1858年に日米修好通商条約に基づき、日本とアメリカの貿易が始まったのですが、それが徳川幕府の命脈を絶つことになりました。そのことをきっかけとしてハイパーインフレが発生して、日本経済が史上初の大破綻をしたからです。

 

そして一方、倒幕の機会を窺っていた西南日本雄藩の経済は、発展し続けていました(どのように発展していたかは、319日付ブログ『薩長に負けた幕府官僚の経済無策-今の日本財政は黒船来航3年前の幕府財政と同じ(9)』に説明しています)。 

 

幕府を中心とする東日本と西南日本雄藩を中心とする経済発展力の差は、人口の伸び率を見て見ればたちどころにわかります(人口の推移については、下に載せたグラフを参照ください)。それによって生じた幕府と西南日本雄藩の経済発展力の大きな違いが、倒幕とそれに続く明治維新に繋がったのだ、と小塩丙九郎は考えています。 

 

出典: 鬼頭宏著『[図説]人口で見る日本史』(2007年)掲載データより作成

注意: 蝦夷地(北海道)の人口の伸びは特に大きい(455)ので、図示しなかった。

 

西南日本雄藩が幕府に勝利したのは、結局のところ大きな武力の差であり、そしてその差は両陣営の武器装備の差でした。西南日本雄藩が有力な経済力を背景に先進国から大量の最新鋭の鉄砲を調達し、それを素に強力な軍隊を編成していたのに対し、幕府と幕府につき従う東北諸藩の多くは、依然として旧型の鉄砲、場合によっては火縄銃という貧相な武器しか装備していませんでした(幕府軍も一定数の最新のスペンサー銃を装備していましたが、薩長両藩には及んでいませんでした〈各種の銃の画像は、下に載せてあります〉)。

 

 

〔画像出典:Wikipedia File:Tepu5.jpg (火縄銃)、File:Minie rifle.jpg (ミニエー銃)、File:Spencer-rifle.JPG〔著作権者:Hoodinsk〕 (スペンサー銃)〕

 

さて、それではどうして1858年にハイパーインフレが発生したのか、ということです。その直接の原因は、当時の日本と先進国の間にあった金・銀の交換比率に大きな違いがあったことです。日本では、金と銀との交換比率はおおよそ15であったのですが、先進国ではそれは115であったのです。だから日本にやって来た先進国の商人たちは、自国の銀貨を日本の銀貨に交換し、そしてその5分の1の日本の金貨に交換します。そしてそれを自国に持って帰り、それを鋳つぶして自国の銀貨と交換すると、銀貨はなんともとの3倍に増えているという次第です。

 

そのことに気付いた先進国の商人たちは、競って日本の金貨を国外に持ち出しました。慌てた幕府の官僚は、先進国の代表と談判して従来の金貨(安政小判)の3分の1の重さで希少金属としての価値も3分の1しかない金貨(万延小判)を発行したのです(慶長小判に比べれば、希少金属としての価値は7分の1にも達していません。慶長、安政、万延の各小判の画像は、下に載せています)。 

 

〔画像出典:Wikipedia File:Koban evolution.jpg

 

その結果、金貨の流通量は途端に3倍に増え(金貨は計数通貨でしたので、枚数が増えればその分発行通貨総額〈マネタリーベース〉は増えます)、市場に大量の通貨が溢れて通貨の価値が下がったのです。そして、物価が高騰してハイパーインフレが発生したのです。

 

幕府が有力な大坂、京以東の日本では、天保の大飢饉が発生して以来、経済規模が縮小を始めていました(そのことは、天保の頃より物価の影響を取り除いた〈実質の〉貨幣流通総量が急速に収縮していることから推測されます。貨幣流通総量の推移は、下に載せたグラフで確認下さい)。そうした状況にある市場をハイパーインフレが襲ったのですから、市場は大混乱に陥ったのです。 

 

出典: 新保博著『近世の物価と経済発展』(1978年)掲載された複数の系列のデータを使って算出した。短期推計の基にしたのは、新保博の示した貨幣流通量と大阪両建換算卸売物価指数(実質通貨流通=貨幣流通量/大阪両建換算卸売物価指数として計算)。 長期推計の基にしたのは、岩崎勝の示した貨幣流通量(1818年、1832年、1858年について)と大阪米卸売物価(新保著前述図書館末のデータ表にあるもの)(実質通貨流通量=貨幣流通量/大阪米卸売物価指数として計算)。

 

一方の西南日本は順調に経済成長を続けており、幕府の発行する金銀貨の他に、幕府の指示に反して藩札を発行していましたので、西日本経済は大混乱を免れていました。こうした状況を見て、従来より西南日本雄藩とそれらの藩の専売事業と全国への流通事業について深い協力関係を築いていた京や大坂の豪商たちは、幕府を見限り、西南日本雄藩と協調することにますます傾いていったのです(最も積極的なのは、三井でした)。京、大坂の豪商たちは、表面は幕府に従いつつ、裏では倒幕費用を支援するなどしていたのですから、幕府が倒れるのは時間の問題となっていたというわけです。

 

そして京、大坂より遠く距離を隔て豪商たちとも深い縁をもたず、或いは先進国と直接の交易を行ってはいなかった東北諸藩は、その様に時代が急速に変化していることに気がつかず、幕府へ恭順する態度を改めることはありませでした。その代表が会津藩で、慶喜の誘いに乗って京で西南日本雄藩に対抗する矢面に立たされ、その結果戊辰戦争(1868年)に敗北して悲惨な結果を招くことになりました。

 

そのような幕府の倒壊と新政府の樹立の直接のきっかけとなった1858年のハイパーインフレは、その頃すでに京、大坂以東の日本が高率のインフレが進行する状態であったことから(当時の日本の物価の推移については、下に載せたグラフを参照ください)、容易に引き起こされたことでした。そしてそのような恒常的に高率のインフレが進む市場をつくりだしていたのは、幕府が赤字財政を取り繕うために差益(出目)の獲得を目的とした通貨の改鋳を繰り返して、市場に流通する通貨の総額(マネタリーベース)が増え続けているからでした。 

 

出典:飯島千秋著『江戸幕府財政の研究』(2004年)掲載データ等を素に作成。

 

つまり、幕府が大節約を行うなどして財政の収支バランスを回復して恒常的な財政赤字状態を解消するという努力もせずにいたことが、高率のインフレを招き、1858年のハイパーインフレの発生を容易にしたというわけです。ですから、1868年の幕府崩壊の根本的な原因は、幕府が赤字財政を続けたことだ、と小塩丙九郎は考えています。

 

ここでもう一度、前回ブログ(11月日付『天保の改革は安倍改革とそっくり!』)で書いたことを思い出して下さい。天保の改革の頃、幕府の財政赤字の状態は、ちょうど今日の日本の財政赤字の状態に匹敵する水準にありました。今日の日本政府の赤字国債依存率が恒常的に3割になったのは、2009年以降のことです(日本政府財政の赤字国債依存率の推移は、下に載せたグラフで確認できます。なお、赤字国債依存率は、特例国債残高増加額の政府の実効歳出額〈歳出総額から名目だけで意味をもたない債務償還事務費を引いた額〉に対する割を算出しています)。そして幕府がその状態を放置したことが、それから15年後の政権崩壊を招いたのです。 

 

出典財務省ホームページ経済データを素に作成。

 

だとすれば、2009年から15年後の2020年代初頭には、日本経済が破綻に至るということは、おおいにありそうだと考えるべきではないでしょうか? 

 

このことに考えが及べば、今の日本政府が今の水準の赤字財政を続けることが、いかなる結果を呼び寄せることになるか、すこしの想像力を働かすだけで、容易にその近い将来像を描くことができる、と思うのです。

 

「幕末のハイパーインフレは日本の近未来の姿」である、という表題の意味はそういうことです。

 

次回は、戦前の日本で最も人気の高い平民宰相と呼ばれた政治家が、近代日本史上初の経済破壊者であったという話をします。