朝、萬古焼の土鍋でご飯を炊く。土鍋は亡き父からもらったもの(生家は四日市の萬古焼)。

水加減によって芳ばしいおこげができ、炊飯器のご飯はもう食べられません。

わたしはあとを継がなかったのですが、いつからか妹が土をこね始めて。4年前都内のギャラリーで、古い友人の鳥越さんがお花まで届けてくれた俳句の展示イベントでお披露目しました。「狐火」とか「雪催」とか、わたしが勝手に銘をつけ、お世話になっている人に差し上げています。祇園「みの家」の薫さんも好いてくださり、行くと必ず床の間などに飾っていただき。そうやって愛でてくれる人がいるのに、いまは遠ざかっているようです。わたしがどうあがいても手に入らない、まぎれもない才能だと思うのですが。

日常のささやかな充足と、身の程知らずの設計で、「伊集院静のいない夏」は過ぎてゆきます。