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1952年	広島県竹原市で生まれる
1965年	呉市立二河中に入学。ビートルズに触れる。
1968年	呉三津田高に入学。デモ参加の上級生への高校側の処分に抗議し、父と衝突。
1975年	バンド「愛奴(あいど)」を結成。
1976年	アルバム「生まれたところを遠く離れて」でソロデビュー。
1986年	飽食の日本を歌った2枚組アルバム「J.BOY」が初めてヒットチャート1位に。
1992年	「悲しみは雪のように」がシングル部門の1位を記録。
1995年	広島平和祈念コンサートに参加「八月の歌」を歌う。
1998年	全国ツアー「ON THE ROAD 2001」がスタート。
2001年	8月、5年ぶりのアルバム「SAVE OUR SHIP」を発表



1952年12月29日、広島県竹原市で浜田敏太・勝子夫妻の3子として生まれる。上2人は姉

で初めての男の子だった。父は元警察官。戦時中は尾道署の特高警察の一員として勤務。広島の原爆

投下に際しては救助隊のリーダーとして被爆地入りし二次被爆を体験。省吾が生まれたときは公職追

放中で職を転々としていた。公職追放というのは、連合軍が日本政府に対し、戦争に駆り立てた人物

を一切の公職から除去するよう指示したもの。20万人以上の人々が対象になった。


親子の相克というのは、小説や映画では普遍的なテーマとなっている。もちろん、音楽でも同じだろ

う。子にとって親は最初の社会との接点であり、成長するにつれて親を超えようとする。その際に生

じる心理的葛藤は、文芸のネタには最適だ。

 浜田省吾にも当然ながら親子間の葛藤はあり、特に父親との衝突は凄まじいものだったようだ。浜

田省吾の父親は警察官であり、今でいう転勤族だった。そのため、浜田一家は頻繁に引越しを経験し

た。父親は子煩悩で、浜田省吾も父を慕っていた。浜田省吾は父親の強い勧めもあって、まじめに勉

強をして広島県内でも有数の進学校へ進んだ。

 それまでは平穏な家庭環境であったが、浜田省吾が高校へ入学した頃から、父親との関係がギクシ

ャクする出来事が続いた。まず、浜田省吾はまじめに授業を受けなかったらしい。学園紛争や反戦デ

モの機運が高まっている時期に、利己的な進学のことしか話題に上らないクラスメートに辟易した。

 そんな進学校独特の雰囲気に馴染めず、野球部に入って部活に熱中したり、生徒会活動に没頭した

りした。高校生活で溜まった鬱憤を、反戦デモへの参加や、職員室前でボブ・デュランの「時代は変

わる」を独特の歌詞を付けて唄ったりして発散していた。


 そうした所業を警察官の父親が聞き及ぶに至り、親子の対立は臨界地点に達した。「お前を過激派

にするために高校へ入れたのじゃない。ワシは恥ずかしくて明日から仕事へ行けん。学校を辞めい。」

 こうして父親自慢の出来の良い息子は、その評価を暴落させた。社会的な反戦デモ隊と官憲の対立

という関係を、家庭内にも持ち込んだのだから始末に終えない。大好きだった父の期待に沿えない苛

立ちと、矛盾した学校や社会の仕組みにフラストレーションは蓄積される一方だっただろう。それで

も高校を卒業し、浜田省吾は浪人生活を送ることになった。しかし、予備校に通うことはなく、遊び

まわっていた。

 そんな様子を父親が知り、大喧嘩となって浜田省吾は家出をした。家を飛び出して転がり込んだ先

は、京都に住む友人の下宿だった。その友人は彼女と同棲しており、一緒に暮らしていると何かと不

都合が生じた。

 男女の気配を感じると、浜田省吾は遠慮をして野宿に近い生活をした。そんな生活を数ヶ月間送

ると、風邪をこじらせて深刻な体調不良となった。そこで意地の張り合いを止めた浜田省吾は広島の

実家に帰った。その時、父と母は何も言わず向かい入れ、それ以来浜田省吾は父親と喧嘩をすること

は無かったという。その後はまじめに勉強をして、神奈川大学に進学した。


ネットより抜粋



次回の記事より4回に分けて・・・・ムフフです!