NHKの大河ドラマでは、日本史上有名な人は大概主役や準主役として登場していますが、一度もその光栄にあずかっていない人物が一人います。18世紀末に活躍した老中〈ろうじゅう;幕府官僚の最高職〉田沼意次〈たぬまおきつぐ;1719-88年〉です。

 

 

田沼意次
【画像出典:Wikipedia File:Tanuma Okitsugu2.jpg

 

意次が失脚して、その後任として松平定信〈まつだいらさだのぶ〉が老中に就いた頃に流行った狂歌に、

 

「白河の清きに魚もすみかねて、もとの濁りの田沼恋しき」

 

というのがあります。意次は、従来は賄賂をとる性悪官僚として理解されていました。しかし、現代の日本の歴史学者の中に、「いや、彼は誤解されている。意次は、実は革新的で有能な経済官僚であった」と主張する者が少なからずいます。あるいは、近年はその方がむしろ主流であると言っていいのかも知れません。

 

そのためか、昨年1918年)前野良沢と杉田玄白を主役とするNHKの正月ドラマ『風雲児たち~蘭学革命篇』では、草刈正雄がその役を務め、意次の新しいイメージづくりに貢献しているようです。この番組はみなもと太郎作の同名の題の漫画をテレビドラマ化したものです。そしてみなもとは、おそらく日本の歴史学者の風潮に乗ったのです。

 

しかし、近年の多くの歴史学者たちは、まったく間違った理解をしています。意次は、従来言われているとおりの性悪官僚であり、そしておそらくは賄賂もとっていたと思われます。そして何よりも、意次が築いた幕府官僚にとって都合のいい経済システムは、それから2半世紀にわたって引き継がれており、1991年のバブル崩壊以降の経済停滞、実質ドルで表示されたGDPは減退し続けているのですが、の元凶となっているということを指摘しなくてはなりません。

 

 

戦前に、意次=賄賂官僚説を決定づけたのは、歴史学者の辻善之助のです。専門は日本仏教なのですが、どうしたわけか意次を人格ごと激しく非難する『田沼時代』〈1915年〉という著作を出版しています。それで40年間は、何事もなく過ぎたのです。

 

しかし戦争が終わり、日本が再び主権を回復してから3年も経った頃に1955年;『日本国との平和条約』の締結は1951年、発効は1952年)、その6年後に駐日大使に赴任することになる東洋史研究者のエドウィン・ライシャワーの弟子であった歴史学者のジョン・ホール1916-77年)が、意次は「近代日本の先駆者だ!」という驚天動地の主張を行ったのです(“Tanuma Okitsugu, 1719-1788, forerunner of modern Japan”〈1955年〉。日本語訳は出版されていません)

 

外国人に誉められることが大好きな学者たちは、アメリカの学者が日本の近世について興味をもってくれたこと、そしてその上に日本の高級官僚が世界の先端を行く画期的な経済を実行しようとしていたのだと評価されていることを聴いて、感激したのです。歴史学を革新できずにマンネリに陥っていた歴史学の学界を活性化できる可能性まで与えられて、有頂天になってしまいました。そうなれば、冷静なデータ解析などということは後回しにして、ホールの主張を我先にとなぞることになります。 

 

ホールを種に意次革新経済家論を盛んにした学者そのうちの代表的な一人が『田沼意次の時代』1991年)を書いた大石慎三郎です。おおよそホールの主張をなぞっています。以下、次回に話す重要な話題以外のことについての二人の主張とその誤りを具体に指摘することとします。

 

 

 今回は、まずそのホールが意次の革新性を表す第一の政策だとした、”通貨制度改革”が如何に姑息な目的をもち、そして無効であったか、ということを証明したいと思います。

 

江戸時代の貨幣制度が三貨制度と呼ばれる複雑なものであったことは、連載第2128日付『江戸時代を拓いたベンチャーたち!』)で紹介した通りです。その最大の特徴は、金貨が計数貨幣、つまり小判1枚が1両という価値をもっていたのに対して、銀貨は秤量〈しょうりょう〉貨幣という品位(純銀の含有率)を知ったうえで重さを測ってみないと価値がわからない通貨であり、しかも金と銀との交換比率は一定でなく日々の相場で変化するという具合であったということです。

 

で、革新的で大胆なアイデアをもった意次は、まったく新しい銀貨を発行して、一定数の銀貨で1両小判に交換できることを保証して、銀貨も秤量貨幣から計数貨幣に転換して、さらに金・銀貨の交換も互いの枚数さえ数えれば簡単に交換できる両替商要らずの近代的な通貨制度に転嫁しようとした、というのが、ホールが言い始め、大石がなぞった意次の革新的通貨施策です。

 

それを最初に試みたのが、1765年に発行された「明和五匁銀」です。これは当時流通していた元文丁銀の9分の1ほどの大きさしかない貧相なものでしたが、12枚で1両小判と取り換えるということでした。しかし評判が悪く、うまく流通しませんでした。

 

 

【画像出展:Wikipedia File:Bunzi-chogin.jpg Author:As6673(元文丁銀、File:Bunzi-gin5monme.jpg Author:As6673(明和五匁銀))

 

そして続いて1772年に発行されたのが有名な「南鐐二朱銀」です。この銀貨は純銀に近く(品位=98%)良質だという触れ込みだったのですが(南鐐〈なんりょう〉とは優れた銀を産すると言われる中国の土地の名ですが、実際に南鐐二朱銀の鋳造に中国産の良質銀が使われた気配はありません)、しかし明和五匁銀よりさらに小さく、その半分ほどの大きさしかありませんでした2.7匁)。その裏面には、「以南鐐八片換小判一両」と刻印されており、この銀貨8枚で小判1両に交換できるとしたのです)。

 

 

南鐐二朱銀(右:表面、左:裏面)
【画像出典:Wikipedia File:Meiwa-nanryo-2shu.jpg; 著作権者 As6673

 

随分と目先を変えてみたものの、やはり勢いよく通用するというわけにはいきませんでした。それらの銀貨の純銀の含有量があまりに少なく、既定の枚数の銀貨に含まれる銀の価値が1両小判(当時流通していたのは元文小判)に含まれる金の価値をはるかに下回るものであったからです。そのような不良貨幣をもつことに、両替商や商人たちが危険を感じたのです。

 

例えば、明和五匁銀では含有銀の価値は元文小判の金の価値の7割、南鐐二朱銀ではその割合は8割にしかなりません(西川俊作著『日本経済の成長史』〈1985年〉に掲載された数値に基づき計算)。つまりそれだけ少ない量の銀で、従来の金・銀貨と同等の価値をもつものとして通用させたのですから、新旧通貨を交換した時には、明和五銀では発行額の4割、南鐐二朱銀では2.5(それぞれ前述の比率の逆数)の出目が発生します。

 

“出目〈でめ〉”とは、新旧通貨の交換時に通貨発行元の幕府が手にする利益のことです。新旧通貨の含有希少金属の量が違っていれば、その差分を増歩〈ましぶ〉、つまり差額相当分の新貨を余計に手渡す、ことをしなければならないはずなのですが、それをより少量の増歩で、あるいはまったく増歩しないで交換することを幕府はよく行い、交換比率をズルすることでその差額を自分の収益としたのです。

 

計量銀貨、純銀通貨、などという従来とはまったく違った形式の通貨とすることで、増歩なしで新銀貨を発行し、4割、または2.5割という高い比率の出目、つまり新旧通貨の交換差益、を得ることが明和五匁銀や南鐐二朱銀の発行目的であったのです。両替商や商人は、そのような意次の目論見をやすやすと見抜くほどの能力をもっていたので、新銀貨は、いつまでたっても多数流通せず、”画期的貨幣制度改革”は実現できずに終わったのです。歴史経済学者の西川俊作は、「既存の丁銀も廃止されたわけではなく、貨幣制度としてはより複雑になった」と評しています。

 

家治・意次の統治の時代(176086年)から30年以上経った後でも(1818年)、計数銀貨の全銀貨に対する割合は6割に満ちていません58.5%)(下記グラフを参照ください)。そんなに流通に時間がかかるほど、市場から嫌われたということです。そして1820年代以降にその流通割合が急激に増えるのは、幕府財政がいよいよ悪くなって、幕府官僚がなりふり構わず出目の獲得に走ったからです。そしてこのことは、幕府の力を急速に衰えさえました。

 

 

出典:大塚秀樹著『江戸時代における改鋳の歴史とその評価』(日本銀行金融研究所/金融研究/1999.9蔵)に掲載されたデータを素に作成。

 

さらに意次は、庶民の使う少額貨幣である銭〈ぜに〉にまで手を伸ばし、銅貨ではなく希少金属としての価値をもたない真鍮製や鉄製の通貨まで発行し、銭貨の価値は大きく減ずることになりました。銭に頼るしかない庶民の生活は苦しいものとなり、そのような事態に自分たちを追い込んだ意次は庶民から嫌われに嫌われたのです。

 

田沼を称賛する大石は、「銭安相場はいわば江戸時代後半期の宿病であった」と他人事のように論ずるのですが、幕府財政と自分の身分のことを優先して庶民の生活を顧みることのなかった意次の意図した政策が産んだ結果であったことに間違いありません。

 

次回はさらに、意次の大きな悪意が、現代にまで至る日本の原型をつくった、という話をします。