上阳赋見て思う 将軍は何故猜疑される? | 越若のひとりごと

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古典芸能「義太夫節」の太夫です。愛犬と日々思ったことの記録です。芸もあれば、ぼんやりノホホンゆるい内容です。

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「史記」とかを読むと歴史上中国の人望・実力のある将軍の末路は、ほとんど悲惨な終わり方をしている。

 

私の一番好きな将軍「楽毅」

春秋戦国時代末期中山国の宰相の息子に生まれ、国を趙国に滅ぼされ(この時の太子を守り孤軍奮闘の戦いと無血終戦、太子と配下を守り通した所が凄くカッコイイ)。

流浪し燕国の国王に請われ将軍となり、小国ながら大国斉への恨みを晴らす戦いをする。戦い方が上手い、斉へ同じ様な恨みを持つ国家連合軍を作り斉をほとんど征服。あと三城を攻略すれば燕国王の望みを完遂できたのに、燕王逝去、馬鹿太子が後を継ぎ、楽毅を疑い、別の将軍と交代させ、楽毅は危険を感じて趙国へ亡命、瞬く間に斉は復活し、燕国王、泣きつくが楽毅は拒絶。楽毅は無事他国で尊敬と繁栄の中に人生を全うする。楽毅の悲しさは手柄を立てすぎると妬みと猜疑心を起こすのではと心配りをしながら敵と戦わねばならない事。一番の敵が味方の王というのが悲し過ぎますね。

 

上阳赋の萧綦は強すぎて人望がありすぎて、楽毅のように皇帝・皇后・宰相に猜疑心を煽ってしまったんですかねぇ。

 

二番目に好きな将軍「白起」

春秋戦国末期、秦の武将。「史記」では、敵の能力を測り変幻自在に作戦を変え、奇策を無限に繰り出しほぼ無敵、天下を震わせたと評している。一方で、その伝の末尾に非常に有能な将軍であったが、(身内であるはずの)范雎の讒言から逃れることができなかったと記している。

とにかく強い、が投降した兵を兵糧が足りないと反乱を起こしそうな少年兵240名を生き埋め、捕らえた敵兵の斬首の数が半端ない。伊闕の戦いで24万を斬首、華陽の戦い13万斬首と黄河へ士卒2万沈め、陘城の戦い5万斬首。無敵すぎて他の将軍も王も恐れてる。

紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。

自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。(ウィキペディア)

また、兵には優しく、身体に膿で苦しんでいる兵に、自ら介護し膿を啜り、食べ物も寝具も一兵卒と同じだったという。こういう人故、兵はこの人の為なら死ねると、無敵の軍隊を作り上げた。

敵には冷酷非情な将軍だが、自軍の兵には限りなく愛を注ぐ将軍。悲劇の人ですね、人付き合いも不器用そうに思える。そんな所がすきだなぁ。

 

上阳赋の萧綦のモデルのような気もする。部下と同じ食事に待遇。戦死した部下の家族を守り孤児を養う。

 

三番目は 上手く生き残った将軍王翦

春秋戦国時代の武将、秦王政の11年に初めて史書に登場し、同僚の楊端和らと共に鄴を攻めて、さまざまな計略を用いてこれを陥落させている。

趙を破った後、秦の覇業を妨げうるのは、もはや楚のみとなった。楚へ侵攻した秦軍は、楚軍の奇襲を受けて大敗した。楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し、楚の平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が先に述べた通り60万の兵を与える。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。

王翦は、楚軍の迎撃に出るが、政自ら見送った席で「秦王様、戦勝の褒美には美田屋敷を賜りたい」と言い、政は「何を将軍に不足させようか」と答えたが、王翦は「今まで戦功を上げても美田を賜ったものはおりません。この機会に得ておきたいのです」と返し、政はこれを聞いて笑い、改めて確約した。王翦はその席のみならず、行軍の途中ですら、勝利後の褒美は何がいいか、一族の今後の安泰は確かかなどを問う使者を政に逐一送った。そして国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍を待ち受けた。楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた。一方の秦軍も防御に徹して砦から出なかったため、膠着状態となった。楚軍は、攻めても挑発しても秦軍の出てくる気配が全くなく、砦も堅牢なため、これでは戦にならないと引き上げ始めた。しかし、これこそ王翦の待っていた機会であった。追撃戦で楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料と休息を十分に与え、英気を養っていたのである。英気が余って遊びに興じる兵達を見て、王翦は「我が兵は、ようやく使えるようになったぞ」と喜んだという。王翦が指揮を執る秦軍は、戦闘態勢になかった楚軍の背後から襲い掛かり、散々に打ち破った。王翦は更に楚へ侵攻し、翌年にこれを滅ぼした。

王翦は、政に逐一送った使者について、部下から「余りに度々過ぎます。貴方はもっと欲の無い人だと思っていましたが」と訊ねられた際、「お前は秦王様の猜疑心の強さを知らない。今、私は反乱を起こそうと思えば、たやすく秦を征し得るだけの兵を指揮している。秦王様は自ら任せたものの、疑いが絶えないだろう。私は戦後の恩賞で頭が一杯であると絶えず知らせることで、反乱など全く考えていないことを示しているのだ」と答えた。

王翦は政の猜疑心の強さと冷酷さを良く理解していた。引退を申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たないと判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑いで処刑・一族皆殺しにしかねなかったためである(樊於期という実例もある)。自分の意見が採用されなかったことで、政が「王翦は老いて衰え、弱気になった」と思っていると察し、素早く将軍の座から退いた。実際に引退を申し出た際、政は「許す」と言っただけで全く引き止めなかった。このため、政本人から将軍に請われ、ほぼ全軍を与えられてもいい気にならず、猜疑を打ち消す心配りを絶やさなかったのである。

王翦は、楚の平定後も政に疑いを持たれることなく、天寿を全うすることが出来たと言われる。(ウィキペディア)

 

いやー、並々ならぬ猜疑心、ビックリですわぁ。どんな王でもこうなるんだと理解すれば王翦のような笑われても良いから必死に褒美しか思ってません、兵力がどれ程あろうとも一人でそれを使うという頭の使い方はできませんアピールが必要なんですね。

 

と思うと、上阳赋の萧綦への陰謀はもっとも至極なストーリーだと思う。

どんな社会でもあるんでしょうなぁ…恐ろしや恐ろしや。