それでは、サン=シモン主義者を代表するフランスの産業革命を主導したナポレオン3世の経済顧問であった経済学者のミシェル・シュバリエが最も重要な産業と考えたものの一つである製鉄産業について、渋沢はどのように取り組んだかを考えてみます。なお、鉄道産業については、製鉄産業についてよりはるかに大きな問題を抱えていますので、次回以降複数回にわたって書いてみたいと思っています。

 

 日本の近代製鉄産業発展の最初の礎を築いたのは、維新政府ではなく民間企業家です。20世紀に入った直後に、日本製鉄産業は官営が中心のものに構造転換されてしまいました。今回は、そういう話です。

 

「近代製鉄の父」と呼ばれる男がいます。大島高任〈おおしまたかとう:1826-1901年〉が、その人です。明治維新に先立つ11年前の1857年に、南部藩の釜石に洋式高炉を建設し、日本で初めて鉄鉱石を原料として連続出銑操業に成功しています(銑鉄は何かについて、下に書いています)

 

銑鉄は、高炉で鉄鉱石を高温で燃やして、その中に含まれる酸素分を除去、つまり還元、することによって炭素を45%含むだけの鉄につくり変える作業です。銑鉄は、まだ強靭性に欠けるので、その後転炉や平炉を用いて炭素の含有量を2%にまで下げます。そうしてできるのが鋼で、この作業を製鋼と呼んでいます。 

 

日本の伝統的製鉄は「たたら製鉄」と呼ばれ、日本に比較的多く産出する砂鉄を原料としていました。ちなみに、「たたら」とは、炉に風を送り込むために工人たちが踏み続ける鞴〈ふいご〉のことです。ヨーロッパでは早くから水力により鞴を動かすことが行われましたが、日本では最後まで人力が使われました。

 

 

たたら製鉄における踏み鞴による送風作業

【画像出展:Wikipedia File:Japanischer Tatara-Ofen mit Flügelgebläse (18 Jahrhundert).jpg

 

たたら製鉄でつくられる鉄は、日本刀や鉄砲をつくる原料としては不足のない品質のものでしたが、砂鉄には不純物のチタンが含まれているために、近代砲に必要な強靭さを発揮することはできませんでした。19世紀に入って日本近海に列強の軍艦が頻繁に現れるようになって国防の意識に目覚め始めていた者たちは、それゆえに砂鉄ではなく鉄鉱石を使った洋式の製鉄産業の開発が急務であることを悟ったのです。

 

南部藩士であった大島高任は、江戸や長崎に出て蘭学を修めたのですが、長崎でオランダ人のヒューニゲンに出会い、『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳するなどして近代製鉄と大砲製造法について学んでいます。そしてその後、近代産業の発展に熱心であった水戸徳川藩主の徳川斉昭に請われて那珂湊に反射炉をつくり、大砲を鋳造することに成功しています。 

 

大島高任の銅像

【画像出典 Wikipedia File:Takato oshima.jpg

 

しかし原料はたたら鉄であったので、西洋の大砲に対抗する力がないことについては如何ともしがたいところでした。そのために、良質の鉄鉱石を産する南部藩釜石に洋式高炉を建設し、1857年に銑鉄の連続生産に成功して、近代製鉄の可能性を証明してみせたというわけです。ただ、釜石に建設された日本初の近代高炉の建設費用をいったい誰が負担したのか? この問いに答えを与える資料に終に巡り合えませんでした。おそらくは斉昭が負担したが他藩の者に領内で高炉を建設させたとは公言したくないので、南部藩がその辺りをあいまいにしたのだろう、と私は推測しています。

 

 

釜石の鉄鉱山資源を活かして日本の近代製鉄産業発展の最初の礎を築いたのは、維新政府ではなく民間企業家です。

 

1872年に、政府は右大臣岩倉具視を特命全権大使とする米欧使節団を送っているのですが、イギリスの実情をつぶさに見た岩倉らは、「全国に鉄治の業の盛んなること我一行の目を驚かせし所たり」と報告しています。そして富国強兵を標榜する新政府の中で製鉄所建設を担当することとなった工部省(今の経済産業省の前身)、幕末に製鐵の実績がある釜石の鉄山に着目するのですが、米欧使節団の報告を尊重してイギリスに技術指導を仰ぐことを決定します。そして、そこで既に成功の結果を見せていた大島より申し出られた意見を受け容れず、イギリス人技師にその開発方法を丸投げしてしまいました。

 

そして当時の日本の鉄需要量を無視した大型施設が建造されたのですが1875年)、結局安定した銑鉄の生産に失敗します1882年)。現地の状況を理解しないで十分に供給のめどが立たない木材を燃料に選んだのが失敗の第一の原因ですが、木材に代わって使用したコークスも質が悪く、炉内に火力を行き渡らせることができなかったのです。そして、この高炉は廃止されてしまいます。

 

結局は、製鉄技術をよく理解しない工部省官僚が、現地で成功体験をもつ日本人技術者を信じず、日本の実情をよく理解しない外国人お雇い技師を雇って行き着いた必然の結果であった、というのが私の考えです。この工部省官僚の悪弊は、その後も繰り返されることになります。福沢諭吉はこの有様を見て、「洋風に心酔して浪〈みだり〉に国財を費し、民間の工業未だ起らずして国力早く既に消耗するは、予言者を俟〈ま〉たずして明なり」(『覚書』〈1877年〉)と嘆いています。

 

維新後初の近代製鉄所建設の企ては一旦頓挫するのですが、当時、鋼鉄の生産を自ら行いたいと考えていた海軍は、釜石製鉄所の設備を横須賀に移したいとして、その無償譲渡について大蔵省の了解を得ます。しかしその直後に、釜石製鉄所は遠江国〈とうとうみのくに;現静岡県〉生まれで島津藩の御用達を勤めていた田中長兵衛に払い下げることが突然決定されます。当時大蔵大臣であった元薩摩藩人の松方正義が長兵衛に買い取ることを勧めたと言われています。

 

これが海軍と大蔵省との争いに発展しなかったのは、海軍は薩摩閥であったからではなかったかというのが私の推測です。また、工部省も反対しなかったのは、自らは失敗したという負い目があった上に、工部省内で有力な土佐藩閥が薩摩藩閥に対して有力ではなかったということでしょう。

 

田中は、幸いに冶金学者の野呂景義ら2人の有能な日本人技師を得て、高任の建てたものと同形の高炉を建設して、1886年に出銑に成功します(払い下げの過程については私は疑義をもっていますが、このことについてはここではそのことは議論しません) 

 

 

田中長兵衛と釜石鉱山田中製鉄所の30トン高炉

〔画像出典 Wikipedia File:Chobei Tanaka.jpg (田中長兵衛)File:Tanaka iron works, Kamaishi mine 07.jpg (釜石田中製鉄所高炉)

 

当時の鉄の需要者としては、陸海軍が先行していました。陸海軍は、当初より軍器を自ら製造することとして、それぞれに工廠〈こうしょう〉或いは造船所を運営していました。そして、鋼材も内製しようとしていたのです。この背景には、普仏戦争187071年)でのプロイセン(ドイツ)の勝利の大きな原因に、プロイセンが使った鋼鉄製のクルップ砲の威力があり(亜鉛玉と爆発物を詰めた接触雷管式の弾丸を発射する鋼鉄製のクルップ砲は、射程距離4,500mで、フランスの青銅製の前装砲と比べれば猛烈な発射速度をもっていました)、これ以降、世界は「鉄の時代」から「鋼鉄の時代」に移ったという観念があります。

 

そして、釜石製鉄所が製造した銑鉄は、実験の結果、軍器の製造材料として外国産のものに匹敵するとの評価を受けました。そこで陸海軍は、釜石製鉄所から銑鉄の供給を受けて、自ら鋼材をつくろうとしたのです。

 

しかし一方では、綿紡を中心とする軽工業の発展は土木建設や鉄道投資の盛況を促し、鉄の需要は急増していました。そのため、純粋に軍需目的に限った中規模の製鉄所を設けるのではなく、大規模な製鉄所を建設すべきだと海軍省は考え、1891年以海軍省所管で大官営製鉄所を建設する案を帝国議会に提出しています。

 

しかし、当時反政府的な動きに終始していた「民党」と総称される自由党、立憲改進党など民権派各党が激しく反対し、そのような政争の中で、この案は葬り去れてしまいます。日本人一般の間で製鉄産業を振興することの重要性が理解されていなかったことが、このことから伺えます。

 

『学問のすすめ』〈初版:1872年〉で有名な福沢諭吉は、1879年に『民情一新』のなかで、「鉄は文明開化の塊なりと。…… 今後わが日本においても、鉄を掘り、鉄を製みんし、これを自由自在にすること軟弱なる飴を取り扱うがごとくにして、もって鉄道を敷き、電線を架し、機関を作り、船を作り、武具を作り、器什を作り、人間需要の品物いっさい、鉄を元にして製作するに至りて、はじめて文明開化の日本を見るべし」と、サン=シモン主義者と同様に、製鉄産業が日本の産業革命を進めるための基盤だということを説いているのですが、それは日本人一般の知識とはなっていなかったと言えます。

 

そうした折、日清戦争189495年)が時代の雰囲気を激変させました。強い軍を持つために大規模な製鉄所をつくるべきとの世論が一挙に盛り上がったのです。当時既に多くの民間製鉄所がつくられていました。ただそれらは、いずれも小型で銑鉄を製造するにとどまっていました。それでは不足で、銑鉄から鋼鉄までを一貫して製造する大規模製鉄所の建設が必要であるというのです。

 

こうして、1895年に帝国議会に製鉄所建設決議案が出され、1896年に農商務省所管で官営製鉄所を建設することが決定されました。所管省が海軍省ではなく農商務省とされたのは、1891年に海軍省が提出した案が政争の具とされて否決された轍を踏まないという判断であったのでしょう。もっとも、1891年の海軍省提案でも、年2.8万トンの生産を計画したうち、陸海軍用が0.6万トン、産業用が2.2万トンと民生用が全体の8割近く(78.6%)を占めていたのですから、より現実的な判断がされたということでもあります。

 

その決議に先立って、1892年に農省務大臣に就いた後藤象二郎は、製鉄所は官営とするのではなく民営とすべきであると主張し、その意見を容れた内閣は、1893年に製鉄所を民営とするよう閣議決定を行っています。そしてその民営で製鉄所を建設するという方針は次の農省務大臣榎本武揚にも引き継がれています。年間国内需要13万トンのうちその半分近い6万トンを新たに建設する銑鋼一貫製鉄所で建設するというのです。当時の国内生産率はおよそ2割に過ぎませんでしたので(下のグラフを参照ください)、これで一気に国内製鉄産業を推進するという大胆な計画でした。

 

出典:飯田賢一著『鉄の100年 八幡製鉄所』(1988年)に示されたデータを素に作成。原典:東京鉱山監督署編『日本鉱業誌』(1911年)

 

しかし、後藤と榎本によって設定されたこの近代産業革命推進の提案に応える国内の企業家は現れませんでした。三井や三菱といった大財閥を含めてもです。なぜそうであったのか? それを解説する資料を、私は見つけられませんでした。理由は、いくつか考えられます。

 

第一に、当時の年生産量2.2万トンの1.3倍にも当たる量を生産するリスクに耐える自信がなかった、特に関税自主権が奪われていた当時にあって、大量に安価で輸入される外国製品に勝って生き残る自信がなかったし、政府が必ず保護してくれるという保証もなかった、ということでしょう。

 

第二に、これは本当に私だけの憶測ですが、官営を望んでいる軍官僚と深い結びつきをもっていた民間の大企業家たちは、その軍の希望に逆らってまで自ら製鉄業を始めるとは言い出せなかったのではないでしょうか。

 

 

このようにして日本初の大規模銑鉄一貫生産工場が官営で建設されることが決まったのです。つまり、維新後の日本政府が製鉄産業が国のインフラとして重要だと考えるようになったのは、サン=シモン主義者たちが主張したように、あるいは福沢諭吉がそう覚っていたように、「それが日本の近代産業を発展させるために行う日本型の産業革命の基盤となる」との認識をもったからではなく、日本の軍備を強化させるために必要な産業だと理解したからです。

 

 

このために、大規模な銑鋼一貫生産製鉄所を官営で建設すると再び決定した政府は、炭鉱が近くにあり、地震が全国一少なくて地盤が安定した北九州の八幡に官営製鉄所を建設することを計画し、完成させています1901年)(商務省が雇った外人技術者の指揮に従って一旦完成はしたものの、計画量の半分しか生産することができず、民営釜石製鉄所を成功させるために田中長兵衛が指導を受けた冶金学者の野呂景義に技術協力を仰いで、ようやく計画量の生産に成功していますが、これは余談です) 

 

 

八幡製鉄所
〔画像出典:Wikipedia File:Governmental Yawata Iron & Steel Works.JPG

 

原料となる鉄鉱石は、当初は釜石鉱山から調達することを考えたのですが、そこからの供給量では不足だということがわかったので、急遽調達先を中国揚子江南岸にある大治鉄鉱〈だいやてっこう:湖北省〉に変えています。日本の近代製鉄は、当初より外国産原料に依存する形で出発したのです。

 

 

こういった、日本の維新以降20世紀初頭までの製鉄産業の振興について、渋沢は自ら製鉄企業を興すことに関わってはいませんし1887年に東京製綱という名の会社の設立に関わり、初代会長にも就いていますが、この会社は艦船用のマニラ麻ロープの国産化を目的としてもので、製鉄産業との関わりはありません)、あるいは新しい巨大銑鋼一貫製鉄所を国営とすべきか民営とすべきかという議論にも関わってはいません。渋沢は、サン=シモン主義者たちと同様のほどには製鉄産業が近代国家のインフラとして鉄道と同程度に最重要であるという観念はもっていなかったのです。

 

 

開業して9年後の1910年には、官営八幡製鉄所の経営は黒字になったと報告されています。製鉄所の技術開発によるコスト低減努力不断になされていましたが、しかし、その効果は限られていたと推察します。なぜなら、1920年代前半まで、日本の鋼材の輸入依存率は6割という高率であり続けたからです(下のグラフを参照ください)。日本からの工業生産物の輸出増を阻害していた高い輸出関税については、1911年に結ばれた日米通商航海条約によって日本はその率を決定する自主権を回復していましたから、それ以降の高い輸入率は関税の高さによって説明することはできません。 安くて高品質の鋼材を生産する技術を、開発できないままでいたのです。

 

出典: 飯田賢一著『鉄の100年 八幡製鉄所』(1988年)掲載データを素に作成。
輸入割合=輸移入高/(国内供給高=国内生産高+輸移入高-輸移出高)として計算。

 

1次世界大戦191418年)時にはヨーロッパからの鋼材の輸入が途絶え、鉄がおおいに不足したために、民間製鉄所が多く建設されたのですが、何れも官営製鉄所に比べれば規模が小さく、また平時に戻ると忽ちそれらは経営難に見舞われました。

 

渋沢栄一記念財団は、渋沢は1916年に中野武営らと中国桃冲鉄山の鉱石を原料とした東洋製鉄を創立し、あるいは、中国産銑鉄での製鋼事業を目的に1917年に設立された九州製鋼の株主になったと記載しています。同名の会社は今も存在していますが、現在の東洋製鉄は1967年、九州製鋼は1987年と何れも太平洋戦争敗戦後に設立されたものであり、財団が挙げる渋沢が関わった2社とは無縁です(それ以前の1912年に渋沢は日本鋼管㈱の発起人に名を連ねていますが、主要創業者ではなかったようです)

 

そうした中、政府は、鉄の供給体制の強化を図るために、1934年に「製鉄合同」を行います。そして経営難に苦しんでいた民間製鉄企業の多くが、これをむしろ歓迎しました。渋沢が設立したという東洋製鉄も、日本製鉄に吸収されています。

 

反対したのは、神戸製鋼所㈱、川崎造船所㈱、日本鋼管㈱など僅かでした。このうち川崎造船所(1939年に川崎重工業㈱に社名を変更)は、GHQの支援を得て太平洋戦争直後に臨海銑鉄一貫製鉄所を政府官僚や日銀官僚たちの反対を押し切って建設し(1951年)、戦後日本の高度経済成長の起爆剤となった製鉄産業の基盤をつくることになります。しかし渋沢がつくった製鉄所は、政府の官営化推進政策に抗することはありませんでした。

 

この大合同により1934年に創設された日本製鐵㈱のシェアは、銑鉄については78.2パーセントに達し、粗鋼についても51.5パーセントと市場を圧しました。経済学者の多くは、官営八幡製鉄所の廃止と日本製鉄の発足をもって、「官営事業が民営化された」というのですが、いったいその理解は正しいのでしょうか?

 

新設された日本製鐵㈱の株式の大半は、大蔵省が所有し、その割合が過半を割ることは一度もありませんでした(創設時に78.2パーセント、解散時に51.5パーセント〈橋本寿明著『巨大産業の交流』《岩波書店『日本経済史6 二重構造』蔵》〔1989年〕による〉)。新会社の社長には、民間人ではなく、農商務省次官を務めた元政府官僚である中井励作〈なかいれいさく〉が就きました。役員名簿を手に入れていませんが。恐らく官営八幡製鉄所出身者が民間企業出身者を圧したことでしょう。

 

さらに、日本製鐵が発足した後、政府の長期需要予測に従い日鉄を中心とした大型銑鋼一貫生産体制を推進し、鋼材の配分を日鉄優先とし、民間製鉄所の高炉建設を抑制させるなど民間製鉄所を圧迫しました。その一方で、日鉄をカルテルの中心に据えた価格上昇抑制を製鉄業界に指示しています。そして1930年代後半には、鋼材は、専ら軍需品と貨物船を生産するのに使われ、民間産業用に配分される割合は、1937年には4分の376パーセント)であったものが、その後急激に縮小して、太平洋戦争開戦の年1941年)には5割を切っています(宮崎正康・伊藤修著『戦時・戦後の産業と企業』〈岩波書店『日本経済史7 「計画化」と「民主化」』《1989年》蔵〉より)

 

このように、新会社の活動内容も、民間企業のそれとはまるで言い難いものです。つまり、形式上は、官営会社が民営化されているのですが、その実情はと言えば、官営八幡製鉄所が多くの民営製鉄所を飲み込んで、大きく膨れ上がったのです。そして、特に問題であるのは、官営製鉄所に民間企業のものが吸収されるということについて、既に挙げた一部の企業を除く多くの企業経営者も望んだということです。

 

これらの人々は、経営困難な状況にある自分たちの製鉄会社が、官営製鉄所に吸収されることによって救済されるということを強く望んだのであり、自分たちで自由な競争市場を守るという近代資本主義者としての矜持〈きょうじ〉をまるで持ちあわせていませんでした。市場の大きな部分を官営企業が占めるという近代資本主義国家では異常な事態と、自由な市場経済体制の構築を強く望むことはない企業経営者群は、日本を近代資本主義社会に向かった道から遠ざけました。

 

渋沢がこの議論にどう参加したのか、ということを記録する資料はありません。サン=シモン主義者たちが国を発展させる産業の基盤だと考えた製鉄産業の発展について、日本への帰国後に渋沢が大きな関心を寄せることはなかったのです。

 

そして、明治維新後民営事業として発展しかけた日本の製鉄産業は、世紀番号が19から20に変わったその瞬間に、官営事業を中心とする構造に転換され、そしてその構造は1945年に日本が太平洋戦争で敗戦するまで、強化され続けたのです。

 

こうして、市場での自由競争がなされなかった官営に頼り切った日本の製鉄産業は、いつまで経っても成長することなく、20世紀前半期にはアメリカにも、或いはイギリスやドイツに比べてもその生産量がごくわずかで(下のグラフを参照ください)、日本の近代産業革命の推進を阻害したばかりでなく、太平洋戦争での大敗北の直接の原因と一つなりました。

 

出典:以下の2つのデータを素に作成。

1925年:出典: 清水憲一著『官営八幡製鐵所の創設』掲載データの内、銑鉄生産量。1940年:http://www.luzinde.com/database/nation_industry.htmlに掲載の粗鋼生産量データ。原典は『USSBS米国戦略爆撃調査団報告書』(1946年)らしい(未確認)。

注意:1925年と1940年についてデータ出典許と用語が違うので厳密な年比較にはなっていない可能性がある。

 

製鉄産業の明治維新後の歴史は、「日本資本主義」がいったいどのようなものであるのか、を如実に表しています。

 

これを、連載『日本資本主義の父は近代資本主義の破壊者』の第4回とします。

 

次回からは、鉄道産業についてどのような深刻なことが起こったのか、そして渋沢が一体どのような重大な役割を果たしたのか、という話題に移っていきたいと思います。