戦前に、日本が1945年の大軍事・経済破綻を起こさない道を選ぶチャンスが2度あったということを、過去3回のブログで明らかにしてきました。

 

最初は、1905年に日露戦争を終結させるために結んだポーツマス条約締結後に、正しくアメリカと協調し、あるいは日英同盟を超える強い同盟を結べばよかった、という時点です。

 

次には、1927年に「満蒙を日本の生命線とする」という間違った東方会議の結論を得るのではなく、清朝に向かい多くの中国人民を代表して満州を含む中国統一の戦いに邁進していた孫文=蒋介石勢力(国民党、後の中華民国)と満州開発を共同で行うという未来に向けた提案を行っていればよかった、という時点です。

 

それではどうして日本はそのような適切な時代認識をもたなかったのか、という今回のブログの話題についてです。

 

 

結論を先に言えば、日本政府を動かす力をもった誰も、次のことについての知識や認識をほぼ完全に欠いていたからです。

 

 

1に、軍事に関するものを含み、産業技術というものについての知識、認識がありませんでした。

 

2に、市場経済、とくに近代資本主義の観念に基づく自由市場を活かした経済発展、というものについての知識、認識がありませんでした。

 

3に、19世紀末から20世紀にかけて、イギリスやロシアと言った古い帝国が、アメリカが南北戦争(1861-65年)が終わった後始めた第2の産業革命に匹敵する産業改革を行わないままに、新興超大国アメリカに置き去りにされて相対的な国力を低下させ始めていたということについての世界観をまったく欠いていました。

 

 

以上3点、産業技術について、経済構造について、そして世界政治について、正しい最先端の知識とそれに基づく認識を欠いていたことが、冒頭に示した2つの重要な時点での日本の選択を誤らせたのだ、私はそう分析しました。

 

 

それでは、なぜそのようなことになったのか、という問題です。そしてその答えは、第1に、日本の権力構造がいびつに歪んでいたこと、そして第2に、教育体制がまことに不備であった、というその2点に集約される、というのが私の考えたことです。

 

 

戦前の日本の国体の基本を定めたのは誰か、と言えば山縣有朋だと思います。

 

どうやって決めたのかというと、まず第1に、明治憲法(大日本帝国憲法;1898年)を定めたあと、その第11条に定められた天皇の陸海軍統帥権〈とうすいけん〉が戦場での軍の指揮だけではなく、軍官僚たちが軍の編成や予算についてまで単独で決められると拡大解釈しようとしたときに、それを認めたことです。この権限は本来は憲法第12条の定めによって内閣の輔弼〈ほひつ;承認〉がないと天皇が一人だけで決めるということはできないはずのものでした。

 

なぜ第11条の統帥権にこだわったかというと、天皇が統帥権を発揮しようとするとき、天皇に意見を帷幄上奏〈いあくじょうそう〉できるのは、軍官僚だけだとされていたからです(本当は参謀総長の権限だったのですが、それを陸海軍大臣が行うことを強行しています。ちなみに、帷幄とは、戦場に張られた軍用テントのことです)。

 

 

2に、1885年に内閣制度を定めた時に、陸海軍大臣には陸軍軍人あるいは海軍軍人しか就けないこと、総理大臣に大臣を罷免する権限はないこと、さらに内閣の決定は全員の合意を必要とする、ということを定めたことでした。

 

これらの定めによって、軍官僚は自由に軍の編成や予算を定めることができるようになりました。首相やその他大勢の大臣がそれに反する決定を行おうとしても、全員合意の原則の下でそれはできないし、陸海軍大臣を罷免もできないし、それに内閣総辞職しても新たな内閣の陸海軍大臣の候補者を軍官僚が推薦しなければ、組閣もかなわないということになります。

 

山県有朋(左)と伊藤博文(右)
〔画像出典:Wikipedia File:Yamagata Aritomo.jpg(山県有朋)、File:It? Hirobumi.jpg (伊藤博文)〕

 

日本は1885年から1895年にかけて内閣制度と明治憲法(『大日本帝国憲法』)の整備とそれの間違った運用によって完全な軍事国家になってしまい、軍官僚、特に陸軍官僚が国の統治を壟断〈ろうだん;独り占め〉する体制になってしまいました。陸軍閥を率いていた山縣は、より近代的で穏健な政体を求めた伊藤博文を、武力を背景に強引に押しのけるようにしてこうした制度をつくり上げてしまいました。

 

日本は軍中心の国体、つまり軍事国家、になっていいとまで山縣は考えていたようです。しかし、その後の軍官僚の横暴があそこまで暴走することまで想定していたかは、わかりません。

 

 

これが、日本が19世紀末以降、国として合理的な決定をできなくなった最大の原因です。そして、前のブログで話したように、留学中に日本のことを知ったと思いこんだ孫文も蒋介石も、そこまで見通すには夢がありすぎて、また何より若すぎたのだ、と思います。

 

 

軍官僚たちは、国の産業を発展させて、常に時代の最先端技術を涵養して、最先端の武器装備を準備しないと軍の力を大きく保つことができず、だから強国に対峙できない、ということを理解していませんでした。だから、最先端の性能を持った艦船を装備し続けることはできませんでした。

 

また、陸軍に至っては日露戦争で歩兵が最も重要であったという派閥の意見を採用して、戦車その他近代的装備を揃えようという努力を行うことすらしませんでした。陸軍はその迂闊さを、1939年にソ満国境のノモンハンでソ連軍と戦って、日本軍の戦車がソ連のものに較べればまるでおもちゃでまったく歯が立たないものだということをようやく知ったのです。でも、遅すぎました。

 

日本の試製七糎半対戦車自走砲ナトとソ連のT34型戦車

〔画像出典:Wikipedia File:Type 5 Na-To.jpg (自走砲ナト)、File:T-34 Model 1940.jpg T34型戦車)〕

 

 

日中戦争(1937-45年)が始まる前までは、陸海軍とも、兵員の数や艦船の大きさや隻数ばかりを追求して、最先端装備を揃えることに関心がいかず、総合的な戦力がどんどん相対的に下がっていくということを理解しないで、国の軍事力がアメリカやソ連に比べて急速に低下し続けていたということに気が付いていないという状況でした。

 

今の日本が、1990年代半ば以降実質GDP(ドルベース)を低下させ続けていて、アメリカに比べて急速に経済力を弱体化し続けているということを理解していない、というのとまったく同じです。

 

 

で、重要なことは、軍官僚の管理の下で、日本では近代産業の開発が十分に行われず、明治初期に一旦縮まり始めた日本とアメリカの産業力の差は、19世紀末以降、むしろ広がり始めたということです。実際、日清戦争では国産の戦艦も1隻(戦艦千代田)使用されたのですが、日露戦争で使用された国産の戦艦は1隻もなく、巡洋艦についてもわずかな数のトン数の小さなもののみ国産という状況に後退していました。

 

 

 軍官僚には近代資本主義についての知識がなく、当然自由市場というものの大事さについての認識も完全に欠いていました。軍官僚たちは、武器は先ずは自分たちが経営する工場である陸軍工廠〈こうしょう〉、や海軍工廠で生産することを基本として、足りないところは財閥企業を指揮して造らせていました。

 

艦船については、1911年以後は川崎重工神戸造船所や三菱長崎造船所に建造させ、太平洋戦争間際になって海軍工廠が艦船の建造に手いっぱいで航空機の生産までできなかった時には、三菱重工や中島飛行機を使っています。しかし、航空機の開発をそれらの企業の自由に任せたというのではなく、自分たちが決めた仕様のものをつくらせるといった具合で、日本の航空機産業が自立したものであったわけではありませんでした。

 

アメリカの航空機産業はその基盤が整っていて、太平洋戦争勃発と同時に大量生産に移行できたのですが(戦闘機工場写真を下に載せています)、日本の航空機工場にベルトコンベアが導入されたのは、太平洋戦争が始まって2年を経た1943年以降のことです(立教大学生岩崎寛論文『戦時日本の航空機開発・生産体制』〈2009年〉より)

 

ニューヨーク州にある戦闘機(Airacobra P39)組立工場

〔画像出典:Wikipedia File:Airacobra P39 Assembly LOC 02902u.jpg

 

 

強電は多少理解しても、弱電技術についての理解をほぼ完全に欠いていた軍官僚たちは、レーダーや航空機の方向探知機をつくる基礎技術、あるいは写真伝送などについて自国の大学(東北帝国大学など)や民間企業の技術が世界最先端であるということに気づかず(戦前の主要な弱電技術者の居場所を下表に示しています)、軍事技術として活用することも、あるいは世界市場に対する最先端工業製品の輸出ということについても、まったく意を払っていません。

 

注) 東京高等工業学校は、1929年より東京工業大学に昇格。

 

さらに世界情勢について判断する能力は持っていたのかというと、敗戦後に集まった元海軍官僚の反省会では、海軍大学校の教育は、「艦隊戦闘を最重視しておりまして、国家の体制、あるいは戦争指導というような見地の教育が比較的軽視されていた。艦隊戦闘に関する教育が最重点であって、海軍大学校の将来框要職に就く者の教育ということについては、抜かりがあります」と認めています(『戸高一成編<証言録>海軍反省会 7』(2015年)による)

 

しかしこの反省会でもなお、経済学についてまったく学ばなかったことが重大であったのだということの認識には至っていません。

 

 

20世紀を迎えた時、イギリスは既にピークを過ぎた大国であり、アメリカは勢いよく成長を続ける大国でした。そして、イギリスは産業開発を行う力をなくして金融大国となることに最後の可能性を求めていた一方、アメリカだけが第2の産業革命を成功させて新たな大量工場生産という技術を獲得して産業大国に育ちつつあったということも、理解していませんでした。

 

もし軍官僚たちにその理解があれば、1902年に衰えつつある大国からの申し出に、「一等国として認められた!」と有頂天になって日英同盟締結に走らず、同盟相手としては、イギリスとアメリカのどちらがいいのか、と慎重に検討していたはずです。そしてもしそうしていたとすれば、同盟相手としては、イギリスよりアメリカが適当であるということは分かったでしょうし、日露戦争後にアメリカとの関係を悪くするということがいかにバカげたことかということも事前に理解できていたことでしょう。

 

ちなみに、日英同盟の締結に向けて奔走したのも、“あの”小村寿太郎です。小村は1870年代にハーバード大学のロースクールに学び、さらに1880年代にはアメリカの日本人移民排斥問題について交渉するためにワシントンに外交官として派遣されていたのですが、一体、小村は19世紀末のアメリカの産業の大躍進については何も見てはいなかったのでしょうか。

 

ちなみに、小村がアメリカを裏切った結果、カリフォルニア州での白人による日本人排斥は悪化の一途を辿りました。

 

外務省のエースとされた小村ですらそうなのですから、外務省官僚には時代を、特に国の産業力を、みる目がなかったということでしょう。軍官僚のみならず、外務官僚すべてが近代経済や産業発展についての知識を欠いていたというのは、日本にとって致命的であったということかもしれません。

 

 

さらに、軍官僚の不足を補う働きをすべきであった文官たちはといえば、官僚たちの大半は東京帝国大学法科大学(後に経済学部が分離独立してからは法学部)卒であったのですが、そこではむしろ国際法を無視して、あるいは国の財政を無視して、大陸への領土拡大へ突っ走れという教育がされていました。

 

日露戦争開戦前に東京帝大法科大学の教授群の大要を占めていたいわゆる“7博士”は、桂太郎首相に宛て激烈な戦争を煽る手紙を出しています。その7博士を代表する戸水寛人〈とみずひろんど〉は、「政治論と国際法上の議論とは自(おのずか)ら別物なり」と言い、「人口の拡大する日本はシベリア全体(エニセー川以東)を占拠しても構わない」のだと大声で主張したのです(立花隆著『天皇と東大』〈2005年〉による)。国際法などどうでもいい、というのですから元気にあふれた教授でした。

 

東京帝国大学法科大学校舎(1902年) と戸水寛人(右上)

〔画像出典:Wikipedia File:University of Tokyo. Faculty of law. Before 1902.jpg(東京帝大法科大学)、File:Hirondo Tomizu, Professor of Roman Law.jpg(戸水寛人) 〕

 

これが、東京帝大法科大学の全部であるとは言わないまでも、過半の教授を代表した見解でした。そうした“伝統ある”東京帝大法科大学卒の文官たちが、的確な世界情勢分析を行えなかったのは当然といえるでしょう。

 

 

また東京帝大法科大学での経済学の教育は、誠に不十分でした。のちに法科大学から経済学部が分離独立したのですが、その経済学部の水準は東京高等商業学校(後の一橋大学)に比べて随分と劣るとされていました。そして、そこで教えられたのは市場経済を否定するマルクス経済学に基づく国家社会主義体制の下での経済運営です。教育の方向が間違っていて、かつ水準が低い。東京帝大法科大学を卒業した官僚たちの経済学についての知識はゼロに近かった、と言っていいと思います。

 

 

つまり、軍官僚の産業、経済、世界情勢についての知識や認識の不備を補う働きをすべきであった文官(大蔵省や内務省、さらには外務省を中核とする官僚たち)自身にも、それらについての知識はとても貧しいものしかなく、国を導く的確な判断をする能力をもってはいませんでした。

 

このように日本の政治と軍事を独占した軍官僚も、あるいはその能力の不備を補うべき文官たちも、何れも、ダイナミックな産業開発を行わないでいると、軍備についても、さらに総合的な国力についても、アメリカとの差が開き続けるということを理解しないということでした。

 

それが、日本が日露戦争の終結方法を間違い、そして孫文=蒋介石勢力との適切な連帯関係を持つことができなかった理由の本質だ、と私は考えます。 

 

 

次回は、戦後の日本の安全保障と経済復興がどのように行われたのか、ということに話を進めたいと思います。