前回は、イングランドにキリスト教がやって来た、という話をしました。ケルト人たちやアングロサクソン人たちは、自分たちの信仰する宗教の他に世界規模の大宗教に襲われることになったのです。

 

日本でも、縄文人や弥生人が信仰した八百万の神を祀る多神教の世界に、当時の世界を二分した東の世界宗教、仏教、がやって来ることになります。

 

日本に最初にやって来た仏像は半跏思惟像〈はんかしいぞう〉ではないか、と宗教学者の山折哲雄は言いす(山折哲雄著『神と仏』〈1983年〉より)。半跏とは、片足をもう一方の足の腿〈もも〉の上に組んで座る姿であり、思惟とは考えるということです。

 

それが初めていつ来たのか、ということは記録にありませんが、おそらく6世紀の初め頃ではないかと思われます。有名なものは京都、広隆寺と奈良、中宮寺にあるもので、何れも国宝に指定されているので読者も一度は見たことがあるでしょう。

 

このうち広隆寺の半跏思惟像(弥勒菩薩像〈みろくぼさつぞう〉)は、623年に新羅から伝えられたと国史である『日本書紀』には書かれていますしかし現在は確認できていないようです)。一方の中宮寺にある半跏思惟像(弥勒菩薩像)は朝鮮半島から渡ってきた仏師が国内でつくったものだと言われています。

 

中宮寺の菩薩半跏像(左)と広隆寺の宝冠弥勒像(右)

【画像出展:Wikipedia File:Bodhisattva Chuguji.JPG(中宮寺の菩薩半跏像)File:Shaka at birth basin.JPGFile:Maitreya Koryuji.JPG(広隆寺宝冠弥勒像)】

 

山折は、半跏思惟像は釈迦が悟りを開いた後の姿ではなく、悟りを開く前の悉多太子〈シッタルタ〉と呼ばれていた修行者の時代のものだ、と言います。

 

例えば奈良の大仏は結跏趺坐〈けっかふざ〉の姿をしています。結跏趺坐とは、趺〈あし〉を交差させ〈結ぶ〉、反対の足の太もも〈跏〉の上に乗せることで、悟りを開いた後の釈迦の姿を現しています。それが堂々としたものであるのに対して、半跏思惟像はみずみずしい若さを感じさせます。だから、多くの日本人を虜〈とりこ〉にし、殊に仏女たちを魅惑するするのでしょう。 

 

東大寺の盧舎那仏像(大仏)

【画像出展:Wikipedia File:Daibutsu of Todaiji 4.jpgAuthor:Mafue

 

それまで、日本人にとっての神は自然の間にはいるものの、はっきりとした姿を現すものではありませんでした。目には見えず、躰で感ずる存在でした。しかし、朝鮮半島からやって来た新しい仏たちは、人の形をしていました。そのことに、当時の日本人は驚愕し、戸惑ったに違いありません。だから、すぐには馴染めませんでした。

 

しかし、悟りを開く前の若い修行僧の頃の釈迦を表した半跏思惟像は、時になまめかしくすら感じられるとても人間らしい姿を見せています。すぐには崇拝するという気にはなれなかったものの、しかし威圧的でないその姿に次第に親しみを感じ始めたのだと思われます。

 

これは、仏教を朝廷が採り上げる前の、自然な形で新しい渡来人から伝えられた仏教です。宗教というより文化です。当然、権威というものからまだ遠く、若々しいそれらの仏像は、後の時代の仏像と違って、死後の世界というものを感じさせるものではありませんでした。

 

 

このことは、古代ローマ帝国から強権でキリスト教を伝えられる前に、イングランドのケルト人がキリスト教を自発的に受け容れていった過程によく似ています。ケルト人たちが受け容れたのは教会ではなく修道院でした。そこは、シッタルダと同じような修道僧が教義を極めるために励むためのところでした。

 

 

ケルト人は、修道僧との交わりを通じて、自らの伝統や風習の中にキリスト教を馴染みこませ、後の学者がケルト・キリスト教と呼ぶ、キリスト教の原理とは随分と違った信仰を持つに至ったのです。しかし、その信仰の上に、俗権と聖権を結びつけるローマ教皇の差配する”正統の”キリスト教が持ち込まれます。それと似たことが、日本でも起こりました。

 

 

仏教に心酔していた梁(りょう;中国南朝)の武帝との結びつきを深めて新羅〈しらぎ〉に対抗したいと考えた百済〈くだら〉の聖明王〈せいめいおう〉が、仏像や経典などを日本の欽明天皇〈きんめいてんのう〉に贈ったのが、日本に仏教が伝来した最初だと公式には記されています538年。但し、552年という説もあります)

 

6世紀(576年)の朝鮮半島周辺

【画像出展:Wikipedia File:History of Korea 576 ja.pngAuthor:Historiographer at English Wikipedia

 

そこで欽明天皇は、当時の二大豪族であった蘇我氏〈そがうじ〉と物部氏〈もののべうじ〉に意見を聞いたところ、二者は真逆の意見を奏上しました。蘇我氏(稲目〈いなめ〉)は賛成、物部氏(尾輿〈おこし〉)は反対です。

 

蘇我氏は、土着の豪族でした。その出身は、現在の奈良県橿原市〈かしはらし〉曽我町の辺りでなかったかとされています。天皇の宮のすぐ近くです。もう一方の物部氏は、大和国山辺郡や河内国渋川郡あたりを本拠地としたと言われていますので、蘇我氏より少し天皇の宮から離れています。渡来人を先祖とし、兵器の製造と管理を職とするいわば古代の実業家であったのですが、やがて自ら軍事力を養って豪族に育ちました。

 

しかし、渡来人の子孫である物部氏が朝鮮半島からの仏教の公伝〈こうでん:政権としての仏教の受け容れ〉に強く反対し、土着の豪族である蘇我氏が仏教を容れることを強く主張しました。

 

物部氏は中臣氏〈なかとみうじ〉とともに、「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神〈ばんしん;外国からやってきた神、つまり仏像のこと〉を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります]と主張したとされています(『日本書紀』欽明天皇十三年条)。物部氏たちは、弥生の神々を祀る祭事を司る職にあったとされています。いわば、渡来人が縄文人を支配する過程で確立した神道〈しんとう〉を権力基盤とする伝統的国内派となっていたということなのでしょう。

 

 

しかし、土着の蘇我氏はそのような外来の権威には囚われておらず、折々の外国勢力、つまり朝鮮半島を支配する王朝との積極外交によって、時代の最先端の知識や武器製造を含む最先端技術を採り入れることに貪欲で、そのことによって力をつけてきていた、と考えられます。そして、朝鮮の王が安全保障のために中国の王の歓心と支持を得るために、中国の王が大事とする仏教を積極的に採り入れるのを見て、その系統の延長に繋がることによって自身の日本での勢力の伸長を図ったのです。つまり、中-韓-日三国枢軸の権威の一に収まろうとしたのだ、と私は理解しています。

 

 梁(中国南朝)の武帝=百済の聖明王=欽明天皇

【画像出展:File:Liang Wudi 2.jpg(武帝)、File:GUZE Kannon Horyuji.JPG(聖明王のイメージを宿す救世観音像)、 File:Emperor Kinmei.jpg(欽明天皇)】

 

そして蘇我氏は、世代を超える物部氏との抗争に打ち勝ち、596年には氏寺として飛鳥寺を建立します(下に飛鳥寺の本尊、釈迦如来像〈609年〉の画像を示しています)

 

飛鳥寺の釈迦如来仏

【画像出展:Wikipedia File:飛鳥寺 銅造釈迦如来坐像.JPG

 

しかし天皇は慎重で、それでもなお歴代中立を保ち、舒明天皇(じょめいてんのう;在任:629-641年)の代になってようやく天皇家として仏教を受け容れ、聖徳太子に大寺(たいじ;大安寺)を建てさせています(639年)。大寺とは、元々“私寺”に対する“官寺”の意味ですが、この段階ではまだ国教にするには至っていません。

 

そして舒明天皇の子である天武天皇(てんむてんのう;在任:673-686年)の代に国教として仏教を位置づけます。このときに、日本の国の体制についての重大な構造改革が行われたのです。

 

天武天皇像

【画像出展:Wikipedia File:Emperor Tenmu.jpg

 

天武天皇は先ず、それまで平等であった神々の系譜を作成して、そのトップに太陽神であるアマテラスオオミカミ(天照大神)を置きました。そして天皇氏以外の豪族たちの守護神をその下に位置付けたのです。そして、天皇はアマテラスオオミカミの末裔だという神話をつくり上げ、天皇の権威は現世の権力闘争の結果獲得されたものではなく、神々の世界の絶対秩序を基盤とするのだ、と主張したのです(阿満利磨〈あまとしまろ〉著『仏教と日本人』〈2007年〉による)

 

そして、天皇が神の子であるということを説明するのに天武天皇が根拠としたのが、「王として生まれるものは胎内ですでに神々の加護を受けており、国王は神の子だ」と説く『金光明教〈こんこうみょうきょう〉』という仏典であったのです(仏教学者の田村圓澄〈たむらえんちょう〉の説)。

 

6世紀の初めから日本に仏教が伝わって以来、およそ1世紀という長い時間をかけて、日本の神々と仏たちは同じものなのだという神仏習合〈しんぶつしゅうごう〉と言われる観念が徐々に根付いてきたのですが、その流れを天武天皇はものの見事に自身の権威を絶対化することに繋げることに成功したのです。

 

この神仏習合を国の理念とするため、天武天皇は全国に多くの官立寺院を建立しています。こうして、仏教により権威付けられた天皇が、各地の豪族の守護神たちをも従えて、律令制に基づく統治を行う中央集権体制の土台を確立します。そしてその土台の上に、次の持統天皇〈じとうてんのう〉の代に飛鳥浄御原令〈あすかきよみはらりょう;689年〉の発布によって班田収授〈はんでんしゅうじゅ〉の制度を含む律令体制は完成することになります。

 

 

これはケルト人を支配したアングロサクソン人が、イングランド(ブリテン島)を統治する権限を神から譲られていることをローマ教皇によって宣言されているというのとまったく同じ形です。

 

こうして、日本でもイングランドと同じ時代に同じ形で、政教一体体制が出来上がったのです。

 

 

次回は、そうして日本に入った仏教が独自の権力を持つことになった歴史について話します。