ついに新元号「令和」が決まりました!

ニュースにて、万葉集からの出典であることを知りました。

 

きました!初の本邦古典からの出典です。しかも、万葉集。

私が愛してやまない万葉集からの出典なのです!どれぐらい万葉集が好きかというと、知人との待ち合わせ時間まで常に万葉集を持参して愛読しているため、「また万葉集ですか?」と半ば呆れられるほどなのです(笑)。

 

ニュースでは、序文からの出典である旨のみが紹介がされていましたが、梅を詠んでいることから万葉集の中でも古い時代の歌が集まる巻、梅花の歌序となれば巻第五の梅の花の歌の序文ということでしょうか?

 

ビンゴ!

 

今年の我が家の梅の花。

 

私はこの巻第五に接し、現在の工房への移転を決意したほどなので、家の真ん中に梅の木があるこの終の棲家には並々ならぬ思いが込められています。ちなみに、この巻第五は万葉集全体を通して読んでいても特に異色な感覚に囚われます。完成度の高さというか、改定を許さない姿勢を感じさせるというか、何か暗号?の様な秘密が隠されているのではないかとすら感じるほどです。謎解きには私の脳みそでは足りませんが(笑)。

 

さてさて、この序文は天平2年(730年)正月13日の太宰府での出来事を綴っています。

実に、1300年近く前の古典から掘り起こしたことになります。

 

筆者は大友旅人、太宰府の自宅で開いた雅宴の様子を詠んでいます。

何のための雅宴か?というと、見事に咲いた梅の花をめでることが目的なのです。

当時は、梅はまだ日本に持ち込まれて日が浅く、貴族など資産家しか手に入れることができなかった大変珍重な植物でした。

 

旅人の代表的な和歌といえば、

 

 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます かなしかりけり

 

世の無常を嘆く悲しみに満ちた歌ですが、旅人の歌に共通する物悲しさがこの歌からも滲み出ています。旅人の歌は、現代日本に通じるものがあり、上記の歌からは最愛の妻を失った旅人の悲しみが胸に迫ります。

 

旅人の親友山上憶良は、百済からの帰化人であることなどを鑑みても、高い教養や語学力など大変な有識者であることがわかります。

 

ちなみに、天平二年正月十三日の何時ごろのことかというと、だいぶ朝方から集合した様です。

 

以下、ご参考までに原文抜粋(訓読み)。

 

時、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を壚(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

 

次に、私のデタラメな意訳です(笑)。

 

時まさに初春の名月、空気は澄み風は心地よく、梅は乙女がおしろいで装うがごとく咲き乱れ、美しい香りが漂う。のみならず、明け方の山には雲が流れ、松の枝は霞掛かり枝葉を傾ける。谷戸には霧が立ち込めて、鳥は薄霧に迷い鳴く。庭には蝶が舞い、空には北に帰る雁が飛ぶ。

今我ら晴れ渡る空の下、地に腰を下ろし酒を酌み交わす。心通わせ、心の趣くままに振る舞い、満ち足りた時間を楽しむ。この気持ちを書き表すことが出来ないとしたら、他にどんな手段が残されているだろうか。

中国の詩に落梅の詩篇がある。感情を表現するのに漢詩の昔と和歌の今とで何か違いがあるだろうか?今こそ庭の梅を詠んで、歌を味わおうぞ。

 

と、思わずテンションが揚がってお見苦しい持論を展開してしまいましたが、筑紫での度重なる不幸に見舞われた旅人の一連の物悲し気な歌の中で、一時の喜びに満ち満ちた序文です。

 

ついでながら、この年(天平2年)9月、国民の大きな負担になっていた苦役の防人が廃止され、翌年には広く有能な人材の募集が始まります。令和年間は、外国からも有能な人材が集まる国際都市に変貌を遂げる変革の年になることを願ってやみません。

 

以上、万葉集オタクの戯言にて、ご了承くださいませ。