江戸時代中期、18世紀末、田沼意次〈たぬまおきつぐ〉が江戸で”勇躍”していた時代に、東北地方の米沢藩(現在の山形県置賜〈おいたま〉地方)を治めたのが有名な上杉鷹山(うえすぎようさん;治憲〈はるのり〉、藩主在任→隠居して藩主後見:1767-1822年)です。ジョン・F・ケネディ大統領が日本で一番尊敬する人だとして知る日本人が多いのですが、それはNHK番組(『日本史探訪』)の誤報道で、事実は日露戦争を終わらせるポーツマス条約を斡旋したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが新渡戸稲造〈にとべいなぞう〉が書いた『武士道』(1900年)を読んでいて、その中に出てくる鷹山に感銘を受けていた、というのがどうやら真実のようです。

 

それほど日本贔屓〈びいき〉であったルーズベルトを裏切って、後の太平洋戦争への道を開いた外相小村寿太郎の罪は重いのですが、これは余談です。

 

上杉鷹山(治憲)

【画像出展:Wikipedia File:上杉鷹山.jpg

 

米沢藩は、上杉謙信の養子であった景勝が豊臣家の五大老として会津藩120万石を領したものの、関ヶ原の戦いで西軍につき敗戦し、転封〈てんぽう〉されてきたところです。石高は30万石で上杉家の収入は4分の1に減ったのですが、景勝が120万石時代の家臣6,000人すべてを連れて来たため、藩財政は日本中に聞こえるほど貧窮したのです。

 

当時は地球の小氷期にあたり、東北地方は頻繁な凶作に見舞われたのですが、有能な藩主に恵まれない米沢藩は次第に人口を減じ、特に1754年から4年続いた宝暦の大飢饉にあって人口は108千人から9万9千人へと1割近く8.9パーセント)も減らしています。そうして前藩主の重定が本気で藩領を幕府に返そうかと考えていた頃の米沢藩が最も困窮したいた頃、鷹山は養子として藩主に就いたのです。

 

鷹山は、人事を刷新して(改革反対者を粛清した「七家騒動」;1773年)倹約を徹底するほかに、天明の大飢饉にあっては死者を出すことのないほどの善政を施し、殖産興業を行い藩政を立て直した、というのが世に伝えられるところです。

 

確かに、鷹山の代になって人口減少は止まり、天明の大飢饉でも死者を宝暦の大飢饉のときの半分(約5千人)に抑え、その後人口を増加に転じています。実際、鷹山が藩主を引き継いだ後死去するまでの間に人口はおよそ7千人、宝暦の大飢饉時の最低人口に対してはおよそ1万人増やしています。

 

しかしそれでも、人口が減り始める前の1720年の人口に対して、それから5四半世紀後の明治維新直前の1860年までに、人口は3.2パーセント増えたに過ぎません。それに対して、討幕に成功することになる長州藩の人口は、同じ時期に48.8パーセントも増えているのです(下のグラフを参照ください)。長州藩も関ヶ原の戦い後に防長二州(周防と長門)に押し込められ、石高を110万石から30万石へと4分の1に減らされています。しかし、それでも長州は蘇り、さらに発展したのです。

 

出典:米沢藩人口:吉田義信『置賜民衆生活史』国書刊行会 (1973) 長州藩(防長2州)人口:石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』山五青写真工業 (2005))

 

それでは、その差を産んだのは一体何だったのか、というのが大問題です。

 

それは、鷹山の仕事っぷりよりは長州の人口が伸びた理由を探る方が分かりいいと思います。長州藩の発展を実現させた原動力は、藩営の専売事業です。

 

長州藩は、撫育局〈ぶいくきょく;撫育とは「かわいがって育てる」の意〉という組織をつくって、その会計を特別会計として藩の一般会計から切り離しました。いまの時代に当てはめれば、県の企業局というような組織にしたのです。一般会計の財政は赤字にして、自藩は貧しいと経済に疎い幕府官僚に信じ込ませる一方で、撫育局では、塩、紙、藍〈あい;当時の唯一の染料〉、櫨蝋〈はぜろう;ハゼを原料とした蝋〉、綿織物などを農民に生産させ、それを全量買い上げて藩の独占産物とし、それを京・大坂の豪商たちと連携して日本中に販売し、莫大な利益を産んでいたのです(吉永昭著『近世の専売制度』〈1973年〉による)

 

ただ、専売事業が藩の財政を潤した一方で、それに貢献した農民たちが村外への移動を禁止され、利益はすべて藩に収奪されて貧窮した生活を強いられた、という点は付け加えておかなくてはいけないでしょう。

 

ちなみに、上杉鷹山は藩財政を改善するために漆蝋〈うるしろう;漆を原料とした蝋〉の生産を振興したのですが、結局それは長州藩が生産し始めた櫨蝋に対する価格競争力をもたず、藩財政への寄与は小さく留まったのです。それに代表されるように、全国市場で通用する低廉高品質の産物を大量に生産するほどの事業経営力を長州藩はもったのです。また、天明の大飢饉に応じて鷹山が採った窮民救済の策の中には莫大な額の商人から強制的な借金があり、それによって商人の発展は大いに抑制されています(横山昭男著『上杉鷹山』〈1968年〉より)。それほど、長州藩と米沢藩の経済力には差があったということです。

 

西日本地方は、地球の小氷期を原因とする冷害の影響を東北地方ほどに受けなかったという幸運に恵まれてはいたのですが、朝鮮半島や中国に近い西南日本の雄藩は、長崎の出島でポルトガル人や中国人と頻繁に会い、世界の情報を得るとともに、それらの国と密貿易を行うなどして、幕府や、あるいは京、大坂の商人以上に経済知識と事業力をもっていました。例えば、後の討幕運動の有力な主導者となる高杉晋作と木戸孝允〈きどたかよし〉は、撫育局にある金融・倉庫業を行う部署である越荷方〈こしにかた〉の頭取に任命され、活躍しています。

 

有能なビジネスマンでもあった高杉晋作(左)と木戸孝允(右)
【画像出典:Wikipedia File:Shinsaku Takasugi.jpg (高杉晋作)、 File:木戸孝允・伊藤博文.jpg 著作権者 国立民俗博物館 (木戸孝允)】

 

 この時代、日本は東西に大きく2分されていたのです。一方は、京・大坂という大商業都市を含めた畿内地方、さらに東海から関東、そして東北に至る幕府の直轄領と幕府に従順な諸藩が治める畿内→東日本地域、そしてもう一方は、薩摩、長州、土佐、佐賀といった積極的で近代に向けた殖産興業を盛んに行う西南日本雄藩たちを中心とする西日本地域でした。

 

北関東から東北に至る地域については、上杉鷹山が再興した米沢藩を含む西奥羽地方の人口が1721年からの5四半世紀間に辛うじて人口を維持したものの、東奥羽地方と北関東地方はそれぞれ2割、あるいは3割と大きく人口を減じ、江戸や京、大坂を含む大都市部ですら、人口は1割も減っています(下のグラフを参照ください)。 

 

出典: 鬼頭宏著『[図説]人口で見る日本史』(2007年)掲載データより作成
注意: 蝦夷地(北海道)の人口の伸びは特に大きい(455)ので、図示しなかった。

 

飢饉になると冷害の発生する東北地方や北関東地方のみならず、都市住民も同様の被害を被っていました。元々衛生状態が悪くて出生率が低かった上に、幕府の窮民救済策がない中で、米価の高騰により農村以上に米を手に入れることが困難であった都市住民は、栄養不足により「江戸煩い〈わずらい〉」とか「大坂腫れ〈ばれ〉」と呼ばれた脚気などの疾病が蔓延し、或いは乳児死亡率が上昇して、18世紀の都市部の人口は、むしろ減ったのです(下のグラフを参照ください)。

 

出典:鬼頭宏著 『人口で見る日本史』(2007年)掲載データを素に作成。

 

それは、当時の三都(江戸、大阪、京)の人口の推移にも現れています。18世紀半ば以降、その人口は大きく減ったのです。 

 

出典:Wikipedia 原典:斎藤誠治著『江戸時代の都市人口』(『地域開発』19849月号蔵)の掲載データを素に作成。

〔記事の訂正〕1873年分のデータを外しました(2月18日14:03分)

 

同じ時期にアメリカや多くのヨーロッパ諸国で都市部の人口が著しく増えているのに、日本の都市部では逆に人口が大きく減っているのです。これは、8代将軍吉宗がそれまでの楽市・楽座の制度を廃止して市場を規制する株仲間の制度を導入し、そしてその半世紀後に老中田沼意次がそれを幕府官僚と特権商業者のみが潤おう現代の日本の経済構造の原型となった官民癒着の管理体制にして市場の活力をなくしてしまったことの結果です。 

 

歴史学者のイメージに沿った江戸繁栄を象徴する新吉原の画(歌川豊国)

【画像出展:Wikipedia File:Utagawa Tohokunii I - Courtesans Promenading on the Naka-no-cho in the Shin-Yoshiwara, c. 1795.jpg

 

「江戸時代の後半期は、平和で安定した社会であった」、と歴史学者や学有識者と呼ばれる人たちは説明し、「やたら経済成長を求める現代人は江戸時代の人びとに学んだ方がいい」、とまで言うのですが、全国の総人口はほとんど変動していない中で(5四半世紀の増加率:プラス3.3パーセント)、実際には、畿内→東北地域の年平均人口増加率がマイナス3.2パーセント、西日本地域の年平均人口増加率がプラス19.0パーセントと衰退し続けた地域と成長し続けた地域の二つに如実に分かれていて、江戸時代の後半に安定していた地域などなかったのです(下のグラフを参照ください)。

 

出典:上と同じデータを素に計算して作成。

 

そして衰退する地域の側に政権があったのですから、やがて時代をとらえて成長する潜在力をもった西南日本雄藩が幕府を倒して新政権をつくることになる、というのは、時代の必然であった、というのが私の見方です。

 

竜馬などの英雄伝説だけで倒幕・維新を語るという歴史学者の姿勢では、この国の本当の歴史は見えてこない、というのが私の主張です。徳川幕府がどうして倒されなければならなかったのかということを科学的に理解しなければ、現代日本がどこに向かっているのかということを、正確に見通すこともできません。『歴史・経済ブログ』というのは、そのような了見に基づいて起こされた企画です。

 

幕末と2019年の日本は地続きで隣り合っているソックリさんだ、というのが私の感覚です。

 

次回は、日本がどうやってアメリカに初めて出会ったのか、という話をします。