大学生の身としては、モラトリアムと言っても良いほどの自由な時間を利用して、
各地の窯元を訪れるのも良いかもしれないが、
出不精が焼き物に触れるためには、デパートの陶磁器コーナーがやはり便利である。

そのなかで長いこと気になっているのが、美濃焼きのコーヒーカップである。
美濃焼には、織部、瀬戸、志野などの別があるが、件のコーヒーカップは織部のもの。

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落ち着いた青に葡萄の装飾が施されたカップは、古くから愛されるコーヒーとジャズの素敵なカフェに似合う佇まいで、拙宅の有様には馴染まないかもしれない。

こういった器にはある種の「大人」を感じる。
私がこの器に惹かれるのは、その色合いや葡萄がコーヒーを美味しくしてくれるであろうという確かな期待もあるが、それよりも、この器を持ったときに自分が「大人」になるような仄かな期待によるものだ。

しかしその「大人」像とは、結局のところ「コーヒーとジャズの素敵なカフェ」のことで、
それは、子供の頃にタバコの形を模した駄菓子を欲しがった、あのときの気持ちとさほど変わらないであろう。

一昨日も昨日も、私は「コーヒーとジャズの素敵なカフェ」で一日を過ごした。
しかし、そこにいた私自身は、私の想像する「大人」の姿とは似ても似つかないもので。
ココアシガレットを銜えた小学生の私は、今の私を「大人」だと言ってくれるだろうか。

私はいつまで、ありもしない「大人」を追い続けるのか。
葡萄のコーヒーカップは教えてくれるであろうか。
陶磁器が好きな私ですが、初めて焼き物に恋をした瞬間のことを今でも覚えています。
2年前の鎌倉でのことです。
実際にその恋が実ったのは去年の紫陽花の時期になりますが、そのときの日記を久しぶりに掘り起こしてみました。

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鎌倉いってきました。
去年も今頃行ったのだけど、今年は紫陽花を愛でようと思い、重い腰をあげてみたのです。
日頃の出不精がたたり、まず起床がおくれ、のろのろと支度をして電車に乗り、やっとこさ着いたのは昼を回った時分で、やれ寺巡りだ、やれ隠れ家的カフェ巡りだなどと考えていたことも全て諦めて、折れた大銀杏を見て満足してしまいました。
この時ばかりは、次はもっと早く出掛けようと心に決めるのだけど、まず、その「次」がなかなかこないのは出不精の性でしょうかね。

そんななかでも、成就院の大ぶりの紫陽花をしっかりと愛で、小町通りの鎌倉風情溢れる土産屋を見物してまわり、なんと観光客然としたことか、人力車にまで乗り、梅雨の鎌倉をたっぷりと堪能して参りました。

実のところ、寺やら隠れ家的カフェやらにはそれほど熱情を注いでいたわけではなく、言ってしまえばあの見事な紫陽花でさえも重く凝り固まった私の腰を動かすためのきっかけに過ぎなかったのです。では何のために鎌倉まで脚を運んだかというと、ここ一年、鎌倉を思い描いたときに一番に浮かんでくるのは、紫陽花でも寺でも隠れ家的カフェでもなく、八幡宮に近い静かな陶器屋の入口にちょん、とおかれた桜色の萩焼の佇まいであり、あのぽってりとした愛らしい焼き物を今年こそは自分のものにしたいという欲望をいざ晴らさん、いざ鎌倉、という訳だ。
実際行ってみると、記憶にあるよりもしっかりとした店であるらしく、恋い焦がれていたあの萩焼も実は良家のお嬢様でありましたが、しかしこれは運命の出逢いであり、幸い私の財布も二人出逢いを祝福している。これは買うしかない。こうして私は本懐を遂げるとともに、鎌倉小旅行を素晴らしき思い出として締めくくることができたのです。

写真は私の嫁と仲間たちです。選べなかったので2枚のせます。ついでに紫陽花も。
写真では焼き物の良さが全く表されていないので、ぜひ皆さん実物を見に来てください。歓迎します。


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惜しむべきは、本当にこの写真が彼女たちの魅力を表せていないこと。なので今回は残念ながら載せていません。
多分酔っていたんでしょう(笑)いつか是非ともリベンジしたい。

今年もまた鎌倉に行きます。
紫陽花の頃に、去年と同じひとと一緒に行きます。
鎌倉には、お金を出してもいいと思える魅力的なものがたくさんあって、
人生のなかで、大切な人と年に一度訪れるにふさわしい、すてきな街です。

今年もどういう形になるか分かりませんが、鎌倉の思い出をどこかにつぶやくことでしょう。
でも去年と違うのは、「ぽってりとした愛らしい焼き物」が、少しのふてぶてしさをもって私の隣にいてくれることで、そのふてぶてしさは、間違いようも無く私たちの一年間の歴史によるもので。
去年はまだまだ他人行儀なところがあったかもしれない。今年は、彼女がもっと我が物顔で私の隣にいてくれることになるだろうし、そうなることがとても嬉しい。
そして、その愛娘の隣には、去年と同じひとがいてくれるでしょう。
そうなることが、とても嬉しい。
先日、池袋東武の焼き物コーナーに特設ブースができていました。
特設ブースと言っても、普段通りずらりと並んだ種々多様な焼き物の一角に、
見慣れない染め付けが並んでいるなあ、くらいの認識。
覗くと、一人のおじさまが染め付けをしている。
本当に、デパートの器売り場の、通路の横で、
一人で静かに座って、染め付けをしている。

常は萩やら美濃やらを愛でている身としては、正直、白い器に機械的な文様の染め付けは、なんと言うか人間味に欠けるような気がして、魅力がよく分からないなんてこともあり、
最初は野次馬の一人としてその様子を遠くからちらりちらりと見ていただけでした。

人間、どこにもミーハー心というものはあるもので、
何だかんだと言っても、焼き物好きとしては、どんな風に器に呉須をのせていくのか興味はある。
じりじりとにじり寄りながら、おじさまの手元をひょいと覗く。
そこにあった生の器は、とても精緻で、繊細で、しかしまだ完成にはほど遠い、確かに人間の手によって描かれている器のまだ生まれる前の姿でした。

「なにか珍しいものはありましたか」
そう話かけてくれたおじさまは、自分の作品のこと、自分がこの仕事に就くまでに経験したたくさんのこと、娘さんのこと、いっぱいおしゃべりしてくれました。
私としては、たいそう不思議な感覚として、
今私と人生の話をしているこのおじさまが、私たちを取り囲んでいるこのたくさんの作品たちを生み出した窯元となかなか結びつかず、
しかし、おじさまの手元を見れば、まだ命を吹き込まれる前の、柔らかい色をもった唐草の模様があり、やはりその結びつきを認めなければならないようで。
「私もいままでいろいろな仕事をしてきたけれど、結局はここに落ち着いた。
何事も真面目にやらなければ駄目。ちゃらんぽらんにやったら、ちゃらんぽらんな結果しかついてこない。
焦る必要はないよ。ゆっくり、でも真面目にやっていれば、何とかなる」
「真面目にやりなさい」という言葉が、ここまで真実性を持って伝えられたことは初めてかもしれない。
私たちを取り囲む無数の彼の息子、娘たちが彼の言葉にうなずいているような気さえしてきて、
ああ、染め付けに人間味がないなんて、私は今まで何を見てきたのだろう。
こんなにも分厚い人生に裏打ちされた、確かに血の通った子供たちだというのに。

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おじさまは、有田焼の道雪窯の窯元、城篤範さんとおっしゃいます。
九州に訪れたときには、おじさまの人生によってつくられた器を自分の子供にしたいなあと思う。