今日は、少し耳に痛い話をします。でもこれは避けて通るわけにいかない大切なことです。元気のあるときを見計らって読んでください。では、始めます。

 

 

日本に最初に同盟を求めたのは、イギリスでした。

 

アヘン戦争(1840-42年)に勝って以降中国への支配を強めたいイギリスでしたが、ロシアが満州からさらに朝鮮半島への南下を始め、ウラジオストックを母港にしていた太平洋艦隊がさらに遼東半島の突先にある旅順を得て、北京への入り口でもある遼東半島と山東半島の間の渤海〈ぼっかい〉、そしてさらに朝鮮半島と中国東部の間の黄海の制海権を奪いつつありました。

 

渤海と黄海の周辺海域図

【画像出展:Wikipedia File:Bohaiseamap2.pngmAuthorKmusserに加筆】

 

このことに危険を感じたイギリスは、独力でロシアに対抗することをあきらめ、同じくロシアの南下に危機感を強めていた日本を同盟に引き込み(1902年)、ロシア海軍をけん制したのでした。さらに、米西戦争(1898年)に勝利してスペインから植民地のフィリピンを得たアメリカが中国の市場を獲得する動きを強めたことに対しても危機感を強め、アメリカの機先を制して日本を自国の側に取り込んでおく、という動機も同時にありました。

 

 

そして日本は日英同盟が整った2年後の1904年に日露戦争を始めるのですが、その日本を決定的に支援したのは同盟国イギリスというより、巨額の戦費の調達に協力したアメリカのユダヤ系の大実業者たちと、その背後にある中国東北部への進出を図るアメリカ政府でした。

 

しかし日露戦争に勝った日本は、何れの国とも戦勝で得た果実を共有することを拒み、独り韓国、さらには北上して南満州への経済進出を進めたのでした。そしてそのことにより、ポーツマス条約締結に協力したのにその結果裏切られたと感じたアメリカが日本を仮想敵とするに至り、あるいは日本に失望したイギリスもアメリカの誘いに乗って1921-22年に開かれた軍縮を定めたワシントン会議の場で、日本との同盟をわずか20年という短期で解消してしまいました。

 

 

こうして、日本は同盟を求めたイギリス、そして連帯を求めたアメリカの期待に応えず、あるいは両国の側から見れば裏切って、東アジアでの孤立を自ら選んで得たのでした。一時はロシアとの関係改善の試みもあったのですが、1917年に革命によって成立した共産党が支配するソ連に対して強烈な敵意を見せ、1918年にイギリスやアメリカとともに共産党政権への打撃を図ってシベリア出兵を行ったのですが、日本以外の国が撤兵しても(アメリカなどは、1920年に撤兵)なお、シベリア領有の意思をあからさまに見せて、最後まで居続けました(1922年撤兵)。

 

こうして、日本はソ連の信頼を完全に失い、東アジアで完全に孤立し、そして領土を実質的に支配した韓国の朝鮮人、満州と台湾の中国人、さらには満州から南下の勢いを見せて中国全土の中国人と強烈に敵対する関係に至ったのです。

 

 

日露戦争後に、中国の蒙古民族が支配する清朝政権に対抗する孫文と蒋介石の国民党から、西洋列強に連携して戦おうという“大アジア主義”に基づく誘いがあったのですが、日本はそれも拒絶して、フィリピン、べトナム、その他東南アジアで植民地支配の下で苦しむアジア人に対する連帯の意思を表すことはなく、東アジアで孤立し、さらにアメリカ、イギリス、ソ連とも対立を深めて世界でも孤立したのでした。

 

こうして日本は、20世紀初頭にできたかもしれないイギリスやアメリカとの友好的関係を捨て、さらに中国人、韓国人を初めとするアジアの人々との連帯を拒否して、ついにそのままの状態で1937年以降の日中戦争、そして1941年以降の太平洋戦争に猛進していきました。

 

 

20世紀初頭から半ばにかけて、日本人はアジア人をそしてソ連を含む先進国の人々を自らの意思で“敵”にしたのだ、ということを現代の日本人ははっきりと覚えて、意識し続けなくてはならないと思います。なぜなら、”敵対”した国々の人々は、今でもはっきりとその記憶を持ち続けているからです。今はまだ、アジアの人々にとって日本は戦後の時代にあるのです。「もはや『戦後』ではない」(1956年の『経済白書』での表現)というのは、日本人の勝手な思い込みに過ぎません。

 

ちなみに、いま日本が大事にしている国連の英語表記である”United Nations”は、第2次大戦において日本を敵国とした”連合国”であり、日本は東京湾上に浮かぶ戦艦ミズーリの甲板で降伏文書に署名した194592日に”敗戦”したのであり、戦争は同年815日に”終戦”してはいない、と日本と第2次世界大戦を戦った国々の人々は覚えているのです。

 

 

アメリカはと言えば、19世紀末から20世紀半ばにかけて、領土獲得ではなく市場獲得を目的とする新型の帝国主義の考えに則り、孫文と蒋介石の国民党、そしてそれが樹立した中華民国に対しては協力を提供するという姿勢をとりました。

 

中国共産党とは、それと対立する国民党を支援したということから実質的に敵対したのですが、しかし日本と違って、中国人と直接戦闘するということはありませんでした。そして中華民国は共産党との戦いに敗れて後台湾に逃げ、いまでも中華民国を維持していて、アメリカはそれと実質的に軍事同盟関係にあります。

 

東アジアで、日本はアメリカと同盟関係にあり、同じように中国と対立していると考えていますが、しかし中国の日本に対する敵対意識は、アメリカに対するものとは異質ではるかに大きいのだということを認識することが必要だと思います。中国とアメリカは、経済的・政治的な条件が整えば共存共栄という関係に至ることも可能ですが、日本は、中国人、韓国人、東南アジア人と心の底から信頼しあう関係には容易にはならないということを覚悟すべきです。

 

 

つまり、日本は中国とも、その他アジア諸国とも、さらにはアメリカとも精神的に信頼しあえる関係をもつことはできないので、客観的、科学的な意味で、それらの国々と、好き嫌いは別にして、利害がバランスしていると双方が思える2国間の関係を構築して、双方が共存する体制を構築して東アジアでの生き残りを図る以外はないということです。その様な関係が数十年間維持できれば、やがては相手の国の人々も「もはや『戦後』ではない」と思うようになってくれることでしょう。

 

これは、東アジアでは、NATOをモデルとした日本を含む多国間軍事同盟をつくることは難しい、ということを意味しています(かつてドイツのメルケル首相が安倍総理にNATOに加盟するように誘ったと報道されたことがあります〈2015年3月:ジャパン・ニューズ〉)。

 

 

いや、日本人はアメリカ人と価値観を共有しているのだから、アメリカ人は中国人より日本人により親近感、あるいは同胞の意識を感じているはずだ、と思う人がいるかもしれません。しかし、それは違っています。

 

 

アメリカは、世界の国の中で最も近代資本主義の原理に近い経済・社会構造をもった国です。その原理を最も強く信奉した人の一人であるアメリカ人経済学者のミルトン・フリードマン(1912-2006年)から見れば、リベラル派の要求に従って連邦政府が社会福祉政策などについての関与を大きくした今のアメリカの体制は不十分なのですが、それでも「アメリカは近代資本主義国である」と言って間違いではないと思います。

 

そして17世紀に近代資本主義を産んだイギリスも、アメリカに次いで近代資本主義の原理に近い経済・社会体制下にあります。

 

しかし一方、近代資本主義を産んだキリスト新教、特にカルヴィニズムを信奉せず、キリスト新教ルター派、あるいはキリスト旧教、カソリック、の観念の下で成長したドイツやフランスは、資本主義の範疇にあるとは言うものの中央集権体制であり、かつ中央政府官僚の市場への介入の度合いが強いので、アメリカとは相当違った体制にあると言っていいと思います。

 

ちなみに、このような国の基本体制の大きな違いが、イギリスが一旦は参加したEUから結局は離脱する決心をした基本的な理由である、というのが私の理解です。

 

 

そして日本はと言えば、近代資本主義の観念からははるかに遠いところにあります。ドイツやフランス以上にです。

 

明治維新政府以来、と言って本当は徳川幕府の時代からそうなのですが、中央政府の官僚は市場の自由を認めず、管理し続けようとしています。市場が比較的自由であったのは、アメリカが日本を占領下においてGHQの民生局が経済体制の民主化を進めたときであり、その時に官僚(通産省、大蔵省、そして日銀の官僚たち)の市場管理の手を振り払って企業活動を開始し、あるいは拡大した川崎製鉄、トヨタ、ホンダ、あるいはソニーといった当時のベンチャー企業が活躍した時に限られています。

 

アメリカの占領が終わるとともに(1951年)、再び官僚の市場管理の勢いは強まり、以降日本市場の自由は奪われ、金融と為替は官僚によって恣意的に運営されています。そして、市場の自由を失った日本は、1990年代に入って完全に成長を止めてしまいました。

 

 

私はこの日本の体制は、アメリカ占領の時代を除いて国家社会主義体制である、と考えています。そして、アメリカ人も心の底ではそう考えていると思います。時折、アメリカ人のジャーナリストがその本音を覗かせることもあるのですが(下記を参照ください)、しかし、ソ連、そして現在は中国に対抗して世界の覇権を維持するために日本を自陣側に留めておきたいという考えから、日本は資本主義国の一つだと公的には認知しています。しかしそれは建前であって本音ではありません。

 

例えば、20113月に起きた福島第一原子量発電所の事故により経営難に陥った東京電力に対して、先進国ならどこでもそうする法的破産措置をとらなかったことを見たアメリカ紙2011518日、ウォール・ストリート・ジャーナル)は、「日本はついに、より正直にその姿が表された社会主義に向かってよろめき歩き始めた(Japan is finally stumbling toward a more honest form of socialism.)」と報道しています。

 

「日本はアメリカと価値観を共有している」、というのは日本人の一方的な思い込みです。

 

 

いや、日本はアメリカともう70年近くも緊密な同盟関係にある、そこで培われた相互信頼というものがあるはずだ、と人は言うかもしれません。

 

しかし、その67年間というのは、アメリカにとっては我慢の時代であり続けたと思っているかもしれません。アメリカは当初、日本にせめてGDP4パーセントほどの軍事費を負担して再軍備してほしいと願ったのですが、吉田茂は強硬に憲法改正と公式の再軍備を拒み、軍事への負担を2パーセント以下に抑えました。

 

1960年に安保条約を改定した頃には、日本(岸信介内閣)は軍事費負担率をその半分の1パーセントにも満たないほどに下げ、さらに下げ続けていました。アメリカがこれを認めたのは、社会党中心の野党がソ連圏への憧憬を隠さずに反米の主張を強く行ったので、親米政権を安定させるために日本政府の“わがまま”を丸飲みしたというのが本心だったでしょう。

 

 

それ以降も、アメリカが東西冷戦を勝ち抜くためにGDPに対する軍事費(国防予算)の割合を68パーセントという高率に保っていたのに、日本は1パーセント未満という超低水準をつづけ(日本とアメリカの軍事費の対GDP比率の推移については下のグラフを参照ください)、専ら公共事業、社会福祉、そして産業対策費に予算をつぎ込んで、ついにはアメリカに対して豪雨というほどに思える輸出を行い、その果実で高い経済成長を実現していました。

 

出典:日本については、沓脱和人(参議院常任委員会外交防衛委員会調査室)著『戦後における防衛関係費の推移』(『立法と調査 2017. 12 No. 395』)掲載データを、アメリカについてはusgovernmentspending.comの統計検索エンジンから得たデータを素に作成。

 

 

その間、アメリカは何度かの貿易摩擦交渉とプラザ合意を通じた円高を要求する程度のことで、経済力が大きくなった一部を軍事費に使えという要求は控えてきました。こうしてアメリカは日本の“わがまま”を認め続けてきたのです。それは日本に政治混乱が起こって、反米政権が生れることを防ぐための”必要経費”だと割り切っていたからでしょう。国内に“安保タダ乗り論”が出ても、大問題にすることなくうやむやのうちに済ませてきました。

 

そうした風にアメリカが日本を見続けた中で、「アメリカと日本の間に相互が深く信頼しあう関係が醸成されてきた」と主張するのは、“わがまま”を通させてもらった日本が言えることではないでしょう。67年間、日本とアメリカはまったくの功利的な2国間関係を続けたのであり、日本とアメリカが同胞としての深い相互理解と紐帯を築いたと評価するのは難しい、と私は思います。

 

 

以上が、安全保障という問題を考えるときに、日本が東アジア、あるいは世界中で置かれた日本を取り巻く国々の人々が見たときの日本の立ち位置だ、ということです。日本人は、その視線を十分に感じ取ったうえで、これからの日本の安全保障のあり方を考えないといけない、と私は思います。

 

次回は、日本にとっての適切な軍事費というのはどの程度なのかということを探っていきたいと思います。