少し前に救世観音像に関する美術史畑の論文を紹介しましたが、異なる視点による論文も出ました。
孫語崎「法隆寺東院本尊像再考―「救世観音」とされる聖徳太子」
(三田哲学会『哲学』155号、2025年3月)
です。孫氏の数年前の肩書きは慶応の大学院後期課程でしたので、現在はその延長上でしょう。
孫氏は、この像が救世観音と呼ばれるようになった時期や背景も考えるため、本稿ではこの像を「東院本尊像」と呼ぶと宣言します。これは良い態度ですね。天平宝字5年(761)の『法隆寺縁起并資財帳』では「上宮王等身観世音菩薩木像」とあるのみですし。
嘉承元年(1106)頃に成立したとされる『七大寺日記』では、「等身救世観音立像」と記されており、平安時代には救世観音とされていたことがわかります。また、鎌倉時代書写の『法隆寺東院縁起』では、「太子在世所造救世観音像」と記され、太子の在世中に作られたとしています。ただ、『東院縁起』は人物の役職など史実に合わない部分が多く、そのままでは信用できないとされています。
孫氏は、この像の作成者と時期に関する諸説を紹介した後、本像の作成者は平面的な表現とすることによって正面觀照性を強調しようとしていたことに注意します。こうしたタイプは、北魏の仏像の系統とされることが多いのですが、両手に宝珠を捧持する形は中国の南朝の特徴とも言われています。
孫氏は、この形式は法隆寺献納宝物中の金銅菩薩立像にも認められ、飛鳥時代の金銅仏によく見られるとします。そして、当時の「中国→高麗沿岸→百済沿岸」という航海ルートから見て、北朝、特に東魏や北斉の影響が韓国経由で日本に及んできたものと推定します。
そして、現在の東院夢殿は鎌倉時代の大修理を経ているものの、古い姿を残す内部の仏壇などから見て、当初から八角であったとし、これは貴人の追善のための建物の形であることに注意します。
そして、三宝を護持する「聖王」の像を造ること、あるいは仏教を保護した聖王を意識した仏菩薩の像を建立する例をインド・中国からあげます。仏教を再興した隋の文帝が、自身の等身の像と幼少期の文帝を育て、将来仏法再興すると預言した尼僧の智仙の図像を作り、天下の諸寺に頒布した例などですね。
また、北斉の事実上の創始者である高歓については、観音と結びつけられたことで有名です。後には、観音の威力を説いた『救生観世音経』とか『救苦観世音経』などとも呼ばれた偽経を改作し、高歓が観音の化身であることを示唆するような『高王観世音経』という名の偽経が作成され、広まっているほどです。
孫氏は、東院本尊像である観音像は、聖徳太子信仰の高まりの中で、上記と似たような状況を背景とし、「太子御影」とする伝承が生まれたものと見ます。
その像で注意すべきは、手にもった宝珠の蓮台と左第一指との間に小さな珠があることだとします。この珠は、金銅仏を制作する際、銅湯が回りにくい部分の鋳損じをふせぐためにわざと設けられた「つなぎ」の部分であって、完成後は鏨ではつり落とすべきものでありながら、小金銅仏などの場合はそのままにされることもある由。
このため、孫氏は、この像の指の珠は、太子と特別な関係があった小金銅仏、たとえば太子の念持仏であった小金銅仏などを忠実に写した結果ではないかと推定します。だからこそ「太子御影」といった伝承が生まれてきたのではないかとするのです。
日本では、朱鳥元年(686)に病気の天武天皇のために観音像を造立し、大官大寺で「観世音経」を講釈させたうえ、宮中で『観音経』を200巻読誦しています。奈良時代になっても、国家鎮護のために観音像を造立したり、『観音経』を書写させたりしています。
正倉院文書には、光明皇后の役所である皇后宮職が天平9年(737)に大官大寺から『高王観世音経』を借り出して返却しています。こうしたことから見て、観音を仏教用語の聖王と結びつけることは、奈良町初期には確立していたと孫氏は見ます。
奈良朝には唐から渡ってきた鑑真の弟子たちが、厩戸皇子は南岳慧思の後身だとする説を広めているわけですが、鑑真が将来した仏像の中には「救世観音像一鋪」も含まれていました。
こうしたことから、孫氏は、東院の観音像が聖徳太子等身の救世観音とみなされるようになったのは、平安時代ではなく、奈良時代のこの時期のことではなかったかと推測します。
「聖徳太子」という名を広めたのは、歴代の天皇の漢字諡号を定めた文人であって、慧思後身説を言い出した鑑真の弟子の思託と仲が良く、自らもそれに触れている淡海三船であった可能性が強いことは私自身が書いてますが(こちら)、孫氏のこの論文はそれと良く合致しそうです。