前回のブログ(310日付『1967年パリ万博の原動力』)で示したように、渋沢栄一が幕府使節団の一員としてパリを訪れた時に、フランスはサン=シモン主義に基づく産業革命の途上にありました。そして、サン=シモン主義者たちがフランスの産業革命を実行するために最も重要だと考えたのが、金融施策としては民間銀行の整備、産業育成策としては鉄道の敷設と製鉄業の育成でした。

 

そこで、これから渋沢がこれら施策について日本への帰国後どのように取り組んだかを見てみましょう。そうすれば、渋沢が一体何をフランスで見て、そしてそれをどう理解したかがわかるはずです。

 

 

渋沢がパリから横浜港に戻ったのは、1868年(明治元年)113日のことで、幕府は既になく、行き先をなくした渋沢は、駿府に移封された徳川家の藩主として静岡で蟄居することとなった慶喜の許に静岡藩士として身を寄せます。

 

 

駿河、遠江、三河の3国に押し込められ、静岡藩とした徳川家の石高は、幕末に800万であったものがその10分の170万石にまで減らされていました。その小さな藩に、江戸からは1万人にものぼる徳川家の藩士が移って来たのですから、静岡藩の喫緊の課題は藩の財政を何とかすることでした。そして、慶喜の許で一橋家で商才を発揮していた渋沢は、この課題に取り組むことを求められたのです。

 

 

その頃、できたばかりの明治新政府は、財政破綻していた徳川幕府を引き継いでいたのですから、これもまた財政窮乏という状態にありました。

 

財政困難を補うために、元福井藩士で政府の金融財政策を担当する徴士参与となった由利公正の発案で、京都・大阪・東京の3都の前期的大資本、つまり幕末の豪商、の資産を利用することを図り、先ずは「会計積立金」と称する献金をさせています285.5万両)。しかしそれでも不足しているので、次に銀貨などの正金とは交換できない不換紙幣の太政官札を発行し、これを各藩に1万石の石高毎に1万両の割合で合計4,800万両を貸し付け、それで物産開発を行い、その成果を根拠に13年間で回収しようとしたのです。

 

「この貸し付け方法は、かつて幕藩体制のもとで国産奨励政策として、産業資金として藩札を貸し付けて国産を奨励し、藩がそれを物産会所を通じて独占的に購買し、これを領外に販売して正貨を獲得するという藩営商業方式(つまり専売事業:筆者註)の明治版」(浅田毅衛著『明治前期殖産興業政策と政商資本』〈1985年明大商學論叢〉より)です。

 

これを行うために設置されたのが商法司であり、それを実施したのが大阪商法会所と江戸商法会所でした。三井組、小野組、島田組などの前期的大資本が商法司の元締めとなり、太政官札を流通させ、それを原資に各地の物産開発を奨励しようとしたのです。

 

何の根拠もなく巨額の紙幣を刷って、それを地方政府に配って殖産興業の資金とするというのですから、今の日本政府とまったく同じ発想です。当時は中央銀行たる日銀がなかったので、日銀が紙幣を発行して政府が発行する国債を買うという回りくどい手順が省かれているだけです。

 

その政府施策に沿って各藩にも商法会所が設けられました。

 

各藩が石高割貸付を受けるに際しては、維新政府あてに金札拝借歎願書を提出することが求められ、そのために各藩は借受金を殖産興業を行う原資とすると謳ったのですが、実際には、財政がひっ迫していた多くの藩ではその財政赤字の補塡に流用しました。そのためにこの策は国全体としては失敗したのですが、静岡藩ではやり方は少々違っていました。

 

 

静岡では、幕末期に、茶等の駿河国の特産品を独占的に仕入れ、横浜港へ送って外国へ輸出することを目指して、萩原四郎兵衛(1815-86年)をリーダーとして地域の商人たちが会所(取引所)を設立していました。商業としての事業のあり様という観点から見れば、これはまさに、新政府が目論んだ商法会所と同じ機能をもったものでした。つまり静岡では、政府の商法会所設置施策を受け容れる商人たちの基盤が既にできていたということになります。

 

そこで政府施策に沿って商法会所を設置したい渋沢たち藩の官僚は、1869年明けの1月に萩原たち地域の商人と談合し、半月のうちに商法会所の設立を決定したのです。幕末期から駿河の商人たちを再編成したいと考えて会所を経営していた萩原たち商人と、静岡藩の財政を再建する方法を模索していた渋沢たち藩官僚の目的がうまく重なり合ったのです。

 

静岡の商法会所は、わずか8ケ月で8.5万両の利益を上げたと主張する者がいます(プラン静岡の会著『連載企画:幕末の渋沢栄一~尊王攘夷の志氏に垣間見えた商売の才能~』のうち『静岡の茶生産を支えた商法会所・常平倉』〈2020年〉)。静岡藩が1868年(明治元年)末までに政府より得た借入金は53万両(太政官札)とされていますので、これを根拠にすると静岡の商法会所は9ヶ月で16%というとてつもなく高い利益率を実現したことになります。いったい、できたばかりの組織がそれほどの大成果を上げることは可能なのでしょうか?

 

そこで、私なりの計算をしてみました。

 

渋沢は、帰国の際に幕府使節の費用の清算をする事務を通じて知り合っていた三井組の大番頭の三野村利左衛門に静岡の商法会所が得た太政官札を正金に交換するように要請し、三野村は、額面より2割ほど安い相場での正金との交換に応じています(三井広報委員会著『渋沢栄一と三井』より)。ちなみに、三井家は江戸時代より三井一族の家長たちは経営に直接携わらず、その総有財産を源にした経営を支配人、大番頭、に一任する「大元方〈おおもとかた〉」という制度をとっていました。だから、三野村は、実質上の三井の社長ということになります。

 

静岡藩が1868年末までに政府から貸し付けられた総額は53万両とされていますから、その運用を与った商法会所は不換紙幣である太政官札53万両を三井に渡して、換わりに42万両の正金を得たことになります。この年のインフレ率は年52.1%でしたから(下のグラフを参照ください)、8ヶ月間にはおおよそ34.7%のインフレがあったことになります。その間正金の実質価格が変動せず、インフレ効果によって太政官札の実質価格が35万両にまでさがっていたとすれば、その差額の7万両の含み益を静岡の商法会所は「太政官札ベースで」獲得したことになります。

 

 

出典:梅村又次著『松方財政と殖産興業政策』(1983年)に示されたデータを素に作成。

原典:新保博著『近世の物価と経済発展—前工業化社会への数量的接近』(1978年) 

 

件の資料が報告する8.5万両とは若干の差がありますが、まあおおよそ符合しています。静岡の商法会所が大きな利益を得た、というのはこのことを言っているのでしょう。しかし、物価はその翌年、翌々年に大きく下がり、1871年には1868年の水準に戻り、その後10年間ほどは安定していますから、この静岡の商法会所の含み益は2年間で霧散したということになります。

 

渋沢自身は政府に呼ばれて10月には大蔵省に出仕して、商法会所の頭取を長く勤めることはできませんでしたが、残った荻野たちは農村に資金や肥料の貸し付けを行い、米や麦の貯穀と米価の調節を行い、あるいは商社として物産取引を行い利を上げることに努めています。しかし、渋沢がいなくなってからは藩の財政維持を専ら求める藩官僚と、事業の拡大を求める商人の間に諍いが生じ、常平倉〈じょうへいそう〉と改称されていた静岡の商法会所は、1872年には廃止されてしまっています。

 

この名称変更は、政府から「商法会所が藩の資本で商業を行うことは版籍奉還の趣旨に合わないので再考するように」と命令があったからだ、と説明されています。しかしこの命令は、理不尽です。商法会所とは、もともとそのような機能をもつようにつくられるべきものであったはずだからです。正金に欠く政府は、不換紙幣である太政官札を流通させる目的で商法会所をつくらせたのに、静岡藩ではその意に反して太政官札を正金に交換して、太政官札の信用失墜に手を貸した、そのことは断じて許せない、というのが政府の本音であったのではないでしょうか?

 

これが私が方々から得た情報をつなぎ合わせて何とか組み立てた静岡の商法会所のでき上りから廃止までの顛末です。渋沢を礼賛する多くの図書や資料は、「商法会所」は、「合本主義」の観念に基づき渋沢がつくった「民間初の株式会社」であるというのですが、どおも、それらが描く「日本資本主義」の起源と実態の間には、大きな趣の違いがあるように私には思えます。

 

  

そうした折に渋沢は、民部卿兼大蔵卿の職に就いたばかりの元伊予国宇和島藩藩主の伊達宗城の推薦を受けて(1869年)、大蔵省の租税正〈そぜいのしょう:租税貢調の事務を所掌する租税司の長〉に任じられます。なぜ伊達は渋沢を呼んだのか? 薩長土肥といった雄藩からの出身ではない有能者を求めていた伊達は、おそらくは、第13代将軍家定の後継者問題が起こったとき、大老井伊直弼の意向に反して慶喜を推すほどのかんけいでであった慶喜から渋沢が経済に明るいことを聞かされていたのだろう、というのが私の推測です。 

 

 

大蔵省時代の渋沢栄一

【画像出典:Wikipedia File:Eiichi Shibusawa young.jpg

 

このときに大蔵大輔であったのが大隈重信、大蔵少輔であったのが井上馨であり、渋沢はその後大蔵権大丞親任官である卿(大臣)、勅任官の大輔、少輔に続く省内のナンバー4にまで出世した後、大隈と衝突し、井上とともに大蔵省を去っています。そしてその翌月に設立された第一国立銀行の総監役に収まったのです。

 

 

 第一国立銀行の初代本店 (東京兜町:三井組が為替座として建築していた)

〔画像出典:Wikipedia File:Dai-ichi Kokuritsu Ginko.JPG

 

渋沢が「設立した」と「言われる」日本初とされる民間銀行はしかし、「国立銀行」と名付けられています。ではなぜ、民間銀行に「国立」というタイトルが付いているのか?

 

「国立銀行」とは、英語の“national bank”を訳したものです。そして“national bank”は、アメリカの連邦法に基づき州の範囲に限定されずに活動する、つまり“state bank”ではない、民間銀行のことです。そして現在では、“national bank”は一般に「国法銀行」と訳すのが一般であり、「国立銀行」とは言いません。つまり、「第一国立銀行と」とは、日本全国を営業地域とする国法に基づき設置された最初の(民間)国法銀行を意味した言葉なのです。

 

そしてその国法とは、1872年(明治5年)に定められた「国立銀行条例」のことです。1870年に当時の大蔵省輔(卿〈大臣〉、大輔に次ぐポスト)であった伊藤博文が、アメリカのニューヨークで銀行制度を視察した際に、アメリカの“national bank”制度のことを知り、帰国後にそれまでに発行された政府紙幣について兌換制度を停止して、民間の機関に金貨などの兌換硬貨との交換を義務付けた上で兌換紙幣としての銀行券を発行することを認めることにしたのです。

 

 

岩倉使節団の副使として米欧州を訪問した時の伊藤博文

【画像出典:Wikipedia  File:Iwakura mission.jpg

 

当時の日本では、イギリス型の中央銀行を設立すべきとする大蔵少輔吉田清成(元薩摩藩士。藩の留学生としてイギリスとアメリカに留学)とアメリカ型の分権方式の銀行を設立すべきとする吉田と同じ少輔の地位にあった伊藤博文の間に論争があったのですが、1864年にアメリカの財務長官であるサーモン・チェースが制定した国法銀行(national bank)に倣うべきとする伊藤の意見が通ったのです(「国立銀行条例」自体は、アメリカの“National Bank Act” ではなく、“National Currency Act”に拠っているとする議論があります〈高垣寅次郎著『ナショナル・カレンシー・アクトと国立銀行条例』〔1970年〕)。   

 

 

吉田清成(1891年より以前に撮影)

【画像出典:Wikipedia File:Dai-ichi Kokuritsu Ginko.JPG

 

 この間、三井組(江戸時代の豪商三井家のことですが、幕末→維新を生き残っていました)は、1871年に新銀行を設立しようとして「新貨幣銀行願書」を大蔵省に提出し、一旦は認可されたのですが、伊藤の激しい反対にあってその認可は取り消されています。独自に兌換紙幣を発行するほどの財力をもっていなかった新政府は、幕末から生き延びた前期的大資本の資産を利用して兌換貨幣を市場に流通させたいと考え、吉田らは三井の新銀行設立構想に同意していたのです。

 

これは、その後に多くの民間銀行が設立されるという見通しをもったものではなく、三井組に政府から独占的に貨幣の発行権を与えることによって、吉田が構想していたイギリス流の中央銀行の役割を代替させようという目論見をもったものでした(日本銀行著『日本銀行百年史』の著述を素に著者が解釈)

 

その議論がなされ、或いは動きがあった当時、渋沢は大蔵省少丞(小輔→大丞→権力丞に継ぐポスト)の職に就いていましたが、吉田少輔と伊藤少輔が大議論する間にあって、銀行制度についての議論の中心にはいませんでした。そして議論が決着するまでは、井上大輔の許にいた渋沢は、伊藤に反して中央銀行制度の導入を主張する吉田を支持していました(同上図書による)

 

 

井上馨(長州藩士時代:1869年に撮影)

【画像出典:Wikipedia File:Choshu-Kaoru Inoue.jpg

 

しかし、国立銀行条例がアメリカに倣って「国立銀行」制度を導入することが決定されると、大丞に昇進していた渋沢は紙幣頭を兼任して、国立銀行条例の作成を指揮しています。伊藤の決断で国立銀行条例はできたのですが、それを実務的に進めたのは渋沢だ、という実績がこうしてできたのです。

 

国立銀行条例ができると、三井組と小野組がそれぞれ別個に独立して銀行を設立しようとします。しかし、国立銀行方式に反対し、中央銀行方式を求めていた井上大輔と渋沢少輔事務取扱は、「三井組と小野組の双方に大きな圧力をかけ」(会計学者の渡辺和夫著『第一国立銀行の財務諸表と渋沢栄一』による)、両者が共同で1つの新銀行を設立するように強要したのです。

 

自由な民間会社の設立や運営を喧伝していたはずの渋沢は(渋沢は、大蔵省在任中に下記のような見解を公にしています)、日本最初の民間銀行の設立を民間企業の自由に任せず、力任せに政府の指導に従わせたのです。

 

「通商の道は政府の威権を持って推し付け、又は法制を以て縛るへからす。されは苟〈かりそめ〉にも役人たるもの商業にたつさはれは、必ず推し付け、又は縛る等の弊を生するものなり。是政府商業をなすへからさる所以なり」(大蔵省の刊行した銀行について解説したF・ウェイランドの『経済学』を訳した『会社弁』と同時に出版された渋沢栄一著『立会会則』〈1871年〉より)

 

その上で、「三井組と小野組の対立により経営上の支障が生じることを懸念した渋沢は、両組の調整役として総監役の設置を主張し」(渡辺和夫〈会計学者、商学博士〉著『第一国立銀行の財務諸表と渋沢栄一』による)、そして、新銀行の発足と同時に自身がその総監役に就いたのです。

 

渋沢たちは、三井組と小野組が合わせて2万株を出資するという銀行創立願いを拒否し、一般から株主を募集すべきだと主張しました。国立銀行条例では、5人以上の株主による株式会社とすべきと定めていましたが、公募条件は付されてはいなかったにもかかわらずです。しかしその株主公募に応ずる者はわずかしかなく、最終的には総株数は2万株を4,408株上回っただけでした。そして渋沢個人は、そのうちの1割に当たる400株を引き受けています。三井組と小野組が共同して新銀行を設立し、そして株式の一般公募を義務付けたことによって、渋沢は三井組と小野組に次ぐ新銀行の大株主に収まっています。

 

その様にして出来上がった第一国立銀行は、廃止されることとなった大蔵省為替方(国庫に収納する金銭の鑑定、受入れ、逓送、支出の事務をつかさどる機関)から大蔵省の官金出納業務を独占的に受け取り、さらに、三井組と小野組が掌握していた大蔵省以外の官庁や府県の為替方の既得権をも与ることとなりました。こうして、第一国立銀行は大蔵省と一体化した政商資本となったのです。

 

そうしてできた第一国立銀行は、「企業としての主体性は行政官僚が握っており、半官半民会社として不安な経営状態に」おかれたのです(元明治大学商学部長の浅田毅衛著『明治前期殖産興業政策と政商資本』〈1985年〉による

 

 

渋沢は、第一国立銀行を井上と共同して大蔵省の好む形につくり上げ、そして自らそこに天下りして「総監役」の地位を得たのです。そしてそれ以降、大蔵省は第一国立銀行を政府施策に沿って活動するよう、日常的にその業務を監督、指揮したのです。

 

 

「国立銀行」制度はこうして、伊藤が持ち帰ったアメリカの銀行制度(national bank)を素とした分権型の民間銀行制度であったはずのものが、その後井上と渋沢が条例を書き、そして第一国立銀行を設立するという実務の過程で、第一国立銀行を実質的に中央銀行の役割を果たすように大改ざんされたのです。それが、官界から民間に天下った渋沢の本質です。そして同時にそれは、「日本資本主義」を象徴するものであるのだ、というのが私の見方です。 

 

 

第一国立銀行の次に渋沢が関わってつくられた会社は、1873年に設立された、民間初の抄紙会社です(1893年に王子製紙と改称)。「抄紙」とは、「紙を抄〈す〉く」という意味で、抄紙会社とは洋紙を製造する会社という意味です。その頃盛んになった活版印刷には和紙は不向きであったので、洋紙の需要が急増したので、これに応えようとしたものです。

 

渋沢が、三井、小野、島田の3組を勧誘して、大蔵省紙幣寮(紙幣の製造・発行・交換などを業務とした大蔵省の部署。渋沢は大蔵省在職中にその長を務めたことがあります)に出願して認められ、設立されました。それら3組がそれぞれ45%、25%、10%、そして渋沢が10%、その他10%が出資しています。工場が竣工する前に小野組と島田組が倒産したため、(理由は下記の通りです)、資金不足を三井組の追加出資と渋沢が総監役を務めていた第一国立銀行からの融資で乗り切っています。

 

政府は、三井、小野、島田の3組に、戊辰の役の頃より公金を扱うことを任せていましたが、維新以降は巨額の公金を無担保、無利子で預けていました。3組はこれを原資として米相場、生糸の取引、さらには鉱山業などへの業務拡大を行っていました。しかし時代が安定するとともに、政府がそれらとの特別の関わりをもち続けることについての世論の反発が生じたため、3月以内に公金全額に相当する担保を差し出すことを、無理を承知で要求したのです。

 

それができなかった小野、島田の両組は、それが原因で倒産したのでした。しかし、渋沢とともに政界から下野して三井の専収会社(三井物産㈱の前身)の社長の席にあった井上馨が大蔵卿の大隈重信働きかけ、3組とも一挙に潰せば金融が混乱するとして説得を続ける一方、オリエンタル・バンク(イギリス東洋銀行)から融資を受け、それを政府への支払い財源として、三井組は難局を乗り越えることができたのです。

 

つまり、こういうことです。三井家、小野家、それに島田家という江戸時代を代表する豪商は、幕末に至って幕府の命運が尽きかけているということを早々と悟って、幕府に隠れて薩長土肥などの討幕勢力に、軍事費や活動費の援助を提供していたのです。その功を認めた維新政府の大蔵省や内務省の幹部官僚となった元西南日本雄藩の武士たちが、維新後にそれらの豪商に格別の優遇措置を施していたのです。

 

しかし、新政府が安定するとともに、幕末期から引きずってきたその関係を清算することがそろそろ必要となったと新政府官僚が判断し、それらの前期的資本との関係を断つ決断をしたのです。

 

それでもなおそれらの家のもつ財力を利用したい井上(馨)=渋沢の新興政商チームは、その新政府の動きに抗って、三井組の存続、さらには新政府からの優遇措置の延長を図ろうと必死に画策して、そのことに成功した、ということなのです。

 

こうして、小野家、島田家、という二つの前期的資本は破綻したのですが、もうひとつ前期的資本で三井家と並んで有力であった鴻池家〈こうのいけけ〉は幕末→維新の激動を乗り切っています。これは、鴻池家が幕末に討幕勢力に肩入れすることには慎重で、西南日本雄藩とは一定の距離をとったことに原因があります。

 

鴻池家は、そのために維新政府からの特段の優遇を受けずに、維新後には三井家ほどの隆盛を見せることはなかったのですが、しかし小野家や島田家のように破綻するという悲劇に会うこともなかったのです。こうして、鴻池家は、明治期に三井ほどの一流財閥にはならなかったものの、二流の財閥として生き延びたのです。

 

当時、ひっ迫する政府財政を改善するために地租税が新たに設けられたことから(1973年)、全国で土地調査が行われ、地主と認められた者にはその所有権や土地面積、地価が記載された地券が発行されたことから、地券を大量に印刷する必要が発生していました。そのため、操業開始翌年から、大蔵省から抄紙会社に地券状用紙の大量発注され、この官需が抄紙会社の創業期の立ち上がりを支えたのです。

 

このように、抄紙会社は、政府の税制改正(その準備事務に渋沢は深くかかわっていたと思われます)により大蔵省が急に印刷する必要が生じた洋紙を提供するために、大蔵省から退いた渋沢が、大蔵省在職時にその関係を強めていた三井組ら3政商に働きかけてつくらせた会社であり、また、それら出資者のうち、三井組だけが破産を免れたのは、渋沢が大蔵省在職時にともに働いていた井上馨が大蔵省に働きかけて政府からの預け金についての担保提供を猶予させるを認めさせたからです。

 

つまり、抄紙会社はその設立の経緯から、純粋に自由な市場で生まれた民間会社ではなく、大蔵省との強い絆の下でつくられた政商といって間違いではない会社です。渋沢が大蔵省を辞めた後関わった第1、そして第2の会社は何れも、大蔵省と関わりが強く、そしてその収益の大半を大蔵省からの発注により得ていた会社なのでした。

 

 

こうしたことにより渋沢は有力な政商の大株主となりました。そして渋沢は、新しい会社が創設されるときに、自らの資産の一部を投資するだけではなく、第一国立銀行からも多額の融資を受けていました。渋沢が、生涯で第一国立銀行から借り入れた資金の総額は1226,000円にものぼっています。

 

「渋沢は新たな株式引受けの原資を得るために、自らが役員に名を連ねる会社であっても投資としてある程度有利な条件で場外市場も利用して積極的に売却していた。渋沢は設立した会社の支配を強化することよりも、新たな会社の設立原資を得ることを優先して行動していた」(島田昌和著『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』〈2011年〉より)のです。こうして長くもち続けないで所有株の価格が上がったところで売り抜けて、膨らんだ資産をさらに新たな投資資源にするという動作を繰り返すことにより、渋沢は多くの会社に投資し続けることができました。

 

これが、渋沢が生涯に500ともいわれる多くの会社の設立に関わることができた方法ですが、それは同時に、「渋沢流の錬金術」であったと言ってもいいと思います。

 

 

尚これは、連載『日本資本主義の父は近代資本主義の破壊者』の第3回に当たります。

 

次回以降、明治初期の鉄道と製鉄産業の発展がどの様になされたのかについて話します。