【最後に「怒り」の感情を表したのはいつだろうか】


こんばんは、kosenです。

今日、先日解雇されたバイト先に最後の給料をもらいに行ってきました。

解雇されたいきさつについては前回のブログに書いたので、もし知りたい方がいらっしゃいましたら以下のリンクから飛んでください。

↓↓↓↓

http://ameblo.jp/kosen-21/entry-12063633993.html


他のスタッフにどんな顔していけばいいのか分からなかったので、正直行きたくなかったです。

ただ給料をもらわないわけにはいかないので、重たい足を動かしてやっとの思いでお店に行ってきました。

お店の雰囲気は働いているときとは、まったく違っていました。

完全に自分がアットホームを感じられる場ではなくなっていました。

そしてマネージャーの自分に対する態度は、完全に他人行儀になっていました。

(まあもともと他人なんですけど(笑))


本当のことを言うと、私は最後にマネージャーに文句を言ってやるつもりでした。

しかし…できませんでした。



ここからが本題です。

私はふと思いました。最後に「怒り」を表したのはいつだろうか?

思えば私が最後に「怒り」を表した記憶は中学生で止まっています。

確かその時は自分の私物を奪われたあげく、体を押さえつけられたので、それにムカついて友達を思いっきり蹴った時でした。それ以来私は怒ったことがありません。


なぜ自分は怒ることがこんなに少ないのか、自分でもひたすら考えたことがあります。

私はもともと「怒り」という感情は感じることはありませんでした。

つまり「怒り」という感情を表すもなにも、存在しなかったのです。

そして自分でも「怒り」を感じず他の人を怒ることも、何かに八つ当たりすることもない自分をいい人だと、完全に思い込んでいました。しかし、それはあるとき間違いだということに気づいたのです。


感情を制御するシステムがパンクしたのです。


私はこれまで「怒り」という感情を心の奥深くに抑圧し、それすら感じないように自分を騙し、表面上ではいい人を装い続けていたのです。

それが癖になり続けているとどうなるのか?

感情の制御システムがパンクします。


自分がどんな感情を感じているのか、何に対して喜びを感じ、何に対して寂しさを感じるのか分からなくなり、しまいには自分という存在さえも分からなくなっていしまいます。

こちらについてはフロイトも精神分析学において、よく書かれてますね。


そして

「怒り」の感情を感じない人はいません。


なぜなら「怒り」は自己防衛において大切な手段であるからです。

番犬が激しく怒りながら吠えるのも、迫っている危険から自分たちの身を守ろうとしているからです。

日本では人の感情を”喜怒哀楽”でよく表していますね。

ただここで一つ注意したいのは「怒り」は二次感情であるときがあるということです。

「怒り」という感情は何かしらの寂しさや不安が、表面上に出てくるときに成り代わったものであることが多いのです。


話を戻しましょう。

私は始めに、自分を解雇したマネージャーに対して文句を言ってやろうと思っていたといいました。

それは「怒り」の感情でした。

そしてその「怒り」の感情の奥にあるものとは…、

「自分とマネージャーとの信頼関係を簡単に切られたことによる寂しさ」なのです。


今では私は自分自身で「怒り」という感情があること、そしてそれの根源はなんなのか常に考えることができています。

誰にとっても「怒り」という感情と付き合っていくのは難しいことではないかと思います。

今回は「怒り」という感情そのものについて話しましたが、その「怒り」の発散方法(怒鳴り散らし、八つ当たりなど)もまた難しい問題ですね。

もし機会あったらそっちについても何か書けたらと思います。

それでは、また。



ps

現在オーストラリアで二回目のバイト探しをしています!
そちらも進展あったらまた報告させていただきますね(^^)


kosen