日本は日露戦争(190405年)をアメリカが提供してくれたお金で戦い、アメリカの大統領に戦争終結を周旋してもらったのに、そのアメリカの恩に何も報いることなく、日本とアメリカを互いにとっての仮想敵国関係に追い込んだ、今回はそういう話です。

 

 

日本がロシアと戦う上で必要とした戦費は、およそ20億円です。それは当時の日本政府の年間予算のおよそ9倍に匹敵する巨額でした。この費用を賄うために、地租税、営業税、所得税を増税したほか、相続税を創設するなど大幅な増税も行ったのですが、その財源の多くを国債の発行に頼らざるを得ませんでした。そのほか日銀から資金の融通を受けるということもあったのですが、結局、日本政府は合計14.7億円の国債を発行しています。

 

そのうち内国債が6.7億円だったのですが、国民にむりやりに買わせると言っても限度があり、外債が8.0億円と5割を超えていました(54.3パーセント)。

 

 

この巨額の外債を買ってもらおうと、当時の日銀副総裁の高橋是清が金融センターのロンドンを訪れて努力するのですが、極東の新興国がロシアに勝つとの予測をする者は少なく、高橋は大いに難渋したのでした。

 

これを救ったのが、アメリカの金融家のジェイコブ・シフでした。彼が高橋に近づき、外債の多くを引き受けたのでした。

 

 

シフが日本の外債を引き受けた最大の動機は、ユダヤ人であったシフが、ロシアでのユダヤ人虐待について憤激していたことでした。シフはアメリカのユダヤ人コミュニティのリーダーの一人として、アメリカでの日本国債の消化に尽力したのでした。もちろん日本国債の利率が高くて経済的利益が見込めるということがあったのですが、シフが活躍し始めたのは日露戦争の帰趨が見えていた時期ではなく、多いなリスクを承知しての上の日本国債引き受けであったと思います。

 

ジェイコブ・シフ(左)とエドワード・ハリマン(右)

【画像出展:Wikipedia ile:JacobSchiff.jpg(シフ)、File:Edward Henry Harriman 1899.jpg(ハリマン)】

 

そしてシフトともに、多くの日本国債を購入したのが、鉄道王と呼ばれたアメリカ人大実業家のエドワード・ハリマンでした。ハリマンも、ユダヤ人です。

 

日露戦争の戦費のうち8割近く(77.6)は物件費、つまり軍需物資の購入に充てられています。日本初の大規模銑鋼一貫工場である官営八幡製鉄所が竣工したのは、日露戦争に先立つこと3年前の1901年ことであり、1904年当時国内で消費される鋼材の8割以上は外国からの輸入に頼っていましたし(下のグラフを参照ください)、その他多くの工業製品や大型艦船は外国製でした。

 

飯田賢一著『鉄の100年 八幡製鉄所』(1988年)掲載データを素に作成。

【鮮明な図面は、ホームページ『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』→「『小塩丙九郎の歴史・経済ブログ』専用図面集」→「(27)日本は東アジアでどう生き残るか」の「27-2」の画面を見てください。また下のグラフについては、同27-3、4」の画面を見てください。

 

日本は日露戦争を戦うために巨額の外貨を必要としたのであり、外債の発行がその外貨の入手手段であったのですから、シフの協力がなければ、日本は武器を揃えることすらできなかったということになります。

 

 

日本海海戦でバルチック艦隊を破り、日本海で完全な制海権を得た日本ですが、陸上では苦戦が続いていました。戦線は伸び切り兵站も限界に達しており、一方シベリア鉄道を完成させたロシアは、単線上を一方向に順に列車を走らせて輸送力を確保するといった具合で、長期の陸上戦を戦う準備が整いつつありました。

 

そこで、従来より日本に好意を寄せていたセオドール・ルーズベルト大統領が、日本とロシアの戦争終結のための条約締結の仲介役を買って出てくれました。

 

 

ルーズベルト大統領が日本に好意的であったのは、彼もユダヤ人でロシアのやり方に反発していたということが背景にあると同時に、より重大な動機は、日本を支持しつつ戦争終結条約を斡旋することによって、イギリスやロシア、さらにはフランスやドイツに比べても大幅に出遅れていたアジア進出を日本と連携しながら積極的に展開しようという目論見をもっていたからです。

 

で、その具体の戦後に向けた行動として、ルーズベルト大統領と気脈を通じたハリマンが条約交渉中に日本を訪れ、ロイド・グリスコム駐日大使に同行されて桂太郎首相や山縣有朋(当時参謀長)と会い、“桂・ハリマン仮協定”を締結することにこぎつけていました。この仮協定は、日本がロシアから得る南満州鉄道(元東清鉄道南満州支線)を共同で経営することに合意するというものでした。

 

ポーツマス条約でロシアから日本に譲渡されることとなった東清鉄道の大連―長春間の路線図

【画像出展:次の画像に私が追加作図:Wikipedia File:Chinese Eastern Railway-en.svgAuthor:Chinese Eastern Railway.svg: Voland77 & dentative work: Vmenkof(talk)

 

 

当時の鉄道は、単なる鉄道路線経営体というのではなく、沿線の行政権をもった線状の大きな利権地帯と言ったようなものでした。東清鉄道の場合には、会社の株式すべてをロシア政府が所有し、関税免除の特権、沿線の行政検察権を清朝から譲られていました(1996年に李鴻章との密約でロシアの建設が認められています。これが清朝の大崩壊の始まりだという人もいます)

 

そこで、線状の治外法権地といった風情の鉄道を足掛かりに、南満州で様々な事業を行い、あるいは金融業を行いつつ利権を拡大したいというのは、事業家としてのハリマン個人の希望であり、同時にアメリカが国としてのアジア進出の突破口とするという戦略の第1歩を実現するということであったのです。

 

 

日露戦争を始め、そして遂行するために必要な戦費を調達し、さらに戦争終結を可能とした条約周旋の労をとった国としてのアメリカ、あるいはアメリカのユダヤ人社会の代表者としては、満州について日本と共同して利権を醸成する機会を得るというのは、当然の見返りであると考えたのでした。あるいは桂や山縣はそう理解したから、“桂・ハリマン仮協定”に調印したと思われます。

 

セオドール・ルーズベルト(左)と小村寿太郎(右)

【画像出展:Wikipedia File:President Theodore Roosevelt, 1904.jpg(ルーズベルト)、File:Portrait of Komura Jutaro.jpg (小村寿太郎)】

 

しかし、ハリマンがアメリカへの帰途に着いたのと入れ替わりに帰国した全権大使を務めていた外務大臣の小村寿太郎は、10万人の日本人の骨を埋め、国民の血税(戦費)で得た満州の権益を、アメリカに売るのか!」と烈火のごとく怒り、ついに仮協定を破棄させてしまいます。必死で条約を取りまとめて日本に帰ってみると、予測されたといえ多くの日本人から大非難されて、心の安定を欠いていたのかも知れませんし、そのような立場に小村を追い詰めた自責の念を桂や山縣がもっていたのかもしれません。

 

しかし、それは私情というものです。そして私情に流されては、国益は、そして国の安全保障は実現できません。しかし。”小村の侍としての志高し”として、小村の熱情を高く評価する人が今の日本の中に多くいます。その人たちが現政権の近くにいる、ということに私は不安を覚えます。

 

 

この仕打ちにハリマンは静かに怒りました。東京の総理官邸を訪れていたちょうどその時間に宿泊所にしていた帝国ホテルの隣の日比谷で焼き討ち事件があり、そこでハリマンは恐怖におののいて以降反発の力を失ったのだと説明する人が多いのですが、一度ひっくり返されたちゃぶ台が元に戻ることはないことを知った大実業家が、無駄な行為に及ばなかったというだけのことでしょう。日本を離れて4年後の2009年、ハリマンは61歳の若さで死去しています。

 

ルーズベルト大統領は、声に出して大怒りに怒りました。

 

太平洋からロシア艦隊がいなくなった後、アメリカの仮想敵国はロシアから日本に変わりました。日露戦争後、アメリカと日本は建艦競争に入るのですが、イギリスを凌ぐ艦隊を整備し、パナマ運河の開通とともに大西洋と太平洋をつないで一体として大艦隊を運用できるようになったアメリカが優位で、日本は軍艦建造のために国力を疲弊させていくことになります(日本の軍事費のGDPに対する比率が高いことは下図を見ればわかります。このことについては、次回以降で再度詳しく議論する予定です。また、日露戦争を戦うための一時の増税とされていたものは、恒久税化され、消費財産業の発展のために必要な日本人の購買能力は低く留まることになりました。

 

出典:日本については、山田朗『軍備拡張の近代史』(1997年)掲載データを素に、アメリカについては“OUR WORLD IN DATA”掲載データを素に作成。

【鮮明な図面は、ホームページ『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』→「『小塩丙九郎の歴史・経済ブログ』専用図面集」→「(27)日本は東アジアでどう生き残るか」の「27-4」の画面を見てください】

 

 

日本は1905年の日露戦争終結とともにアメリカと敵国関係に陥り、ロシアとの間にあった安全保障の危機をアメリカとの間の安全保障の危機に置き換えました。そして、アメリカとの緊張感を耐え抜くために産業開発は後回しにして、軍備拡大に走ったのです。

 

このことの危うさを1920年代に指摘し、軍備拡張より産業開発を優先しろと主張したのは海軍大佐水野広徳であり、それを理解したのは、ワシントン会議(1921-22年)で軍縮に同意した加藤友三郎海軍大臣だけです。

 

水野広徳(左)と加藤友三郎(右)

【画像出展:Wikipedia File:Mizuno Hironori.jpg(水野広徳)、File:Katō Tomosaburō.jpg(加藤友三郎)】

 

加藤は帰国4か月後に総理の座に就くのですが、わずか2月で急死して、軍縮路線が日本で定着することはありませんでした。列強、特にイギリスとアメリカとのバランスのとれた協調に賭け、日英同盟を破棄まで受け容れた加藤の覚悟は、軍拡に猛進する海軍官僚たちの前で無為に帰し、日本は孤立の道をさらに進む続けたのです。

 

 

小村寿太郎は勇ましい侍であったのですが、幕府官僚や明治新政府の官僚たちと同様に、経済についての理解を完全に欠き(最終学歴はハーバード大学ロースクール卒)、そして産業発展と安全保障を同時に実現する国家基本構想というものを持つことなく、そして結果として、日本の近代産業を発展させることも、あるいは日本の安全保障を実現することもなく、1945年の日本の軍事・経済大破綻への道を開いたのでした。

 

そして、安全保障と産業発展を同時に両立させるという国家基本構想を持つことがなかった桂や山縣は、小村の暴走を制止しなければならないという強い覚悟を持つことなく、”侍の情”に負けたのです。それが20世紀まで生き残った長州の志士の本質であったのかも知れません。つまり、20世紀初頭の日本は、江戸時代を脱し切れてはいなかったということです。

 

 

この20世紀初頭の国家基本構想を欠いて孤立した状態と、そして同じく国家基本構想を欠いたままひたすらアメリカに密着を求めるという今日の状態と、まるで違っているようでいて、国家基本構想を欠いているという点についてだけは共通しているのです。

 

どちらも危うい、と私は思います。

 

いや、今の日本には確固とした国家基本構想というものがちゃんとある、と考える読者がいたら、そのことをコメントに書き込んでください。匿名希望であれば、そのようにして他の読者にも公表します。私だけが常に正しいとは思っていませんので、読者の批判を浴びながら結論を探していきたいと思っています。

 

 

小村が後の日本とアメリカを対立関係にしたと非難するのは誠に見当外れだと主張する人がいます(中西輝政著『日本人として知っておきたい近代史(明治篇)』〈2010年〉)。中西の主張は、「井上(馨)や伊藤(博文)らは、(中略)ハリマンの真意を見抜けないままその提案に一も二もなく飛びついた」のであり、小村は、「ハリマンとは違い鉄道の所有にはさして関心をもたない米モルガン系の金融財閥から資金を調達するメドをつけていました」というのです。そして、「小村は、アメリカとの衝突を避けつつ、日本の自主性と日米協調をいかに達成するか、を考え抜いてい」て、1907年にアメリカ艦隊を横浜に招くという好意を見せたために、「悪化していた日米関係は小康状態に向かいました。(中略)実に見事な外交手腕であった」のだと。

 

この主張では、小村以外の桂も井上も、伊藤も山縣(有朋)もみな国際問題のことは何も理解しないバカだということになります。そしてハリマンと契約すれば鉄道は乗っ取られるが、モルガン商会だったら日本が主導権を握れたというのです。そして、ルーズベルト大統領が日本を仮想敵国として位置付けたというほどに難しくなった日米関係は、アメリカ艦隊に少しの好意を示したので落ち着いた、というのです。

 

中西は、歴史は人物を中心として見ればわかると主張するのですが、アメリカの東アジアに対する国家基本構想が艦隊の訪問について少しの好意を見せることによって変化したと主張するのを見ると、反論する気も起きません。しかし、その主張がWikipedia(『ポーツマス条約』)の本文中に史実として記載されるに及んでは、無視もできずに余分なスペースを割いてしまったという次第です。

 

中西の主張は、小村は日英同盟を結んだ立役者だったから偉いというのですが、それはイギリスがロシアに対抗するために、単独では十分ではないから日本の協力を必要としたからです。ならば、太平洋に当時アメリカと並ぶ海軍大国であるイギリスが残る以上、アメリカも日本の助力を必要としたはずです。

 

しかし、中西は、アメリカは条約の周旋にとりかかる以前から日本を仮想敵国として見ていたというのです。ならば、ルーズベルトも日本の指導者同様にバカだということになります。中西は、小村を褒めるために、日本とアメリカの指導者をひっくるめてすべてバカ扱いしています。これが「日本人として知っておきたい歴史」だとは、とても思えません。

 

 

次回は、戦前の日本は世界市場に積極的に加わろうとしなかったことが、結果として日本の敗戦を招いた、という話をします。