CHAPTER 6:ビッグギターブームの到来
 
1960年代後期はマーティン社にとって一時代の終焉であったと言えよう。しかし、その60年代末期の幾つかの作品は後に驚きとともに迎えることになる「大量生産の70年代」の道案内を果たしたのであった。1968年、26年の長きを経てかの有名なD-45が再浮上したのであるが、マーティンの歴史研究家であるマイク・ロングワース氏こそ、この生産が再び評判となったなによりの功労者と言えよう。
 
ロングワース氏はマーティン社で働いていた時、マーティンギターを芸術品の域に高める為の真珠加工技術の知識を会社にもたらした。実際、ロングワース氏は彼自身で何台かのD-28を古いD-45を基本にボディ全体すべてに渡り真珠細工をやり直し「コンバート」している。これは贋物を作る試みではなく最高の技術として賞賛された。230台のD-45がインディアンローズウッドへの変更以前、60年後期にブラジリアンローズウッドを使用して製造された。
 
1969年D-35とD-45の狭間を埋めるべく全く新しいモデルが発表された  :D-41である。この機種の特長は真珠による装飾が表面の周囲にのみ施され、全ての淵に装飾が施されさらに高価になるD-45と対照的であった。通し番号シリアル#252014で始まる31台のD-41はブラジリアンローズウッドが使われたが残りはすべてインデアンローズウッドが使われた。
 
1970年代初頭はアコースティックギターに大変な注目が注がれていた、(まさに時を同じくして起こったジェームステイラー、ロギンスアンドメッシーナ、そしてシールズアンドクロフツに代表される新しい「ソフトロック」の時代)マーティン社は前例のない比率でその生産高を伸ばした。比較として取り上げれば、1961年度会社は507台のD-28を製造したが、1971年度には5466台となっている。マーティン社は5種類のドレッドノート(同様に数多くの小型モデル)を揃え毎月拡大を続ける市場へ投入した。
 
かつてない増加をみせた需要に対応しなければない立場にあっても、マーティン社は依然として手作業を重んじ、生産過程の変更よりも職人の育成を選んだ。マーティン社は1971年にその生産がピークに達したが、以後、1974年と1975年までドレッドノートはその生産のピークには達しなかった。この2年間に30000台を越えるドレッドノートが製造された。(1974年度:D-18―3811台、D-28―5077台、D-35-6184台、D-41-506台、D-45-157台 1975年度:D-18-3069台、D-28-4996台、D-35-6260台、D-41-452台、D-45-192台、 注:Sモデルは上記生産台数に含まず)