196411月、東京オリンピックが終幕した直後に「所得倍増」政策で名を残す池田勇人が総理職を辞し、代りに佐藤栄作が政権に就きました。前年度の第4四半期には、オリンピック開催に向けて多くの公共事業がなされるなどして実質GDPの対前年伸び率は13.1%という高率を記録していたのですが、1965年度に入ると実質GDPの伸び率は急落し、1965年第1四半期には4.9%にまで低下しています(下のグラフを参照ください)。

 

出典:内閣府の『国民経済計算統計』に示されたデータを素に計算して作成。

 

国を挙げてのビッグイベントが終わればその反動で経済成長の勢いは一時は下がるというのは当たり前で、それでも四半期ベースでの実質GDPの伸び率が4.9%、そして年度伸び率は6.2%というのは決して悪いものでありません。実際に、その後日本の経済成長率は1年ほどのうちに回復しています。要するに、騒ぐことのほどではないはずです。

 

日本経済の成長を支える輸出額(実質額ベース)は、当時急速に増え続けていましたし、実際、1964暦年の対前年伸び率は17.5%という高い値であり、65年に入ってもその輸出額の伸びの勢いは維持されていました(1965年伸び率:17.5%)(下のグラフを参照ください)。

 

出典:財務省『貿易統計』に示されたデータを素に計算して作成。

 

しかし、これしきの「不況」とも呼べないほどの不況(後の1973年のオイルショックが引き起こした不況に比べればその深刻さの違いは明らかです:これについても上のグラフを参照ください)に世情は騒ぎ、それに政府と日銀は反応したのです。

 

この年3月に、山崎豊子著『華麗なる一族』のモデルとなった山陽特殊製鋼が倒産し、さらには山一證券の破綻が囁〈ささや〉かれたのです。これらは、景気循環の波の底に当たる時期には往々にして起きるほどのことで、1966年以降の景気回復は日本の輸出産業の力が大きく落ちるということはなかった以上、容易に推測できることでした。けれども「所得倍増」総理の跡を継いだ佐藤栄作新総理は、高度経済成長に慣れた日本人の期待を裏切ることはできないと考え、不況の大きな象徴となる大手証券会社の倒産を何としてでも食い止めるために、金融業界を指揮する立場にあると自負する日銀官僚たちと手を組んで、「金融システムの秩序維持」を金看板として史上初めての「日銀特融」(日銀が企業に直接、無担保融資する)を実施して、山一證券の倒産を防いだのです。

 

この騒動の中で、同年63日に大蔵大臣職に就いた福田赳夫は、「財政法」を改正して、政府財政の赤字補填を目的とした「特例債」、つまり赤字国債、を発行したのです。

 

蔵相着任14年前の福田赳夫

【画像出展:Wikipedia File:Takeo fukuda.jpgAuthor:毎日新聞社】  

 

福田の前任大蔵大臣は、常に公共事業の拡大を軸に高度経済成長を求める田中角栄でした。政府財政を拡大したい田中は、税の自然増収を最大限に当てにした予算を組んでいたのですが、しかし、1965年には景気の停滞により税収が期待通りには伸びず、財政の赤字化が危ぶまれました。そこで、高橋是清蔵相の下で陸軍担当主計官として働いた経歴をもち、是清の愛弟子を自負する福田は、昭和恐慌克服のために赤字国債を乱発して世界の他の先進国に先駆けて景気を回復させた是清の教えに倣って、躊躇なく赤字国債を発行する決断をしたのです。

 

福田が是清に倣わなかった唯一のことは、日銀に直接国債を引き受けさせる、いわゆる「財政ファイナンス」を行わなかっただけです。しかし、大蔵省官僚、つまり自分の後輩たち(福田は、主計局長にまで昇り、収賄の疑いをかけられて政治家に転向しています)、の強い反対を押し切って、「建設国債ではなく赤字国債(特例債)を発行するのでなければ趣旨が不鮮明になる」として戦前の反省のもとに戦後まもなく1947年)に制定された「財政法」を改正してまで、赤字国債を制度化することにこだわったのです。

 

しかし、日本独立後に景気が悪くなったのは1965年が初めてのことではありませんでした。7年前の1958年にも景気は悪化し、実質GDPの伸び率は6.6%にまで落ち込んでいました。しかし、景気はすぐに回復することが予見できていたし、一度赤字国債を発行して「財政の規模を大きくすると、際限なく歳出が拡大すると考えられた」ので、「当時の主計局長であった谷村祐は、財政方針の転換に否定的な態度をとった」(井出英策著『福田財政の研究:財政赤字累増メカニズムの形成と大蔵省・日本銀行の政策判断』〈2017/7、日本銀行『金融研究』〉による)のです。

 

日本は、日本の経済を回復させるためには財政拡大を追い求め続け、敗戦直後よりハイパーインフレを続け、GHQの指示をも無視してブレトンウッズ体制に参画しようともしなかったのですが、堪忍袋の緒が切れたアメリカ政府が本土から当時デトロイト銀行総裁であったジョゼフ・ドッジを日本に派遣して、日本政府に強引に超緊縮財政をとらせ、ハイパーインフレを収め、安定した円を前提として1ドル=360円の固定為替レートを設定し、日本が世界標準の形で世界経済に参画できるようにしたのです。

 

このとき以来、「均衡財政」体制を維持することが政府予算策定に当たっての基本的な姿勢でした。そして1964年以前の大蔵省はこの観念を強く保っていたのです。しかし福田は、この観念をたかだかこれしきの一時の不況を乗り切るためにボロを扱うようにして捨て去ったのです。福田は、昭和恐慌に勇敢に立ち向かった是清の姿勢を真似たのだというかもしれませんが、しかし、是清はそれより13年前の原敬内閣の下で蔵相の職にあったときに、軍事費を大拡大しながら選挙民の歓心を買うことを目的に民生予算も大拡大し、その財源として巨額の赤字国債を発行し、以降の金融市場を通じたノーマルな形での国債発行をできなくしていたのです。

 

そして、自国を戦場にしなかった日本の金本位制への復帰を戦場になったヨーロッパ先進国より遅らせたのです。つまり、自国貨幣、円、の信用に重きを置かなかったのです。

 

1965年の福田の原点は1931年にというより1918年にあるのであり、それは財政拡大を行う際には財政規律の維持にさほど留意する必要はない、という姿勢です。

 

 

福田は、一旦大蔵大臣の職を辞した後、196811月から19717月まで3年間弱、佐藤内閣の下で再び大蔵大臣の職を務めています。その間、一時14.9%であった財政の国債依存度は4.2%にまで下がっており、これは財政規律を重視した是清の薫陶が福田に及んだ成果だ、と評価する人たちがいます(下のグラフを参照ください)。しかし、財政規律を回復して国債依存度を低めるモーメントをつくったのは1966年に福田を継いで大蔵大臣の職に就いた水田三喜男で、福田は引かれたレールの上を歩いたに過ぎません(上述井出英策の著述に基づく評価で筆者も同意)

 

出典:内閣府の『国民経済計算統計』に示されたデータを素に計算して作成。

 

2度、大蔵大臣職を務めた後、福田は197311月~747月までの間三度大蔵大臣職に就き、さらに経済企画庁長官を経て1976年の暮れに総理になっています。その間、一旦赤字国債ではなく建設国債のみ発行していたものが、1975年に赤字国債の発行を再開し、しかも建設国債と赤字国債の発行高が急増し、総理職にあった1977年の国債依存率は32.9%という高率に至っています。

 

1980年代に入ってバブル経済が進行するとともに、税収も増えて国債依存度も低下するのですが、しかし、ゼロ又はマイナス、つまり国債の元本を一部返済する、という水準には至らず、日本政府の国債依存体質は決して改まることはなかったのです(下のグラフを参照ください)。つまり、経済状況の如何にかかわらず、常に財政は赤字国債発行による歳入を当てにするという、MMT派の学者顔負けの政策運営を基本とすることに日本の政治体制はなったのです。

 

出典:財務省が国債発行高について示したデータを素に計算して作成。

 

「財政規律を重視する」高橋是清を英雄と仰ぐ大蔵省主計局長経験者の福田が明けたパンドラの箱の蓋は、以降選挙民の歓心をひくことにますます熱心となったポピュリズム政治家たる総理や大蔵・財務大臣の下で、決して閉じられることはなかったのです。

 

野党であった民主党も、2009年に政権に就いたときには無駄をなくする「事業仕分け」を行うという大向こう受けを狙ったプレゼンテーションを行う一方で、本来単年度毎に国会でその発行限度額が定められるべき特例債、赤字国債、の発行限度額を3か年度にわたって一括して定めるというような「積極的な国債発行政策」をとり、パンドラの箱の蓋をさらに大きく開け、自民・公明党以上に財政規律については緩い姿勢を示したのです。

 

こうして、日本には常に予算の大盤振る舞いを求め続ける共産党を含め、政府財政に規律をもとめる姿勢をもつ政治勢力はまったくなくなってしまいました。このようなオール・ポピュリズム政治風土の日本で、深刻なものでもない不況や若干の税収不足を口実として、赤字国債の発行を可能にした福田赳夫の犯した罪は誠に重大である、と言わざるを得ません。

 

原敬→高橋是清→福田赳夫の太平洋戦争敗戦をはさんだ財政規律軽視の姿勢の流れは、大正から令和に至る「理念と覚悟のない経済破綻への道」へと繰り返し日本を追い込み続けています。そしてこれは、日本の貨幣、円、の信用の維持を重大なものであるとは考えないという態度と表裏一体のものである、というのが私が主張したいところです。

 

 なおこれを、連載『貨幣「円」の信用は、いつまでもつか?』の第7回とします。