19世紀半ば過ぎから20世紀初頭にかけて生きたドイツの学者がいます1864-1920年)。日本風に彼の肩書を書くとすると、社会学者哲学者宗教学者法学者政治学者経済学者となることでしょう。以上のそれぞれの分野においてトップクラスの論文を書けるほど精通しており、例えば、1895年に『国民国家と経済政策』を著せば、1916年には、『儒教と道教』、『ヒンドゥー教と仏教』という2作を発表するといった具合です。

 

マックス・ヴェヴァ-(左)とその著作

【画像出展:Wikipedia File:Max Weber 1894.jpg (ヴェーバー)、File:Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus original cover.jpgプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神のカヴァー)】

 

この人の名は、マックス・ヴェーバーと言います。そしてその代表的著作が、彼が40歳の時に刊行したプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。

 

この著作の中で、ヴエーヴァーは、近代資本主義が16世紀に自由都市ジュネーブで活躍した神学者であるジャン・カルヴァンが興したキリスト新教の教義、カルヴィニズムあるいはプロテスタンティズム(同じ内容についての違う呼び名です)、に由来するということを明らかにしたのです。私は、このブログの中で宗教のことについて大いに触れて、宗教教義の変化と社会・経済発展が一体のものであることを説明していますが、これは基本的にヴェーバーのこの著作をその発想の原点としています。

 

 

ところが、日本にはヴェーバーに匹敵する学者はおらず、その結果、政治、経済、宗教・哲学、という社会を構成する基本的な原理を総合して、しかも東西世界を俯瞰して議論した著作は、一冊もないのです。だから、日本の中世の宗教改革がどのように日本の社会・経済構造を変革する働きをもっていたのか、ということを論ずる学者は一人もいないのです。個々の宗教家や宗派の詳細な教義の字句解説に明け暮れるのみで、宗教改革があったということすら認知できないのです。

 

ただ、歴史学者の峰岸純夫の著作になる『中世社会と一揆と宗教』(2008年)は、一揆と社会・経済の動きを一体ととらえている秀逸の例外であることは認めなければなりません。この著作から私は多くの知見を得ましたが、このような研究・著作がふんだんにあれば、日本の歴史学・宗教学は必要なほどの厚みを得られたことと思います。

 

その結果、法然→親鸞→蓮如と発展させてきた浄土真宗の教義の本質が、16世紀にカルヴァンが興したキリスト新教、カルヴィニズム、に匹敵するほど革新的で重大なものであるということに思い至る学者はおらず、結果として、1488年に起こった加賀国での一向一揆(長享〈ちょうきょう〉の一揆)の歴史的意味を見落とし、織豊政権やそれを引き継いだ徳川政権が、武家権力に歯向かう可能性がある強大な力を持った浄土真宗門徒の力を削ぐために、「百姓ノ持タル国」のあったことを徹底して否定する歴史の改ざんを行ったことに自ら加担していることに気づいていないのです。

 

法然(左)、親鸞(中)、蓮如(右)

【画像出展:Wikipedia File:Takanobu-no-miei.jpg(法然)、File:ShinranShonin.png(親鸞)、File:Rennyo5.1.JPG(蓮如)】

 

彼らの歴史改ざんの第一の方法は、まず、「百姓」という言葉が、元来、農民、漁民、狩猟者、商人、職人、能役者その他の被差別民などを含む、貴族、武家以外のすべての被支配者を含む言葉だということを無視して、農民だけを意味するものだとして、被支配者階層を分断することを画策したことです。

 

江戸時代の“百姓”(『和漢三才図会』〈1712年〉)

【画像出展:Wikipedia File:A peasant1.JPG

 

そして第二に、「一揆」という言葉も、元々は『孟子』に由来し、揆〈き;やり方〉を一つにすることを意味し、平安→鎌倉期には武士たちが意思を一つにまとめ上げて集団で行動するときに使われていました。だから、「一向一揆」とは、一向宗徒〈浄土真宗門徒〉が共同で守護や領主に共同して立ち向かうという意味を持つ言葉でした。

 

しかし、徳川幕府政権は、そのことを忘れさせ、農民が課税(年貢の納付や賦役の負担)その他の領主や大名による加重な要求に反抗する一時の反対運動を意味するように、その言葉の本質をおおきく改ざんしたのです。

 

その様な言葉の意味の改ざんを行うことによって、第三に、一向一揆とは、農民の中の一部の乱暴・狼藉者の無秩序でわがままな騒動でしかなかったというように解釈をわざと違えて、一揆に参加した農民を”善良な”農民から分断するという意識教育を徹底したのです。

 

だから、今では石川県民は、県庁所在市である金沢が百万石の大名の城下町としてではなく、浄土真宗の寺内町として出来上がって発展したという歴史をほとんど知らず、一向一揆は一部の性悪農民の農地を荒らしまわった乱暴・狼藉行為であったのだと信じているのです。

 

ちなみに、このことを憂いた作家の五木寛之は、その著書『信仰の共和国・金沢 生と死の結界・大和』(2006年)の中で、

 

毎年6月14日には、前田利家の金沢入城を祝って「百万石祭り」が催されている。しかし、一向一揆が高尾城で冨樫政親に勝利した日、「百姓ノ持タル国」が誕生した記念日ともいえる6月9日にはなにも行われない。また、そのことを知っている人もほとんどいないだろう。

 

と書いています。 

 

現代石川県人の誇りー前田利家と東大の赤門(旧前田藩邸)

【画像出展:Wikipedia File:Maeda Toshiie.jpg(前田利家)、File:ToudaiAkamon.jpgAuthor:Gussaisaurio(赤門)】

 

そして問題であるのは、宗教改革と社会・経済構造の変遷が互いに深い関係をもった一体とした歴史変化であることに思い至らない現代日本の学者たちは、武家政権の無残な歴史改ざん行為に気づかず、結果として加担することとなっていることです。 

 

昭和期後半の日本を代表する知性とされた山本七平やまもとしちへい;1921-91年〉は、日本は古来中国より伝わる倫理を基礎に生きてきたと言いつつ、それを代表する『孟子』の記述に触れ、その著書『日本鉄革命の哲学―日本人を動かす原理・その1』(2008年刊)の中で、

 

孟子の考え方は確かに「王道的人民民主主義」とはいえるであろう。だがこの「人民主権=民主主義」には、人民は、その好む政治体制を選択し変更し得るという発想は皆無である。簡単にいえば、「王制をやめて共和制にしよう」という発想は全くないのである。人民になし得ることは、「仁を賊〈そこ〉ない、義を賊〈そこ〉なう」ことによって「一夫(いっぷ;普通の人:筆者註)」となった帝王へ拒否権を発動し、「仁を行ない、義を行なう」未来の帝王の側につく、というだけである。

 

と説明し、日本人に、イングランドの市民革命のような、人民が自らがその主人となるための社会変革を行うというような概念は、そもそもなかったのであり、そして今でもないのだ、と主張しています。

 

孟子

【画像出展:Wikipedia File:Half Portraits of the Great Sage and Virtuous Men of Old-Meng Ke (孟軻).jpg

 

 それが日本人共通の理解であるかどうか、読者自身の意識と見比べながら判断してください。

 

しかし、この連載『日本とイングランドのパラレルワールド』で今まで21回にわたる一連の記事で積み上げてきたことは、日本が大陸にある中国とではなく、ユーラシア大陸の反対側の端っこのさらに西方の沖に浮かぶ島国と、少なくとも紀元1世紀から16世紀までの1,600年間にわたって、ヤマタノオロチ神話を共有するなど細部にわたって、その精神的な部分も含め、歴史を共有しているということでした。

 

 

とても、中国で書かれた一遍の『孟子』の表現を借りてきて、世界のなかでの日本の歴史の普遍性を否定されるわけにはいきません。

 

山本七平の古代中国以外の外国への関心と言えば、なぜだか旧約聖書とユダヤ人に限られています。しかし、イングランドの市民革命は、旧約聖書を否定してはいませんが、それよりさらに発展させた新約聖書をより頻繁に読むキリスト新教(プロテスタント)、特にカルヴィニズムに基づいて行われたのです。世界史最初の近代市民革命の何たるかを知らずして日本の革命を語ったのが山本七平であり、それが優れた日本論だと受け容れてきたのが日本の知識人、インテレクチャル、と呼ばれ、あるいは自称する人たちです。

 

【画像出展:Wikipedia File:Eurasia (orthographic projection).svgAuthor:Keepscasesの上に文言を追加】

 

歴史学者、あるいは政治学者と称される知識人たちが書いた日本史は、どれをとっても支配者の側から日本社会を見たものばかりです。ことに、学会を代表する人たちにはより強くその傾向があります。そして、この支配者に傾くばかりの日本の知識人たちの心の奥襞〈ひだ〉に、この山本七平の美文は心地よく染み入っていくのです。

 

しかし、実際に、1488年から1580年までの92年間にわたって、日本では17世紀のイングランドで起こったのと同質の社市民革命がもたらした市民が主人公の「百姓ノ持タル国」があったのです。

 

日本に、狭隘な知識世界に遊ぶ山本七平ではなく、視野を広大に広げることができたマックス・ヴェーバーに匹敵する学者がいれば、日本に市民革命があったこと、そしてなぜそれが起こったのかというようなことを、日本人共有の知識とできていたことでしょう。しかし日本の学界の強度の縦割り体制、そしてそれを打ち破る力のない民間“知識人”だけでは、日本の過去を知ることはできず、過去の知識を基礎とした未来への発想は行えないのです。

 

日本の学界の縦割りは、学会の所掌範囲を厳密に決め、それをお互いの学界が乗り越えないという暗黙のルールを守り、その範囲を越えた論文の作成者は学会で非難され、そしてその論文は評価の範囲外に放り出されてしまうという様子です。これでは、日本のヴェ―ヴァ―は今後とも現れることはないでしょう。今回私が参考にした貴重な図書は、まことに数少ないその禁を犯したもので、その秀逸な論文は当該学会では無視されました。

 

次回は、この連載を総括して、日本とイングランドの1世紀以降の歴史がまったく相似であることを再確認しつつ、それが現代、あるいは未来の日本を考える上でどのような意味を持っているのか、という点に論を進めたいと思いっています。