ根強く残っています)。現在は、国立国会図書館に収蔵されています。

美濃紙45紙からなる和装冊子本で、本文中に「正和五年(1316)まではゝゝ年なり」の記載があることから鎌倉末期ごろの成立とみられています。頁の配列については以前から不自然さが指摘されていたものの、近年の研究論文にて復元への試みが紹介されるなど、前欠本ではなく頁が入れ代わって伝わった完本であるとする考えには私も賛成です。

 

国会図書館の特別展示コーナーにて閲覧が可能です。

私も、長年夜な夜な睨めっこをしてきましたので、最も親しみのある刀剣書なのです。

今回の龍造寺本の存在は、以前から話題には上っていたものの正式に発表を行ったということは、根拠が固まったということなのでしょう。
写真のページを見る限りでは、右側は御番鍛冶についての記載、左側は相州鍛冶についての記載を見ることができますね。この先調査が進めば、より詳しい内容がわかってくると思いますので、今後の調査の行方が大変楽しみです。

本年最後の修復作業が終わりました!

 

使用感に重きをおいて修復を施した柄前です。

 

今回のご依頼は、年末最後にして最大の難題を突き付けられたような内容でした。

刀身は、現代名工による典型作で、慶長写しでしょうか?身幅広く重ね頃合、反り浅く、切先は延びごころでよく詰んだ梨地に沸の深い作域、切れ味で定評のある刀匠の作品です。

一目上の出来を見てピンときました。もちろんノーヒントでアタリ(過去に一度、同じ刀匠の作品を砥がせて頂いたことがあるので間違えようがありません)。

まず、ご依頼当初の柄前の状態は一応肥後拵風にまとめられ、柄巻きは合成皮革を諸捻りにし(本来、皮巻きに諸捻りはないと思います)、鮫皮は短冊親粒なし、柄下地はホウの木ではありませんでした(モミの木?)。現代鋳物の縁頭、目貫、鍔と、拵えとしての見どころは皆無のためコメントのしようがありませんが、工芸家の作品とは考え難く工房で量産された幾分マシな模造刀の外装ではないでしょうか。モロに逃げ目貫なことも意図的か?と思うほどです。

 

ちなみに、工作のご相談にいらっしゃる方がお持ちになる刀装具の中に必ず紛れているのが、鋳物の鍔です。

 

今回もご多分に漏れず、鋳物の鍔が付属していました。

鋳物の現代鍔は大きな衝撃が加わるとガラス細工の様に割れることがあり、注意が必要です。

簡単な見分け方は、写真のように切羽台が歪になっていることが特徴です。刀身に装着した状態では分かり辛いですがバリの有無などもチェックポイントです。
この鍔は、デザイン的には本歌(恐らく記内の手か?)を受け継いでいて品が良いですが、そういう問題ではないので今回は交換します。

 

右側の無骨な天法鍔に交換!

 

 

今回の修復が難しかったと感じたのは、下地と刀装具を再利用するご依頼であることが最大の理由です。

下地は、ホウの木とは違うため、水分の吸収が良く、和鉄の工具が加工中に錆びを呼んだほどです(笑)。安全性を確保することと使用感を改善するために四苦八苦しましたが、将来的に外装を全て交換することを条件に応急処置を施しました。

 

御刀に着せた状態のイメージ

 

ご依頼者様には、十分にお使い頂き、オーダーメイドの外装の重要性を実感して頂きたいと思っています。

 

(ご依頼を頂いている皆様へ:申し訳ございませんが、現在作業中の御刀は来年以降の完成になります。なお、毎年年末になりますと駆け込みのご相談がございますが、軽微な補修以外は年内の納品は難しいですので、その旨事前にご了承下さい。)