イングランドでの、そしてそれは大陸ヨーロッパとちがっていたわけではありませんが、大規模な商人の始まりは、冒険商人merchant adventurer;マーチャント・アドベンチャラー)です。冒険商人は、古代から中世にかけて遠隔地間の交通がまだ安全ではなかった頃、遠く離れた2地点間の商品価格が大きく違っていることに着目して、価格の安い生産地から価格の高い消費地に物資を運搬して、その大きな差額を素に高い利益率を得る商業者でした。

 

その出自は、封建領主に使える下級貴族であったと推測されています。彼らは領主から与えられた土地を経営することによって得られた地代を蓄積して、それを資本に遠隔地間の流通事業に乗り出していったのでした。だから、彼らは商人ではありましたが、国王と領主をトップとする封建体制の一部でありました。そのために、その権限は国王や領主から認められる特権であり、自由な市場での商業者でありませんでした(特権は、税の納付によって維持されました)

 

中世期のロンドンで冒険商人が扱っていた主な商品と言えば、絹物、毛皮、穀物、呉服などでありましたが、中でも重要であったのが羊毛です。その生産量は多く、海峡を渡って大陸諸国に輸出され、その関税は王室の重要な歳入となっていました。そしてこれはその後、毛織物というように付加価値を付けた工業製品として輸出されるようになります。

 

13世紀のイングランドの羊の牧畜

〔画像出典:Wikipedia File:Pipeandbelldavid.png

 

ヨーロッパでは次第に街道や航路が整備され人の交流が増え、中世前期の12世紀の頃になると遠隔地間の価格差が縮小してきて、遠隔地間交易のうまみはなくなってきました。代わって、11世紀から始まった中世の産業革命(詳しくは、20171011日付ブログ『中世ヨーロッパにもあった産業革命-中世から未来に続く産業革命(1)』を参照ください)により、農業生産と工業生産が拡大し始め、都市に住む人びとの数が増え、前回報告した囲い込みにより大規模な農業経営者となった富裕な貴族やジェントリ、あるいはヨーマンたちの求める高級毛織物などの贅沢品が求められるようになりました。

 

この毛織物生産を行ったのが、中世イングランドの新しいタイプの商人組織、クラフト・ギルドです。クラフト・ギルドというと、日本では職人たちにより市場管理のためにつくられた同業組合というように理解されそうですが、そうではなく、生産・販売を一括して行う経済組織のことであり、それを統括するのは商人です。

 

 

これまで生産と流通は分かれて経営されていたのですが、それを一貫したシステムとして実現したのがクラフト・ギルドです。だからこれは、中世イングランドの経済構造革新です。

 

 

この新しい型の商人が生れる前から、毛織物は家内工業で細々とつくられていたのですが、それを西ヨーロッパ全域に輸出するという繊維産業に育てるため、クラフト・ギルドを構成る商人たちは、生産に必要な原料を計画的に仕入れて農家に供給し、そしてそれを全量買い上げてロンドン港を通して大陸諸国に輸出したのです(自ら工場経営を行った者もいます)

 

17世紀のギルドの会合
〔画像出典:Wikipedia File:Jan de Bray 002.jpg

 

先に紹介した冒険商人たちは、イングランドを征服したアングロ・サクソン人の下級貴族の出であったのですが、彼らが国王や領主と連携して独占的市場管理を行って労少なく暴利を貪っているのに反抗するようにして出てきたのは、彼ら門閥的な都市貴族と結びつきをもたない土着の商人でたちでした(谷和雄著『中世都市とギルドー中世における団体形成の諸問題―』〈1994年〉による)。だとすれば、これは私の推測ですが、おそらくそれはケルト人の子孫であったのでしょう。

 

これらの者が、イングランドで毛織物製造・販売という新たな繊維産業を興したのです。そしてやがてその隆盛は、伝統的な冒険商人を凌いだのです。王や領主は、より多額の税を納めるこの新しい商人の力を認めざるを得なくなります。 

 

17世紀のロンドンブリッジ
-住宅、商店、礼拝堂を備えていた-

〔画像出典:File:London Bridge (1616) by Claes Van Visscher.jpg

 

そして、13世紀の半ば過ぎ、1263年と1271年に、ロンドンで特権を得ていた都市貴族、つまり冒険商人たちが、公有地(道路)を占拠して土地の囲い込みを進めて地代の高騰を招いていたことに反発したクラフト・ギルドを構成する新型の商人たちによる大規模な反乱が起こります。都市貴族による土地の囲い込みに外国商人の市民権の買取ということも重なって、差別的境遇に取り残され損害を被る一方の新型商人たちの不満が、爆発したのです。 

 

この反乱の結果、クラフト・ギルドを構成する新型商人たちが都市貴族たちが占拠していた公有地を奪還し、徴税のあり方や徴収された税の使い方を改めさせることに成功します。そして新型商人の経済力の卓越を認めた国王エドワード1世は、冒険商人のロンドン市の参事会での議席を減らし、新型商人にその席を譲っていったのです。

 

そして最初の反乱からおよそ半世紀後の1319年に、国王エドワード2世は、クラフト・ギルドの圧力を受けて推し進めてきたロンドン市政の改革の成果を公式に認めた憲章を発布します(以上、谷和雄の上記著作による) 

 

 

現代絵画に描かれた国王エドワード2世の戴冠

〔画像出典:File:London Bridge (1616) by Claes Van Visscher.jpg

 

この13世紀半ば過ぎから14世紀初頭にかけて半世紀にわたって行われた新型商人たちによる反抗の結果実現したのが、17世紀の市民革命に先行して行われたギルド革命です。

 

そして、このクラフト・ギルドを率いる商人たちが、前回報告したジェントリやヨーマンと同様に、16世紀に営利を善として認めるキリスト新教、とりわけカルヴィニズム、を受け容れて、伝統的資本家から近代的資本家に転換します。

 

 

ケルト人のうち領主として生き残った者たちは、アングロ・サクソン人の貴族の直下に位置付けられるジェントリとして大農地経営を行ったのですが、一方、ロンドンに出た者はクラフト・ギルドを構成する商人となったのです。そして、ジェントリとクラフト・ギルドが17世紀のイングランドの市民革命の主役を担っていきます。

 

イングランドの市民革命は、見ようによってはケルト人のアングロ・サクソン人に対する復讐戦とも言える、というのは、少しはしゃぎすぎでしょうか? 

 

 

市民革命は、伝統的な封建制に固執する貴族に対して革新的な土地経営や工業生産・流通を行う商人たちが反発した”ブルジョワ革命”であったのですが、それが新興支配者民族、つまりアングロ・サクソン人、に対する、それより古くからイングランドに土着民する民族、つまりケルト人、によって行われた、というのは誠に歴史は神妙と言わざるを得ません。

 

これは、民族規模での輪廻〈りんね〉なのでしょうか? だとすれば、ケルト人が信仰する神々とキリスト新教が崇める神の共作ということになります。古代のケルト・キリスト教が近代に向かって革新したのです(ちなみに、このような大胆な発言をする歴史家は見当たりません。事の当否は、最先端の核DNAを読み解く生命科学により明らかにしてもらいたいものです)

 

今回は、少し度を過ぎた頭の遊戯があったことを許してください。次回は、17世紀のイングランドで起こった市民革命について話したいと思います。