前回の連載『日本とイングランドのパラレルワールド(122)』では、紀元1世紀から16世紀までの1,600年間、イングランドで市民革命が成り、日本では日本の市民革命であると私が主張する加賀国の一向一揆が1世紀近くその成果である「百姓ノ持タル国」が織田信長によってつぶされるまで維持されたというその歴史が、例えばヤマタノオロチ(八岐大蛇)神話といったディテールに至るまで、イングランドの歴史とほぼそっくりであったという話をしました。

 

今回は、日本とイングランドの二つの国の17世紀に入ってからの分岐が、その後どのようになったのかというのを、イングランドの市民革命のよりピュアな成果であるアメリカの建国と日本の17世紀以降の歴史を年代を追いつつ、どのように並行して進んだのかというのを、『日米両国の反パラレルワールド』というテーマで話してみたいと思います。

 

【画像出展:Wikipedia File:Flag of England.svg(イングランド)、File:Flag of Japan.svg (日本)、File:Flag of the United States (1777-1795).svg(アメリカ)】

 

イングランドの市民革命は、最初の清教徒革命ではブルジョワたちと一般の市民たちが共同して戦ったのですが、そのうち一般市民の側が過激な行動に走ったので、ジェントリ(貴族の直下に位する大土地所有者)とヨーマン(貴族やジェントリから土地を借りて大農地経営をする富裕農民)で構成するブルジョワジーと貴族が連携して王政復古に至って、その後王が再びキリスト新教を否定してヘンリー8世が立てたキリスト旧教に近いイングランド国教会の大勢に戻ったため、再度のブルジョワ革命である名誉革命によって完結しています。つまり、結果として、イングランドの市民革命はブルジョワ革命としての性格を色濃く持つことになりました。

 

しかし、清教徒革命が起こる前にイングランドを脱出したピューリタンたちは、1609年に多様な宗派に寛容なオランダに逃れ、最初はアムステルダムに住んだのですが、翌年には大学のあるオランダ第2の都市ライデンに移っています。

 

ピルグリム・ファーザーズが滞在した17世紀のライデンの街並み

【画像出展:Wikipedia File:Herengracht (Leiden).JPG

 

ライデンに逃れたピューリタンたちが、どのような人であったのか? イングランドの中部のノッティンガムシャー・カウンティにあるスクルービィ村で国王の命に背いて独自に教会を建設しようとして投獄や死刑の危機に追いやられていた人たちと伝えられています。そして『教会へ通うピルグリムたち』という題名の絵が残されています(下図参照)。

 

【画像出典:Wikipedia File:George-Henry-Boughton-Pilgrims-Going-To-Church.jpg

 

スクールビィ村は、現在でも300人を少し超えるほどの人口しかありませんので、17世紀初頭にはそれよりもまだ小さな50世帯ほどが住む小さな村であったことでしょう。教会へ通う盛装をしているのでよくわかりませんが、男たちが銃を担いでいるところを見ると、その多くが農夫のように見えます(同時代の日本でも、農民が害鳥獣駆除用の銃をもつことは許されていました)。少なくともブルジョワでなかった、ということは明らかです。このようなとても素朴な人たちが自分の命を賭すほどの強い信仰心をもったというのは驚きです。

 

そのピューリタンたちは、オランダのライデンで生活の糧を得るために様々な製造業に勤〈いそ〉しんでいます。そのおよそ半分は、機〈はた〉織り、羊毛紡ぎ、毛羽立て、織物仕上げなど当時のライデンの主要産業であった繊維産業の職工として働き、その他の者は、仕立屋、帽子屋、手袋屋、靴下屋、靴屋、大工、レンガ作り、糸の製造、革職人、醸造職人、石工、時計屋、鏡屋、タバコパイプ製造など多彩な職業に就き、或いはそのほか小売業などの商業に携わった者もいました。こうして、ピューリタンたちは、ライデンで10年間を過ごす間に、新大陸に渡った後に自立できる技術をマスターしました。

 

メイフラワー号と一緒にアメリカに向かったスピードウェル号に乗船したピューリタンたち

【画像出展:Wikipedia File:Embarkation of the Pilgrims.jpg

 

ピルグリムたちが新大陸に渡る決心をしたのは、ライデンでの生活が思った以上に過酷であったからだ、と現実的な見方を強調する人もいますが(山本周二著『ピューリタン神権政治』〈2002年〉)、しかしそういう面が強くあったとしても、彼らが多彩な技術を獲得したことは、自分たちだけで自立した生活ができるという自信をもたらし、新大陸に渡る決心を後押しすることになったであろうと思われます。

 

17世紀の一般的な商船の断面図

【画像出展:Wikipedia File:17th-century-merchantman.jpg "by User Musphot on Wikimedia Commons"

 

16208月、ピューリタンたちは帆船メイフラワー号とそれに随伴するスピードウェル号2隻に分乗して新大陸に向かったのですが、スピードウェル号が故障したのでサザンプトン港に戻ったうえで同年916日に改めてメイフラワー号(180トン)1隻で新大陸のヴァージニアのハドソン湾に向けて出帆します。その内部は上の図に示すとおりであり、ここに104人が乗り込んだのですから、船内がいかに劣悪な環境にあったのかがおおよそ察せられるというものです。

 

メイフラワー号

【画像出展:Wikipedia File:MayflowerHarbor.jpg

 

しかし、出発が1月以上遅れたために荒天となり、メイフラワー号は目的とするヴァージニアに達することができず、コッド岬(ケープ・コッド;現マサチューセッツ州)に漂着します。予定外の地域で自らを治める必要が生じたため、メイフラワー号の乗船者たちは有名な『メイフラワー誓約』を結びます(その概要を以下に示しています)。コッド岬には統治機関がなかったために、市民政治機関a civil Body Politickを樹立して、成人男性による多数決で民主的な政治を実行することを誓約したのです。

 

 

【メイフラワー誓約の抜粋】

 

〔前略〕神の栄光とキリスト教信仰の振興および国王と国の名誉のために、〔中略〕神と互いの者の前において厳粛にかつ互いに契約を交わし、我々みずからを政治的な市民団体に結合することにした。〔中略〕植民地の全体的善(the general Good of the Colony)に最も良く合致し都合の良いと考えられるように、公正で平等な法、条例、法、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する。〔後略〕 

 

メイフラワー誓約』の署名(メイフラワー号上)

【画像出展:Wikipedia File:Embarkation of the Pilgrims.jpg

 

この誓約書の内容を英文学者の落合和昭がネット上に公開されたPdf.論文で詳細に説明していますが(『ピルグリム・ファーザーズとメイフラワー誓約書』)、それを読むと、それが現代のアメリカの国家構造の基本となっていることがよくわかります。

 

そしてその要点は、「政教分離の民主主義体制」ということなのです。

 

この誓約書は、メイフラワー号がコッド岬に漂着して、ピルグリムたちが経験しこともない厳冬の荒涼たる地を生き延びるために、乗船者の固い結束を実現する必要に駆られてつくられ、署名されたというところにその性格の所以〈ゆえん〉が凝縮されています。

 

ピルグリムたちは、キリスト新教を信仰するピューリタンと呼ばれる人たちの中でも、国王が設立した国教会から分離してまでも信仰を全うしようとする特に強い信仰心をもった分離派Separatistsと呼ばれていた人たちでした。それほど純粋な信仰を求めた人たちが、政教分離の原則を受け容れたということが重大なことだ、と思います。もしこの時、この誓約書がピューリタニズム以外の信仰を認めない排他的なものになっていたとしたら、現代のような近代的な形のアメリカにはなっていなかったでしょう。

 

このメイフラワー誓約は、アメリカという国にとって、ひいては世界にとっても、とても重大な意味をもっていたということなのだ、と理解していいと思います。

 

それではなぜ、誓約書は政教分離原則を言ったのか? それは、とても現実的な事情があったからです。

 

誓約書に署名したのは41名ですが、そのうちピルグリムはその半数に満たない17名でしかありませんでした。その他キリスト旧教、カトリック、と国教会に属する者が同数の17名いました。そしてその他に、23名いた雇い職人・召使いのうち7名が署名しています。こういったように多様な人が混在する中では、ピューリタニズムを追求すると越冬者たちがまとまれなくなります。そのために、ピルグリムたちはやむを得ず信仰の純化を捨てて、民主主義的な政体の実現を優先させたのです。

 

しかしこれが単に功利的な政治判断であったというわけではない、というのは、41人のうち2割近い7名が、当時の常識ではとても政体に参加することなど考えられない雇い人、さらには召使いであったということです。ここには、キリスト新教の神の前でのすべての個人の平等という観念が反映されているように思えます(ピルグリムたちは少数でしたが、誓約書の筆頭にその署名を連ねていますので、誓約書の案文を書いたのがピルグリムたちであることは明らかです〈上述論文による〉)

 

もちろん、生命の危機を目前にして、雇い人や召使の反抗を防ぐための予めの懐柔策であったに過ぎない、とクールに見ることもできるでしょうが、しかしピューリタニズムの教義を背景にしなければ、これほどまでの革新的意識を持つことはできなかった、と見るのが自然だ、と私には思えます。

 

ここではは婦人の署名は認められていませんが、婦人が参政権を得るのは300年も後の20世紀に入ってからのことですので(1920年:アメリカ合衆国憲法修正第19条)、ここではその不足を指摘することより、職業や財産による身分差別がなされていないということを高く評価すべきだ、と思います。落合は、上述論文の中で、

 

署名した者全員の間では、社会的身分や職業が意味を持たず、すべての人が対等で、平等であるということであり、誰一人として、この同意書の下では、ある特権を持つことは許されないということである。すなわち、法の下では、全員が平等である。

 

と書いています。この点がこの誓約書の最大の要点です。そしてこれこそが、現代のアメリカを近代国家ならしめた政教分離と人民主権の民主主義体制の原点となったという意味で重要です。この点では、当初一般市民が参加したものの(清教徒革命)、最終的にブルジョワ革命に終わった(名誉革命)イングランドの市民革命より革命の観念の度合いは一段と高かったと言えます。

 

越冬する間に、メイフラワー号の乗員たちの半数は壊血病などで命をなくすのですが、そうした厳しい環境を乗船者すべてが一丸となって乗り越えるためにピルグリムたちが考え出した政体設立原則は、本国イングランドのブルジョワたちが確立した立憲君主制と同等以上に革新的で世界史上重大なものであった、というべきです。

 

次回は、同時代の日本では何が起こっていたのか、ということについて話したいと思います。