秀吉に山崎の戦で負け1582年)、山中で百姓に殺された明智光秀の家臣であったがゆえに秀吉に処刑されることとなった斎藤利光の娘福は、母方の稲葉家に引き取られた後、稲葉家の縁者であった小早川秀秋の家臣稲葉正成の後妻となります。関ヶ原の戦いで大功をたてた秀秋のおかげで、才女であった福は後に第3代家光将軍となる徳川秀忠嫡子の竹千代の乳母となるという奇妙な運命を辿ります。

 

大奥に入った福は、その後、春日局〈かすがのつぼね〉という名号を得、江戸城一の権力者と言われるようになります。その春日局が城外に芝居見物に出かけたのですが、門限に遅れて帰ってきます。しかし門番は門を開けず、春日局はそこで夜を明かす羽目になったというのが、当時の世情での噂話です。

 

〔画像出典:Wikipedia File:Kasuga no tsubone.jpg(春日の局)、File:Babasakimon = a Gate of Edo Castle.jpg (馬場先門)〕

 

家康とその子秀忠の時代の幕府組織は、戦国期に合わせた体制を引き継いでいましたが、3代将軍家光の時代には、行政業務が多くなり複雑にもなったので、効率的な政務実行組織が必要となり、老中や若年寄の規定の創設に始まり、17世紀半ばには職務規定が奥坊主の茶の入れ方まで定めるほどに緻密なものとなりました。春日局が門外で一晩中待たされたというのは、幕府が腕力を競う武士の政権から文官としての能力が問われる官僚組織になったということが、江戸の町民たちにも知れるようになったということなのです。

 

ただ、17世紀の間は、農地開発が勢いよく続き、経済規模が拡大し、コメ年貢を財源とする幕府財政も歳入が増加しつつありましたから、会計事務に明るくない官僚が野放図な管理を行っていても問題は起こらなかったのです。しかし、17世紀から18世紀に入る頃、干拓できる沼や湿地がなくなり年貢収入が増えなくなると、たちまち幕府財政は大赤字に陥ってしまったのです。

 

出典:人口については、速水融・宮本又郎著『概説 1718世紀』(岩波書店『日本経済史 1』〈1988年〉蔵)掲載データを素に、耕地面積については、宮本又郎著『1人当り農業産出額と生産諸要素比率』(『数量経済史論集-日本経済の発展』〈1976年〉蔵)掲載データを素に作成。但し、データのない年については前後の間を定成長率で補完。

 

 17世紀前半まではまだ銀の産出があり、それが貿易収入となっていたのですが、半ば過ぎにはそれが枯渇し、代わりに銅を輸出したのですが、それも18世紀に入った途端に産出量が激減し始め、貿易収支まで赤字になってしまったのは、運が悪かったと言えば悪かったのです(銀と銅の産出量は数に示しています)

 

出典:銀については島根県立大学『大学生がつくる地域活性化サイト』掲載データを素に、銅の産出量については、独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構著『銅ビジネスの歴史』(2006年 )掲載データを素に作成。

 

1688年から1704年を元禄時代と呼んでいますが、いわばそれが現代日本の1980年代末から1991年にかけてのバブル期に当たっていたのです。つまり、江戸時代最後の豊饒の時代でした。

 

元禄期頃の世情(『人倫訓蒙図彙』〈1690年〉より)

【画像出典:Wikipedia File:Houka SumiyoshiOdori.jpg

 

幕府官僚の誰もがどうしてよいかわからないと頭を抱えていたところに、御三家の一つである紀州の藩主徳川吉宗が藩財政の立て直しに成功したとの知らせが届きます。幕府官僚は吉宗を招聘して将軍職に就け、幕府の財政を一切を預けます。

 

徳川吉宗

【画像出典:Wikipedia File:Tokugawa

 

自信と野心に満ちた吉宗は、紀州藩で成功した施策をそのまま幕政に適用します。それは第一に徹底した倹約、そして第二に歳入を増やすための耕地の干拓、そして第三にインフレを抑えるための発行通貨の大幅削減です。

 

しかし最初の策以外は、功を奏しませんでした。品位(金の含有率)を下げられていた金貨を元の高品位のものに戻したために流通通貨が減りすぎて、実体経済を支え切れなくなって大幅なデフレに陥ってしまいました(下図参照)。そして既にコメ余りになり始めていたところにコメを増産したために、米価はさらに下がって、結局のところ幕府が得たコメを売却しても歳入は増えずに逆に減ったのです。 

 

出典:岩崎勝著『近世日本物価史の研究』(1981年)に記載された大阪の米価についてのデータを素に作成。

 

幕府の歳入が増えるどころか逆に減ったことに慌てた吉宗は、農民の税率を公称“四公六民”から“五公五民”人にまで上げましたが、農地の干拓によってようやく土地持ちの自営農民になる者が増え、農村の中にも専ら茶や紙、あるいは飴などといった消費財を生産する者が出て、貨幣経済の恩恵を得ることができるようになったと感じていた人々の基盤を危うくする吉宗の治世に対する反発は激しく、頻繁に農民一揆が発生します(一揆の発生回数の推移を下に示します)。 

 

出典: 青木虹二著『百姓一揆総合年表』(1971年)掲載データを素に作成。

 

吉宗の時代に一時歳入は持ち直しましたが、吉宗後の幕府官僚たちは持ちこたえられず、米生産量の捕捉率をごまかすなどして実効税率を以前の3割に戻さざるを得なくなったため、結局コメ年貢による幕府の歳入は減り、幕府の恒久的赤字体質が定着してしまうことになりました。

 

そして最も重大な結果を産んだのは、倹約施策です。武士や町民に節約を強いるだけであればよかったのですが、商人と職人に幕府の指導のもとで株仲間という名の組合をつくらせて、その出入りを制限したうえで株仲間に談合して価格を抑制して統一させ、市場の自由を奪ったうえに、そもそも人々にモノを買うという欲を起こさせなければいいのだと言い、奢侈なものの販売を禁止しただけにとどまらず、新商品の開発と販売を一切禁じてしまったのです(1720年)

 

ちなみに、株仲間がヨーロッパのギルドと決定的に違うのは、ギルドは商人や職人たちが自ら自発的につくり、領主や王にその組織を認めさせ、自分たち自身で運営したのに対し、株仲間は幕府が商人や職人に強要してつくらせ、そのあり方や運営についても幕府が一々指揮していたことです。

 

紀伊半島の先端にある農村地帯から出てきた吉宗は、商業というものについての理解を欠き、当然のこととして都市経済というものを重要なものとは思ってはいませんでした。楽市・楽座の制、つまり商行為についての拠点港での関税以外の課税がない自由市場体制、は、信長が地域経済を活性化して自身の財力を拡大するために設けた制度で、それを継いだ秀吉、さらには家康までもがその意味を理解したのですが、吉宗の目には、税を収めない商人や職人など幕府財政に貢献しない贅沢を貪る〈むさぼる〉〈やから〉に過ぎない、と映ったのでしょう(土地・屋敷持ちの商人たちは、年貢、つまり固定資産税、は支払っていませんが、公共事業や築城などについての労役の負担は行っていました)

 

これで、自由市場は完全に死にました。そして、経済は発展を止めたのです。経済の主役を果たしていた農業の発展が止まったのですから、それに代わるべき商業や工業の発展を図るべきであったのですが、吉宗は逆にその目を完全に摘んでしまったのです。

 

ただ重農主義者と歴史学者から呼ばれる吉宗の幕府財政への貢献は、それまで中国から輸入していた生糸と茶の国産化を推進して、一転それらを有力な輸出産品に仕上げたことです。この吉宗が産みだした輸出財は、1950年代まで日本の輸出の太宗を支え続けました。とは言え、それは幕府の赤字を帳消しにするほど大きなものにはなりませんでした。

 

江戸時代から明治時代にかけての製糸と製茶

【画像出展:Wikipedia File:『東京築地舶来ぜんま い大仕かけきぬ糸をとる図』-Imported Silk Reeling Machine at Tsukiji in Tokyo MET DP147708.jpg(製糸)、File:Picking tea girls in Japan.jpg(茶摘み)】

 

吉宗は重農主義者として幕府財政に一切貢献することなく、重商主義者としては一定の貢献をしたというのに、経済学を理解せず、人の言ったこと、書いたことのみを史実とする文書主義の歴史学者たちは、吉宗に重農主義者というレッテルを貼っています。

 

こうして吉宗を「中興の祖」と呼ぶ現代の日本の多くの学者が言う「安定した太平の世」が生れたのです。しかし実際には、幕府のみならず多くの諸藩の財政は悪化を続け、地球の小氷期にあって頻発する凶作は東北地方を中心として全国にまで及ぶ飢饉を産み、疲弊した財政を営む幕府や諸藩の官僚たちは窮民を救う義務を自ら放棄し、元禄時代のような華麗な消費社会は2度と訪れることはなかったのです。

 

 

このように、日本で元禄時代が終わり吉宗の治世の時代に至っていた頃は、アメリカではヨーロッパからの移民が25万人とアメリカ合衆国独立時のおよそ1割に達し(人口の推移を下図に示しています)、独立時の合衆国を構成した13州のうち12州が設立され(ジョージア州の設立は1733年)、アメリカがようやく独立国へむかう形態を見せ始めた時期に当たっています。

 

出典:アメリカ統計局“Colonial and Pre-Federal Statistics”のデータを素に作成。

 

この頃のアメリカの移民たちの生活は、豊饒というような状況からほど遠く、農民であれ職人であれ、誰もが陽が昇ってから降りるまで働きづめていました。それでも、新天地を求める移民はヨーロッパから続々とアメリカにやってきて、人口は年平均3パーセントの勢いで増え続けていたのです。市場が拡大するだけでなく、工業製品は日々革新を続け、無骨なデザインであったアメリカの工業製品は、やがて性能ではヨーロッパ製のものを凌ぐようになっていったのです。

 

そしてその間、日本では工業の発展は完全に途絶えていたのです。吉宗は洋書の輸入を解禁したのですが、それらは吉宗の大趣味の天文学についてのものの他は、医学、薬学、地理学に関するもの限られており、当時大発展しつつあったヨーロッパやアメリカの工業に関する知識を得ることは、依然阻まれたままでした。

 

輸出は発展させ奢侈品の輸入は続け、海外から科学を学ぶことを解禁し、宗教・文化に関するものと工業についての知識の導入を禁止し続けた、それが吉宗の外交政策でした。それが、吉宗以降の江戸時代の”鎖国”というものの実態です。

 

”鎖国”という言葉は、19世紀初め(1901年)になって、ドイツ人医師の著書(ケンペル著『日本誌』)を訳すときに初めて使われた言葉で、それ以前には一般には使われていません。”選択的半鎖国(Selective Semi-Isolation Policy)”、と私が歴史学者であったら呼んだと思います。

 

吉宗の時代以降、日本の優れた機械職人がつくるものと言えば、例えばからくり人形や将軍や大名の脇に飾られる華麗な和時計といったような生産活動には直接つながらないものに限られていました。

 

田中久重の「万年自鳴鐘」(左)と茶運び人形

【画像出展:Wikipedia File:Myriad-Year Clock, made by Hisashige Tanaka, 1851, with western and Japanese dials, weekly, monthly, and zodiac setting, plus sun and moon - National Museum of Nature and Science, Tokyo - DSC07407.JPGAuthor:Daderot(和時計)、File:KarakuriBritishMuseum.jpgSource/Photographer PHGCOM (self-made, photographed at the British Museum)(からくり人形)】

 

次回は、吉宗が幕府の財政改革に失敗した後現れた老中田沼意次が、本当はどういった人間だったのか、ということを探りたいと思います。