1945年に日本が太平洋戦争に負けた後、直ぐに戦後の復興計画を検討し始めた政府組織といえば、外務省が玉音放送があった翌日の816日に立ち上げた「戦後経済調査会」でした。なぜ、外務省が?というと、敗戦後すぐに連合国から戦争賠償金の支払いを要求されることが考えられたからです。日本政府としては、どれほどの要求になら耐えられるのかという、その限界を知っておかねばならず、そのためには戦後の経済復興計画はどのようなものであり得るか、ということを想定しなければ計算できなりませんでした。

 

戦争中に(1944年)、逓信省〈ていしんしょう〉技官であった松前重義(1901-99年;後に衆議院議員→東海科学専門学校〈現東海大学〉を創設)は、日本の生産力ではアメリカに太刀打ちすることは不可能だという報告者を作成して各方面に配ったことをとがめられて、40歳をはるかに過ぎた高齢で、しかも勅任官(ちょくにんかん;天皇から直接任官される高等官僚)であるにもかかわらず、南方戦線に二等兵(兵の最下級)として送られています。そのような気骨があり、ひたすら日本の将来を憂いた技官がいた一方で、大蔵省官僚も商工省官僚も、或いは内務省官僚も、文官の誰一人として真剣に日本の将来を考えた者はいませんでした。そしてそれらの者は、敗戦が誰の目にも明らかになった後も、無為に毎日を過ごし、戦後復興策を予め考えておくということはありませんでした。

 

外務省に招集された戦後調査会に参加した者のうち、戦争中から戦後復興のことを考えていたのは、僅かに有沢広巳〈ありさわひろみ〉ら数人のマルクス経済学者でした。有沢らは、戦争前から戦時中にかけての激しい東京帝国大学経済学部の派閥争いの中で、主流派からうとまれて大学の隅に追いやられ、或いは学外に追放されていました。それらの者が、細々と戦後復興計画を考えていたのです。外務省は、そのような者にすがる以外に、戦後復興計画を検討することはできませんでした。大蔵省官僚も、或いは一旦軍需省に組織替えされ軍官僚に乗っ取られていた商工省が再び復活しても、その官僚たちのうち誰も当てにはできなかったのです。

 

半年かけて、調査会は報告書をまとめます。1946年に作成された『日本経済再生の基本問題』はしかし、学者がつくる机上の空論の典型といったものでした。しかも学者らしくもなく、その報告書には自分たちの主張の正当性を証明する裏付けとなる解説もデータも一切掲載されていません。そしてその結論といえば、「○○が望ましい」といった表現の空疎な理想論が並べられるだけで、具体的な復興策についてはまったく提案されていません。

 

さらにこの案はマルクス主義経済学者が優勢であった委員会で検討されただけあって、国家社会主義の実行とも言える戦前の統制経済に馴染んだ官僚たちが築いた社会主義の色彩がとても濃い強い計画経済体制による復興策に賛同しています。冒頭の現状認識において、「利潤追求を原動力とする自由競争は経済の発展を混乱停滞せしむるに到り、生産と消費との間に計画的調整が必要とせられる時代となつた。すなはち自由放任を原則とする上昇期資本主義時代は既に過去のものとなり、十九世紀末より開始せられた私的独占資本の段階をも通り越して、世界の経済は遂に国家資本主義の時代すなはち統制され組織せられた資本主義時代に突入したのである」と述べています。

 

彼らは、新しい世界に向かうと口にしながら、実際には、戦前から戦中まで日本を主導した古い計画経済体制の正当性を再び宣言したのです。さらには、「日本はその地理的位置において今次大戦後の二大勢力圏たる米英圏およびソ連圏の接触部に存在する。現状においては一応米英圏に包摂せられた形となつてゐるけれども、今後、常に両圏からの影響を蒙る立場にあるから、日本の国際的環境は複雑な色彩を帯びることとなり(略)」と述べ、ソ連圏への憧憬を暗示さえしています。そしてその主張には、その正しさを証明するいかなるデータも提示されていないのです。まさに、官僚と学者でつくる机上の空論の典型でした。

 

戦時中に戦後復興のことを考えていたとする経済学者を加えた結果、なお、このような報告書しか作成できなかったのですから、戦時中から戦後復興策を具体的に構想していた者は、官僚の中にも学者の中にも誰もいなかったと言って過言ではない、と小塩丙九郎は考えます。

 

このような荒唐無稽な報告書を、戦後復興を図った首相の吉田茂は受け容れませんでした。受け容れられる道理はなかった、といった方がいいでしょう。つまり、戦後復興は基本構想も基本計画もないまま、その場しのぎで進められたのです。

 

戦後復興を円滑に進めるために必要な物価の安定についてでさえ、官僚や経済学者は景気対策が第一と称してまともに取り合うことができませんでした。戦後の国際貿易市場は、1944年に連合国が合意して定めた金兌換性をもつアメリカのドルに為替レートを固定して各国通貨を運営するといういわゆるブレトン・ウッズ体制の下で進められていたのですが、日本の官僚と経済学者はアメリカの好意による複数の為替レート制にすがろうとするのみで、独自に安定した通貨を成立させ、国際貿易市場へ参入するということにもまったく取り組もうとはしなかったのです。

 

物価安定をいくら指示しても無視する日本の官僚たちに業を煮やしたアメリカは、本土から経済学者でもあったデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジを招聘して、日本政府に強権で緊縮財政政策をとらせて、ようやくハイパーインフレの進行を止めたほどです(敗戦後の日本の物価の推移は、下記URLに載せたグラフで見ることができます)。しかしその経済安定策については、日本の官僚や経済学者は「ドッジ不況」という名前を付けて恨んだのです。

 

出典:日本統計協会著『日本長期統計総覧 第4巻』(1938年)掲載データを素に作成

 

戦後経済調査会に何らかの成果があったといえば、それが軽工業より重工業を優先して復活させるという順番を示したことであり、或いはその主力メンバーの一人であった経済学者の有沢広巳の提案により、その端緒となる“傾斜生産方式”が実行されたということかもしれません。傾斜生産方式とは、当時ほぼ無傷で残されていた製鉄工場と陸軍が残したクズ鉄などの製鉄素材を利用し、アメリカより石油を輸入して製鉄を行い、そうしてつくられた鉄で荒れ果てていた炭鉱の再採掘を開始し、そうして得た石炭で製鉄所を稼働させるというサイクルを完成させるというものです。

 

ただ、軽工業より重工業を優先させるというのは、誰が考えてもその順番になったでしょうし、傾斜生産方式は調査会報告書である『日本再生の基本問題』で提案されていたものではなく、いわば思い付きの策でした。つまり、日本経済復興の基本構想や基本計画があって生まれたというものではなく、いわば追い詰められた挙句のフロックであったといったものです。

 

マルクス経済学者や、或いはマルクス経済学にその発想の基礎をもつ日本の経済官僚たちも、マルクス経済学が求める計画経済体制を築くに足るだけの経済復興計画をもたなかったのです。戦後の経済復興が可能となったのは、アメリカの日本占領政策が、当初の日本の再軍事国家化を防ぐことのみ考えた苛酷なものから、第2次世界大戦後すぐに始まった東西冷戦を勝ち抜くために、日本を西側陣営に留めるため、アメリカの占領政策が日本の経済復興を強力に支援するものに変わったからだと言っていいと思います。

 

そのような基本政策があったために、中国に戦争賠償のために解体して引き渡されるはずであった製鉄所を含む製造設備が日本に残され、その上さらに石油を安価に供給されるということが行われたからです。ちなみに、戦争が終わったとき、日本の大半の工場設備は戦争賠償のための資源として、戦時中に空襲されることなくほぼ無傷で残されていました(敗戦直後の工場設備の残存率を下記URLのグラフに示しています)。戦後は焼け野原からの出発だという経済学者や歴史学者の主張は、事実に反しています。空襲され消失したのは、大都市の市街地に限られていました。

 

出典: 宮崎正康・伊藤修著『戦時・戦後の産業と企業』(岩波書店『日本経済史7―「計画化」と「民主化」』〈1989年〉)、但し造船については、小野塚一郎著『戦時造船史』(1989年)による。

原典統計: 経済安定本部『太平洋戦争による我が国の被害総合報告書』 1949年 付属図書(造船以外について)

説明: ここで言う残存率とは、1941年から1945年までの最高設備能力に対する、戦争終結時の工場設備能力の割合を言う。

 

しかし、2020年代初頭に日本が再びハイパーインフレを迎えて大経済破綻した後、経済復興を行うためにアメリカが1940年代後半から1950年代にかけて日本に示した厖大な好意が日本に施されることを期待することは難しいでしょう。第一、当時の日本とアメリカの経済規模の差と、今日の両国の経済規模の差の違いはあまりに大きく、仮にアメリカに好意があったとしても、今度の日本の経済復興に必要な規模での援助を行うことはできないでしょう。

 

ですから、2020年代初頭に3度目の大経済破綻が訪れるとわかった今から、用意周到に大経済破綻後の復興策を考えておいた方がいい、というのが小塩丙九郎の考えるところです。

 

次回は、今度のハイパーインフレを伴う大経済破綻を迎える準備を今から始める必要がある、という小塩丙九郎の主張を紹介します。