幕府官僚たちは、財政については上等な統計資料を残していません。享保の改革とか天保の改革とか、大改革があったときだけ、幕府の財政についての比較的詳しい統計が残されていますが、その他の年は、いわばどんぶり勘定に近かったと思います。現代の政府官僚も得意な対前年度の増減を見るという程度だったと思えます。そして、時折は幕府の金蔵にある現金を勘定しなおしていたことでしょう(その統計はある程度残されています)

 

しかし、人口に関してだけは、幕府官僚はきちんとしていました。吉宗が8代将軍職に就いて6年目の1721年以降6年毎に確実に調査をやっていて(第2回目だけは5年後)、今はその資料によって江戸時代中期以降の人口変化が分かります。しかしその人口統計調査が第22回の1846年を最後に、プツリと止んだのです。

 

人口を知るというのは、政権に国を統治するという明確な意思があったとしたら絶対に欠かせないことです。にもかかわらず、それまで行っていた人口統計調査をやめたというのは、1852年の幕府官僚にもはや全国を統治する覚悟の多くが失われていたことを窺わせます。1852年と言えば、ペリーの率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に現れる前年のことです。ペリーが襲ったのは意欲満々の官僚たちではなくて、自信とやる気を半分方喪失していた無気力な官僚たちであったということです。交渉の当事者は違っていたかもしれませんが、それを送り出した政権中枢の人たちはです(第12代将軍家慶〈いえよし〉+老中首座阿部正弘)。

 

それでは、田沼意次〈たぬまおきつぐ〉が18世紀後半に現代日本の経済構造となる官僚と特権業者が癒着して高値市場を管理する株仲間制度を確立した後、いったい何が起こっていたのでしょうか?

 

それ以降、幕府が治める京、大坂以東の地域においては、余分に干拓できる土地をなくし、土木技術の農耕技術も吉宗以降の技術鎖国と新技術開発禁止によって進歩しないので農業が発展せず、そして自由を奪われた都市経済は減退し続けていました。

 

そのため、天明の凶作に原因した大飢饉(178288年)で米価が高騰して悪性インフレに陥った時以外は、デフレ経済が続きました。そして幕府財政も悪化を続けたのです。

 

そこで幕府官僚は再び、財政改善のための安易な策に走りました。1819年に1736年以降流通していた元文小判を改鋳して、それより金の含有量が14パーセント少ない文政小判を発行したのです(金の含有量2.29匁→1.96匁)(江戸時代の金貨の金含有量の推移については下のグラフを参照ください)。これで、1両改鋳するごとに17パーセントの差益が発生します。

 

出典:Wikipedia(江戸の三貨禍制度)に示された各小判の量目(重さ)と品位(金の含有率)を素に計算して作成。 

 

そうして金貨の供給量が拡大された結果、それまで大凶作のとき以外には常にデフレ傾向にあった市場が、ついにインフレ傾向に変わったのです(物価〈米価〉の推移については、下のグラフを参照ください)。

 

出典:岩崎勝著『近世日本物価史の研究』(1981年)掲載データ等を素に作成。

 

しかしそれでも幕府の財政悪化は止められず、後に天保の改革を主導する水野忠邦が老中に就いて2年経った1837年には、文政小判を改鋳して天保小判(金の含有量1.70匁)を発行しています。

 

天保の改革中途の1843の幕府財政の歳入のデータが残されていますが、それによると歳入のうちおよそ4分の124.2%)が改鋳差益(出目〈でめ〉)によるものとなっています(下に8代将軍吉宗が行った享保の改革当時との比較を示しています。なお、金額はインフレ要素を取り除いた1730年価格でし増しています)。今でいえば、赤字国債依存率24パーセント、と言ったようなところでしょうか?

 

出典:飯島千秋著『江戸幕府財政の研究』(2004年)掲載データ等を素に作成。

 

その後も幕府財政の改鋳差益(出目)依存率は急騰し続け、それからさらにおよそ20年経った1964年には、その比率は7割68.7%;大口勇次郎推計)に達しています(下のグラフを参照ください。歴史経済学者によって改鋳差益依存率は、大きな差があります)。 

 

出典:各種文献より飯島千秋、田谷博吉、黒正巌、大口勇次郎による推計を採取して、それを素に作成。

  

天保の改革が水野忠邦の失脚によって終わってから8年後の1853年にペリーが浦賀沖に現れるのですが、その時の幕府財政の改鋳差益依存率は4割達していたと推測されます(複数の歴史経済学者の推計値から私が大まかに判断した値です)。つまり、幕府財政の歳入の半分近くは年貢その他正常な財源によるのではなく、改鋳差益であるということです。そしてそれは結局のところ、通貨を扱う商人などから強制的に収奪するということを意味しているのですから、市場はその分実質的に小さくならざるを得ないということを意味しています。幕府がその財政を維持しようとすればするほど、国の、具体には今日、大坂以東の東日本の、経済構造は破綻の度を高めざるを得ないということです。

 

水野忠邦

【画像出展:Wikipedia File:Mizuno Tadakuni.jpg

 

冒頭に、その前年の1852年には人口統計調査が行われておらず、幕府の幹部官僚たちの治世の意欲が大いに削がれていたのではないかと話しましたが、この頃幕府財政を支える屋台骨は日を追うごとに音をたてながら崩れていたであろうと推量されます。それを毎日耳にする将軍家慶や老中首座阿部正弘のやる気が随分と失せていたとしても、不思議ではありません。

 

徳川家慶(左)と阿部正弘(右)

【画像出展:Wikipedia File:Tokugawa Ieyoshi.JPG(徳川家慶)、File:Masahiro Abe.jpg(阿部正弘)】

 

1858年の日部修好通商条約の締結がうまくいかなかったとしても、しようがないとしか言いようがありません。ハリスとの談判に立たされた岩瀬忠震〈いわせただなり〉一人で何とかなるものではありませんでした。

 

そうした中で、前回紹介した通り、日本通貨と外国通貨の交換が平城状態では行うことができず、幕府は既存の安政小判の3分の1の大きさ、金含有量しか持たない万延小判の発行を余儀なくされ、それは日本の通貨発行残高(マネタリーベース)の急拡大を発生させ、そのことをきっかけとしてハイパーインフレが始まったのです(上に掲げたグラフを参照ください)。

 

しかし、既に説明してきたとおり、その当時の幕府財政の改鋳差益依存率は4割に達し、さらに急速に上昇を続けていました。つまり、金貨の改鋳とそれによる改鋳差益の拡大を続けることを幕府は避けることができない状態になっており、そのことは通貨発行残高(マネタリーベース)を急拡大し、その結果、早晩ハイパーインフレが発生せざるを得ない経済状態に立ち至っていた、ということを意味しています。

 

私が、幕末にハイパーインフレを起こした真犯人は金の大量流出問題ではなく背後に真犯人がいる、と前回冒頭で言ったのはこのことを指しています。

 

1860年代に入って統幕活動が活発になり、1868年に倒されることとなった根本の原因は、このように幕府が国の経済を運営する力を完全になくしていたことだ、というのが私の主張です。政権を取り換える以外に、日本経済を尋常な状態に戻す手立ては残っていなかったのです。

 

次回は、明治維新直前に南北戦争を終えたアメリカが、その後どのような経済発展を起こしたのか、ということを話します。