子供の頃、百人一首で
こんな素朴な疑問をもちました。
”女が相手を恋焦がれるが、
なかなか会えず「袖」を涙で濡らす”
といった類の歌が、やけに目についたのです。
あるいは、
「黒髪」も多かったという印象がありました。
たとえば、
~~~~
長からむ 心も知らず 黒髪の
乱れて今朝は ものをこそ思へ
待賢門院堀河
(昨夜契りを結んだ)あなたは、
末永く心変わりはしないと
おっしゃっいましたが、
どこまでが本心か心をはかりかねて、
お別れした今朝はこの黒髪のように
心乱れて、いろいろ物思いに
ふけってしまうのです。
~~
音に聞く高師の浜のあだ波は
かけじや袖の濡れもこそすれ
祐子内親王家紀伊
評判の高い高師の浜のいたずらに
立ち騒ぐ波のように、有名な浮気者の
あなたを心に掛けることはいたしません。
涙で袖を濡らすことになるといけないから。
~~
当時はそんなもんなのかなあと思う
程度でしたが、よくよく考えると不思議です。
なんでよりによって、「袖」とか「黒髪」
などを強調するのか・・・?
あなたは、どう思いますか?
当時の高貴な人は、御簾の中にいて、
顔かたちがよく見えなかったからでしょうか・・?
これについて、たいへん興味深い見解が
ありましたので、紹介します。
ちょっと長いのですが・・・
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日本の恋の歌には、男の、また女の、
顔やからだを描き出したものが
ほとんどないといっていいくらい
なのに、中国の詩にはかなりある。
中国の恋(艶情)の詩は、男の立場で、
男にとって関心のあるものをうたって
一つの世界をつくりあげたのであり、
日本の恋の歌は、女にとって関心のある、
女の立場で感得しうるものをもって
一つの世界をつくりあげている。
これは恋のうたに限らない。
中国の詩を支配しているのは男の原理
とでもいうべきものであり、
日本の和歌を支配しているのは
女の原理とでもいうべきものである。
男の原理とは、
すべてを見、まわりのすべてから見られ、
そしてすべてを支配する。
この生き方であり。また、そこからくる
視座の据えかたである。
当然その視座は複数である。
われをも他人をも、時にソトから見、
またウチから見うる視座群となるのである。
~~~~~~~
女の原理とは、
わが領域の縁辺に存するものを見、
その領域のウチに身をおきつつ見、
そのことによってその区域を領する
われを感得し表出することである。
いきおい、その視座はただ一つ
ウチにあってソトを見つつ、
視座はわが縁辺にとどまるとなるであろう。
日本の恋の歌では、女の姿を、
わがすむ家のウチのくらやみのなかで、
ひっそりと男を待ち、迎え入れる
ものとして、すなわち見えぬものとして、置く
(それに合わせて、男の姿も抽出されぬままとなる)。
女は、自己の姿を見る必要もなく、
見せる必要もない。
少なくとも、抽出する必要がない。
見えるものは
ーすなわち、見ようとすれば男にでも
女にでも見えるものはー
女のからだの末端に存する黒髪か、
女のからだの近くに、あるいはからだに
添うて存する物件
ー袖、黒髪、枕などー
だけでよいのである。
和歌においては、こういう世界が
つくりだされ、みがきあげられていったのである。
「中小路駿逸「日本文学の構図」P107-109
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ちょっとわかりにくいかもしれませんが、
実はこの本の前段で、
”日本和歌は、建物の中にいる人が
外を見ながら歌ったものであり、
したがって建物本体は見えず、
軒など端の部分や外の風景しか見えない。”
という仮説を提示してます。
同様に、
”人を描写する場合も、同じように
顔かたちを描くのではなく、
端である、袖とか黒髪に注視するように
なっている。”
というのです。
これを、
「男の原理」
「女の原理」
ということで解説しています。
たいへん興味深いのですが、
また長くなるので、次回にしましょう。
あなたは、どう思いますか?
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