gooblogが営業終了し、amebaブログに記事を写したものの、カテゴリー分けなどができていません。おいおい整理していきます。

 

前の記事にも書いた『憲法十七条を読む』が11月20日に刊行されました。AMAZONなどでは、19日に届いたようです。

 

高市首相は、所信表明演説で「憲法十七条」は日本の民主主義の元祖のようなことを述べたようですが、「憲法十七条」は愛民主義、つまり、民については、思いやってやるべき存在と見ており、政治参加などは考えられていません。また、「和」が日本の伝統だなどというのは間違いであって、聖徳太子の時代は豪族と皇族たちの対立と殺し合いの時代です。「和」を強調するのは、「和」でない状況だったからと考えるのが自然なのに、どうしてそれが分からないのか。

 

聖徳太子は長らく尊崇されてきましたが、南岳慧思の生まれ代わりとか、救世観音の化身だとか、勝鬘夫人の生まれ代わりとか、物部守屋を打ち破った戦いの神、四天王寺などを建てた大工・左官の元祖などといった面が中心であって、その思想の中心を「和」とみなして重視するようになったのは、ナショナリズムが高まった昭和初期からです。

 

「憲法十七条」を特に重視することも近代からであって、蘇我氏などの有力氏族の専横を押さえ、皇室の権威を確立しようとしたといった見方も近代なってからであり、そんなことは推古朝には無理だとして対価改新、ないし律令制以後なので偽作だとする説が有力になったのは戦後です。つまり、真作派も偽作派も、同じ前提に立って議論していたのです。

 

しかし、実際には、「憲法十七条」は蘇我馬子を国政を導くべき聖人とみなしていました。また、第一条の「無忤」は中国南朝で編纂された『比丘尼伝』に基づいており、第二条の三宝帰依と第十四条の嫉妬貴誌は、南朝でよく読まれていた在家向けの大乘契経である『優婆塞戒経』に基づいたものでした。三経義疏のうち、『勝鬘経義疏』が重要なところで、「憲法十七条」が引いているのと同じ箇所を引用しています。

 

その他、いろいろと発見が多く、推古朝頃の古代史研究は新しい段階に入ったと私は考えています。ただ、いろいろな方面の人に献本したところ、仏教学などの人はすぐ返事をくれたものの、歴史学の人達の反応は少なく、ある人が本を持つ手が震えたと書いてくれただけで、多くの人は返事無し。

 

しかし、「憲法十七条」に触れた古代史の論文は山のようにあるものの、この10年ほどはまともに取り組んだ論文はほとんどありません。「憲法十七条」は中国思想と仏教思想を寄せ集め、自己流に用いていますので、そうした面の素養がないと扱えないはずです。また、今回は、森博達さんが開拓した変格語法の面にもかなり注意し、訓読との関係にも触れました。また、『日本書紀』の中でどう利用されているかにも触れました。今後、「憲法十七条」について論文を書く人は、賛成反対はともかく、この本を無視して語ることはできないはずです。さあ、どうなりますか。

 

なお、刊行日の11月20日には、まったくの偶然ながら、仏教雑学お気楽エッセイ集である『なぜ鬼は虎皮のパンツをはくのか』(法藏館)も刊行されました(発売は28日から)。こちらは、題名が示すように意外な内容を楽しんで読めるものになっています。授業などでの雑談のネタに最適です。

 

#「憲法十七条」

 

 

 11月20日発売です。「憲法十七条」については、本や論文が山のように出ているものの、受容史・研究史に関する論文がありませんでしたので、今回、末尾に概要を記しておきました。これだけでも意味があると思われます。

 これまで知られて射成った典故となる仏教経典や、中国思想についても詳しく論じておいたうえ、『日本書紀』になぜ全文が掲載されているのかについて、私の考えを述べておきました。その結果、『日本書紀』編者はおそらく潤色しておらず、元の形のままと推測しています。

 また、「憲法十七条」は訓読文に基づいて和風漢文にされたと書いただけでなく、実際に訓読された可能性があることについても触れておきました。訓読の問題についっては、今月末か12月に刊行される『上代文学』掲載の拙論(5月の上代文学会大会でおこなった講演の原稿化)でも、「憲法十七条」や『万葉集』について論じておきました。

 

 このブログも、以前のgooblogのように、カテゴリー分けしたりして、きちんとした形にしたいのですが、いろいろ仕事をかかえているため、改良は12月かそれ以後になってしまいそうです。

 

 中世仏教文化の幅広い研究者である阿部泰郎さんの名古屋大学退職記念として企画されながら、6年遅れで550頁もの分厚い論文集が刊行されました。

阿部泰郎監修、佐藤愛弓・牧野敦司編『日本中世の宗教世界』
(勉誠社、2025年)

です。編者のトップに来るべき名古屋大学の近本謙介さんが、2023年にパリ開催の慈円シンポジウムに参加していた際、ホテルで急逝されてしまったのは残念でなりません。その数年前にパリで開催された論義シンポジウムで、近本さんといろいろ話したことが思い出されます。

 本書は内容豊かであって、聖徳太子信仰関連の面白い論文もありました。

村松加奈子「「真宗系」・「南都系」聖徳太子絵伝の再検討」

です。村松氏も阿部さんに習った一人ですね。

 この論文では、太子信仰を広める上で大きな役割を果たした絵伝をとりあげ、その系統に関して再検討しています。現存する絵伝中で最も数が多い聖徳太子絵伝については、制作の実態はほとんどわかっていないようです。

 ただ、太子700回忌前後に、太子信仰が篤いことで知られる真宗門徒のある者が四天王寺におもむき、絵伝を制作する「四天王寺絵所」の現場に接したことが指摘されているため、数多い真宗の寺の太子絵伝は四天王寺系と推測されてきた由。四天王寺は太子信仰の本場であるため、それはありうることですが、問題は四天王寺絵所で作成されたことがはっきりしている絵伝がまったくないことです。

 また、本証寺の絵伝などは、真宗の寺でありながら「真宗系」と言われる絵伝とはタイプが異なるものも存在します。そこで、村松氏は系統を検討しなおします。

 まず、古いものとして知られる法隆寺の四幅本は、『聖徳太子伝暦』に依拠し、年齢順ではなく、事蹟が起きた季節ごとに場面を治める四季絵の形式で描かれています。これが模範となり、「南都系」、つまり奈良の多くの寺でその転写本が作成されていきました。

 そこで、真宗の寺が所蔵する太子絵伝を検討すると、この南都系の絵伝と共通する面が多いものの画風が異なっていて、同じ絵所で作成されたとは考えられないものが存在します。むろん、真宗の寺の所蔵品の中には、上宮寺本のように、真宗門徒が発願し、真宗門徒が直接に制作に関わったという本当の意味での「真宗の太子絵伝」と呼ぶべきものも存在します。

 そうなると、「真宗系」太子絵伝には、四天王寺絵所との関係が注目される第一世代と、それ以外の絵所で描かれた第二世代のものがあり、第二世代になると真宗ならでは要素が付加されていったことが考えられます。

 村松氏は、「真宗系」というのは、あくまでも伝来した寺の宗派に基づく分類にすぎず、実態はもっと複雑であったと推測します。つまり、門徒集団がそれぞれ南都・四天王寺・京都界隈の絵所に太子絵伝を発注し、それぞれ受容していたのが実状ではなかったかとするのです。

 さらに、村松氏によれば、「南都系」「真宗系」のいずれにもあてはまらない絵伝も多数存在する由。これは、太子伝の系統の複雑さとも関わる問題ですね。

 蘇我氏については、『日本書紀』ではいろいろな地に家があったとされています。つまり、小墾田・向原・軽・飛鳥河傍・豊浦・畝傍などです。これらは、別邸とみなすべきなのか、世代によって本拠地が移ったのか。この問題を検討したのが、

西本昌弘「蘇我本宗家の本拠地と甘檮岡家」
(『なにわ大阪研究』第7号、2025年3月)

です。

 『日本書紀』持統即位前紀の朱鳥元年(686)12月乙酉条には、天武天皇の追善供養のため、無遮大会を大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の「五寺」でおこなったとあります。ただ、「五」は「六」の誤記だとする説が江戸時代からあり、近年では「小墾田豊浦」は「小墾田・豊浦」の2寺であって「六寺」が正しいとする研究者が増えています。

 西本氏は、僧寺が三寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺)、尼寺三寺(小墾田寺・豊浦寺・坂田寺)とみなしたうえで、小墾田寺については奥山廃寺がそれであって、「大后寺」と呼ばれていたとする近年の研究に注意します。つまり、小治田寺と豊浦寺は別とするのです。

 小墾田の地については、百済の聖明王から送られた釈迦像や経論を、蘇我稻目が申し出て受け取り、小墾田の家に安置し、向原の家を改めて寺としたとされており、小墾田の家がやがて小墾田宮となり、推古天皇の没後に小墾田寺に改造されたと推定されています。

 一方、豊浦寺は、蘇我氏の邸を推古天皇の宮に改め、推古が小墾田宮に移った後に、改めて豊浦寺としたものです。この時は大臣の馬子がやっています。つまり、いずれも蘇我氏の邸宅であったことに西本氏は注意します。

 なお、西本氏は触れていませんが、坂田寺は、蘇我氏に仕えて仏教振興を支えた渡来系氏族の司馬達止の娘で日本最初の尼となった善信尼が住した尼寺です。これも蘇我系ですので、六寺だとすると、大官大寺と川原寺を除く四寺が蘇我氏および蘇我氏系ということになり、蘇我氏が仏教流布の面でいかに大きな役割を果たしたかがわかりますね。法隆寺も四天王寺も出てこない……。

 馬子については、敏達13年に、善信尼などを出家させて保護した馬子が「仏殿を宅の東方に」造って弥勒の石像を安置し、「また石川宅に仏殿」を造ったとあります。この二つのは「宅」は同じものと見られていましたが、西本氏は、「また」とあるところに着目し、別と見ます。これは妥当ですね。 

 そして、『元興寺縁起』によると、慧信尼などは「桜井道場」に置かれたとありますので、宅の東方の仏殿がそれだとし、石川宅はのちの石川廃寺(旧称は浦坊廃寺)の場所にあったと見ます。橿原市の石川町の小字宮ノ下から浦坊にかけての地域ですね。

 嶋の大臣として知られる馬子は、飛鳥河のほとりに邸宅を構え、池を造り、その中に小さな嶋を置いています。これが明日香村の島庄ですね。ここからは大型建物の跡が発掘されています。

 その馬子の長子であった蝦夷は豊浦大臣と称されており、稻目や馬子の豊浦の邸宅を伝領していました。したがって、西本氏は、これが蘇我氏の本拠であったと見ます。蝦夷は畝傍にも邸宅を有しており、馬子同様に池を造らせた由。この付近からは豊浦寺の瓦と同笵の瓦が出土しいますが。

 『日本書紀』によれば、蝦夷と入鹿は甘檮岡に邸宅を構え、蝦夷の家を「上宮門」、入鹿の家を「谷宮門」と呼んだとしています。ただ、これは彼らの専横ぶりを強調した記事の一部ですが、西本氏は、その地は豊浦集落の背後の丘陵あたりと見ます。

 すると、やはり豊浦周辺ということになりますので、蘇我氏の本拠地は、一貫して桜井・豊浦地域にあり、それ以外に別宅を置いたのだと西本氏は論じます。このことは、甘樫神社が鎮座するのは、向原寺のすぐ傍であることからも明らかとするのです。

 いずれにしても、『日本書紀』は史実をかなり正確に伝えている部分と、蝦夷・入鹿を悪者として強調している部分が混在していますので、そこら辺は慎重に見分けていかないといけないですね。

 前回の『聖徳太子―実像と伝説の間』(春秋社、2016年)を出してから10年近くなりました。

 この間、このブログでいろいろな分野の研究の最新成果やどうしようもない駄目本などを紹介してきましたが、「憲法十七条」について自分なりの考えが固まったため、「憲法十七条」だけに関する本を出すことにしました。現在、初校の校正を始めたところなので、刊行は11月の予定です。

 書いてみて分かったことは、真作派も懐疑派も、前提となる考えは明治・大正以来のものであって同じだったということです。ですから、今回の本は、それを見直したということになります。

 また、驚いたのは、「憲法十七条」については玉石混淆、いや玉石石砂利屑混淆の論文やら本やらが山のように出ているのに対し、「憲法十七条」の受容の歴史については論文が一つも無かったことです。ナショナリズムが高まった戦時中に、「承詔必謹」「臣道」を説く「憲法十七条」の評価が高まり、聖徳太子全集が刊行された際、その第一巻として、古代以来の注釈と近代の代表的な論文が収録され、簡単な解説がなされたのが唯だ一つの例外です。

 ですので、今回の本には研究史も末尾につけておきました。乞うご期待……。

 少し前に救世観音像に関する美術史畑の論文を紹介しましたが、異なる視点による論文も出ました。

孫語崎「法隆寺東院本尊像再考―「救世観音」とされる聖徳太子」
(三田哲学会『哲学』155号、2025年3月)

です。孫氏の数年前の肩書きは慶応の大学院後期課程でしたので、現在はその延長上でしょう。

 孫氏は、この像が救世観音と呼ばれるようになった時期や背景も考えるため、本稿ではこの像を「東院本尊像」と呼ぶと宣言します。これは良い態度ですね。天平宝字5年(761)の『法隆寺縁起并資財帳』では「上宮王等身観世音菩薩木像」とあるのみですし。

 嘉承元年(1106)頃に成立したとされる『七大寺日記』では、「等身救世観音立像」と記されており、平安時代には救世観音とされていたことがわかります。また、鎌倉時代書写の『法隆寺東院縁起』では、「太子在世所造救世観音像」と記され、太子の在世中に作られたとしています。ただ、『東院縁起』は人物の役職など史実に合わない部分が多く、そのままでは信用できないとされています。

 孫氏は、この像の作成者と時期に関する諸説を紹介した後、本像の作成者は平面的な表現とすることによって正面觀照性を強調しようとしていたことに注意します。こうしたタイプは、北魏の仏像の系統とされることが多いのですが、両手に宝珠を捧持する形は中国の南朝の特徴とも言われています。

 孫氏は、この形式は法隆寺献納宝物中の金銅菩薩立像にも認められ、飛鳥時代の金銅仏によく見られるとします。そして、当時の「中国→高麗沿岸→百済沿岸」という航海ルートから見て、北朝、特に東魏や北斉の影響が韓国経由で日本に及んできたものと推定します。

 そして、現在の東院夢殿は鎌倉時代の大修理を経ているものの、古い姿を残す内部の仏壇などから見て、当初から八角であったとし、これは貴人の追善のための建物の形であることに注意します。

 そして、三宝を護持する「聖王」の像を造ること、あるいは仏教を保護した聖王を意識した仏菩薩の像を建立する例をインド・中国からあげます。仏教を再興した隋の文帝が、自身の等身の像と幼少期の文帝を育て、将来仏法再興すると預言した尼僧の智仙の図像を作り、天下の諸寺に頒布した例などですね。

 また、北斉の事実上の創始者である高歓については、観音と結びつけられたことで有名です。後には、観音の威力を説いた『救生観世音経』とか『救苦観世音経』などとも呼ばれた偽経を改作し、高歓が観音の化身であることを示唆するような『高王観世音経』という名の偽経が作成され、広まっているほどです。

 孫氏は、東院本尊像である観音像は、聖徳太子信仰の高まりの中で、上記と似たような状況を背景とし、「太子御影」とする伝承が生まれたものと見ます。

 その像で注意すべきは、手にもった宝珠の蓮台と左第一指との間に小さな珠があることだとします。この珠は、金銅仏を制作する際、銅湯が回りにくい部分の鋳損じをふせぐためにわざと設けられた「つなぎ」の部分であって、完成後は鏨ではつり落とすべきものでありながら、小金銅仏などの場合はそのままにされることもある由。

 このため、孫氏は、この像の指の珠は、太子と特別な関係があった小金銅仏、たとえば太子の念持仏であった小金銅仏などを忠実に写した結果ではないかと推定します。だからこそ「太子御影」といった伝承が生まれてきたのではないかとするのです。

 日本では、朱鳥元年(686)に病気の天武天皇のために観音像を造立し、大官大寺で「観世音経」を講釈させたうえ、宮中で『観音経』を200巻読誦しています。奈良時代になっても、国家鎮護のために観音像を造立したり、『観音経』を書写させたりしています。

 正倉院文書には、光明皇后の役所である皇后宮職が天平9年(737)に大官大寺から『高王観世音経』を借り出して返却しています。こうしたことから見て、観音を仏教用語の聖王と結びつけることは、奈良町初期には確立していたと孫氏は見ます。

 奈良朝には唐から渡ってきた鑑真の弟子たちが、厩戸皇子は南岳慧思の後身だとする説を広めているわけですが、鑑真が将来した仏像の中には「救世観音像一鋪」も含まれていました。

 こうしたことから、孫氏は、東院の観音像が聖徳太子等身の救世観音とみなされるようになったのは、平安時代ではなく、奈良時代のこの時期のことではなかったかと推測します。

 「聖徳太子」という名を広めたのは、歴代の天皇の漢字諡号を定めた文人であって、慧思後身説を言い出した鑑真の弟子の思託と仲が良く、自らもそれに触れている淡海三船であった可能性が強いことは私自身が書いてますが(こちら)、孫氏のこの論文はそれと良く合致しそうです。

 続くのは、永崎孝文氏の「憲法十七条の教えと心」。各条の冒頭部分を国会図書館shよ蔵の慶長年間の「憲法十七箇条」のカラー写真で示すなど、デザインは工夫されています。永崎氏は、「憲法十七条」に関する本を複数出しており、自分なりの道徳お説教的な解説をしている人ですね。

 永崎氏は、これまでは太子を崇めるあまり、仏教の高度な思想が書かれているとする解釈がおこなわれたと批判します。ただ、第一条の「人皆な党有り」は仲間が徒党を組むことではなく、旧字「黨」の場合、中に含まれる黒の部分は、日月を覆って明るくないことを示すため、ここでの「党」とは無明を意味するなどと、トンデモ説を述べています。これまでの解釈は仏教思想を読み込みすぎだ、という批判はどこへ行ったのでしょう。

 永崎氏が仏教に詳しくないことは、これまでの本を見てもわかりますし、東洋思想を研究したと称していますが、「憲法十七条」に多い変格漢文の語法に触れないことを見ると、太子はいなかった派と同様、漢文を文章として読むことができず、単語だけ拾って勝手な解釈を読み込むタイプであることがわかります。

 第三条については、天皇に「仁」の心があってこそ臣下もそれになびくなどと説いてますが、「憲法十七条」は群臣に対する教誡であって、上に立つ君主についてはまった道徳上の要請はしてません。「憲法十七条」が断章取義で利用している儒教や法家の文献は、君主にそうした道徳や政治判断を求めていますが、「憲法十七条」はそうしたことは一切述べないのです。

 そもそも、「憲法十七条」は「孝」を説いてませんし、『日本書紀』の厩戸皇子関連の記述では、厩戸皇子について「孝」とか「仁」だとか述べてません。「憲法十七条」の基本は「篤敬三宝」であり、「仁」は第六条で上下にへつらう群臣を「民に仁がない」と批判しているだけであって、「仁」の本来の意味とはずれていますし、「憲法十七条」全体の主題にはなっていません。

 要するに、永崎氏の説明は、自分なりの道徳を読み込んだ間違いだらけの解釈であって、紹介する価値がないので、やめておきます。こうした文章と並ぶことになったかと思うと、やはり、執筆を断って正解でした。「憲法十七条」を文献的に正確に読むこと、またこれまでの研究史については、秋に出る私の『憲法十七条を読む』(仮題)をお待ちください。

 次の大角修氏担当の「仏教の交流と太子の偉業を辿る」も問題が多いものです。前半は仏教の概説です。聖徳太子と仏教について述べた部分では、第三条について「宣じる」などという妙な文になっているます。

 第二条で「篤敬三宝」が説かれたことに触れていますが、三宝に帰依しないと悪をただすことができないという部分は『優婆塞戒経』に基づいていること、『勝鬘経義疏』も同じ箇所を引いていることなどは無視されています。

 これらの出典を指摘した私の論文や、『日本書紀』では「憲法十七条」だけが重要な箇所で2度持ち一ている「~要在~」の語法が、『勝鬘経義疏』に4回、『維摩経義疏』2回、『法華義疏』に1回、つまり、三経義疏全てに見えており、これらは同じ人物の著作だと推定した岡田高志さんの論文(こちら)にも触れていません。

 こんな調子では、最近の研究を読んでないどころか、三経義疏そのものをきちんと読んでいないのではないかと疑念が湧いてきますね。実際、これに続く部分では飛鳥時代の仏像に関する記述がなされ、肝心の三経義疏についてはほとんど説明がありません。

 『法華経』『維摩経』『勝鬘経』に関する概説が示され、『維摩経義疏』の「総序」の部分が引用されているだけで、三経義疏の特徴はまったく説かれないのです。やはり、読んでいませんね。見出しは「聖徳太子が詳細に解説した!」となっているものの、大角氏は、「太子が詳細に解説した三経義疏の内容をまったく解説しない!」のです。やれやれ。

 やはり、執筆を断って正解でした……。

 前回の続きです。最初は、遠山美都男氏の「謎に包まれた「摂政「・聖徳太子」誕生秘話」。不当に矮小化されてきた蘇我氏をきちんと再評価する書物を次々に出してきた遠山氏は、「厩戸皇子」という呼び名を用い、この名はおそらく養育を担当した豪族のウジナに由来するのだろうが、『日本書紀』編纂時には既に不明になっていたため、「厩」にまつわる伝説が生まれたと推測し、いずれにしてもキリスト教と関連づけるのは想像にすぎないとします。

 遠山氏は、厩戸皇子は、用明の長子であって大王に推戴される資格はあったものの、敏達天皇の子である同世代の押坂彦人大兄・竹田より年若であったろうとし、大王の選定は群臣の合議によっていたし、その合議は常に分裂の危機をはらんでいたことを強調します。これは大事な点です。

 そして、物部氏と蘇我氏の対立については、仏教の受容それ自体ではなく、受容のあり方をめぐってのことだったと考えるべきだとします。つまり、仏教受容とその成果を独占していた蘇我氏に対する反発が要因だったと見るのです。これが、群臣の合議において誰が頂点に立つかという争いとからんでいたとするのですね。

 そして、守屋との合戦によって、馬子は単独で群臣中の上位ではなく、その頂点に立つ大臣の地位を確立したと説き、大臣・群臣制が確立したとします。これは、前に紹介した鈴木明子さんも強調していたところです(こちら)。

 そして、遠山氏は、厩戸が皇太子とか摂政とかになったわけではないとしつつも、厩戸皇子は王権を代表して大臣の馬子と共に群臣会議を統括する立場に就任したことになると説きます。太子が群臣会議を直接に統括する立場に立ったかどうかは資料不足で判断できませんが、方針を提示する地位にあったことは認めてよさそうですね。

 次は、武光誠氏の「仏教の理念に基づいた国づくり」です。武光氏はかつては聖徳太子に関する文献的な研究を発表していましたが、その後、異様に多作な書き手として書籍を生産しており、近年では太子に関しても想像の部分が多い文章を書いていたため、やや心配されたところです。

 武光氏は、『日本書紀』は脚色が多いとしたうえで、「用明天皇の王子に後に「聖徳」と讃えられた厩戸王という優れた人物がいた」と書きます。こうした形で「厩戸王」という名を用いるのは感心しませんし、「聖徳」が後代の名であることは確定してないと思いますが、武光氏は、この後、やや小説風な書き方で論を進めていきます。

 武光氏は、『日本書紀』にそって時代の流れを概説した後、崇峻天皇の暗殺によって馬子が全権を握ったのではないかとし、欽明天皇→敏達天皇の嫡系を嗣ぐ竹田皇子がまだ幼かったため、成長するまでの中継ぎとして推古天皇を立てたと見るのが妥当だとします。というのは、王家の女性の母から生まれた王子を嫡系としていたためだというのです。

 このため、蘇我氏の娘の子である用明天皇についても、敏達天皇の皇后だった炊屋姫(推古天皇)の兄の資格で、竹田皇子が成長するまでの中継ぎを務めていたとします。 ただ、当時は天皇は終身制だったため、中継ぎを予定して天皇を立てるということがあったかどうか。

 聖徳太子については「蘇我馬子と推古天皇の間の調整役を期待されて政権に加えられた」とありますが、推古は叔父である馬子とおそらく同じ家で育ち、在位の最後近くまで馬子の提案を受け入れているため、調整役なるものが必要であったかどうかは怪しいですね。
 
 このように、武光氏の文章は断定調が目立つのですが、注目されるのは、太子が推古の補佐役を務めるようになってから11年の間、朝廷では有力者間の内紛が見られないとと述べ、これは太子が人々の気持ちを理解し、「和の政治」を実行したことを物語るとするのですが、一番の権力者は馬子なのですから、その権威によって内紛が押さえられたとみることも可能でしょう。

 『日本書紀』によれば、太子と馬子が歴史書を編纂したとしていますが、武光氏はそれを事実とみなし、豪族たちの祖先神を、王家が祭る天照大神の親戚や家来筋の神々となる神話をまとめていったのであって、馬子がそれに協力したとします。

 しかし、『日本書紀』の古い部分には天照大神は登場しないため、天照大神が造型されるのは7世紀後半になってからであることが知られています。武光氏の概説は、『日本書紀』そのままに近く、最近の研究状況は反映してませんね。

 以前にも聖徳太子特集をやった『歴史道』が2025念5月20日刊行の332号で、また特集を組みました。「完全保存版」と称しており、図や年表や写真なども多く、簡易な聖徳太子事典として使えるような形をめざしているようです。

 この特集については、私も原稿の依頼を受けたのですが、断りました。というのは、執筆予定メンバーを尋ねたところ、どうかなと思う人もいたうえ、聖徳太子について研究していないにもかかわらず、雑なムックなどの監修やら執筆をやたらやる一方で、大学では学生をきちんと指導せず、事務局に苦情が来るような人物も含まれていたため、そんな人と名を並べることはできない、出たらブログで批判すると述べて断ったのです。刊行されてみたところ、その人は執筆していませんでした。何か理由があるのか。

 それはともかく、冒頭の「聖徳太子の虚と実を解き明かす!」を担当していたのは、このブログでも何度かとりあげた河合敦氏です。テレビなどでお馴染みの河合氏は、かつては大山誠一氏の虚構説を支持する立場で盛んに書いていたのですが、このブログで批判したことも多少は影響しているようで、数年前のテレビ番組では、研究が進展してきたことによって意見を変えつつあるようでした(こちら)。

 河合氏は、本書では虚構説と反対説を簡単に紹介しています。最近の状況に注意しているようで、その点は評価できます。ただ、聖徳太子の様々な名前について説明する際、「上宮」や「豊聡耳」に関する古市晃氏の学界で支持されていない2012年の説を挙げ続けているのは感心しませんね。

 ともかく、河合氏は、虚構説を否定する研究がいくつも発表されているとして、その例として私の『聖徳太子:実像と伝説の間』をあげ、太子は馬子につぐ勢力を持っていたとする見方を紹介してくれており、有り難いことでした。できれば、飛鳥と斑鳩の約20キロの距離を幅20メートルもの道で斜め一直線に結ぶ太子道に関する考古学の成果なども紹介してほしかったところです。

 なお、「東京大学の大蔵経テキストデータベース研究会」が作成してデータを利用した私の三経義疏研究も紹介してくれてますが、厳密にいうと、「大正新脩大蔵経テキストデータベース」は、印度学仏教学会の事業として作成され、それを学会事務局がある東大のサーバーに置いているのであって、東大の研究会ではありません。

 三経義疏は日本人によって書かれた可能性があるとする私の研究とともに、木村整民氏の三経義疏同一作者説も紹介されてました。私はテレビ出演はすべて断っているため、上記の番組では木村さんに出演をお願いしたのですが、木村さんの論文は私のブログで紹介したものですね。

 河合氏は、唐本の御影に関する説の変化について説明した後、最後の部分で、名前に関しても諸説があることなど、さまざまな説の乱立状態に触れ、「今後も聖徳太子像は変わり続けていくことだろう」としめくくっています。

 まあ、無難なところでしょう。明治・大正以来の聖徳太子像をひっくりかえす私の『憲法十七条を読みなおす』(春秋社)が秋に刊行されたら、さらに大きく変化するはずです。

 念のために言っておきますが、私は僧侶でもなく、聖徳太子信奉者でもありません。単なる歴史と思想の研究者であって、聖徳太子を無暗に持ち上げて国家主義や旧道徳の復活に利用しようとする動きには大反対している立場です。

 次は、「聖徳太子信仰の変遷史」と題する中村修也氏の担当分。中村氏は、かつては推古朝頃について文献的な研究を多く発表していましたが、最近は太子の時代についてはあまり論文などを書いてないように思われます。

 実際、この担当分では、天武天皇が「太子ゆかりの法隆寺に西院伽藍を再建した」などと、根拠のないことを書いています。

 また、「律令国家の基礎を作ったとされる藤原不比等が、聖徳太子信仰のルーツだという指摘もある」と書いてますが、これは、現在はまったく相手にされていない虚構説ですね。しかし、中村氏はこれに続けて、「太子の死後間もなくから、その生涯を伝承や逸話とともに描く「太子伝」と総称される伝記が作られた」と述べています。この可能性はないではないですが、資料はなく、中村氏も論証していません。断定は避けた方が良かったですね。

 この後では、太子信仰の大きな流れを概説しており、無難な記述になっています。

 先に東京国立博物館客員研究員の石松氏の救世観音像論文を紹介しましたが(こちら)、その国立博物館勤務から奈良国立博物館に転じた三田覚之氏も、同誌の同じ号で連載を続けています。今回紹介するのは、

三田覚之「法隆寺探訪記<7> 百済観音という謎」
(『聖徳』第253号、2025年1月)

 奈良国立博物館では、4月19日から6月15日の開館130年記念特別展 超国宝―祈りのかがやき―」に百済観音が展示された由。そのためも兼ねた概説です。三田氏がこの像を初めて見たのは、5歳の頃だった由。

 その百済観音像は、大きさから見て、金堂の本尊となって不思議はないにもかかわらず、もともとの安置場所が不明であり、少なくとも江戸初期からは法隆寺金堂の内陣北側に安置されてきました。

 ただ、三田氏は、天平19年(747)の『法隆寺資財帳』に「観世音菩薩」関連の品として「金針」「白銅飯鋺」「白銅水瓶」「錫杖」など、百済観音の持ち物が記されているうえ、橘夫人の念持仏とされる阿弥陀増の後輩が百済観音像の後輩を模倣していること、百済観音像の臂釧・腕釧が金堂潅頂幡の金具と同じ規格であることなどから見て、奈良時代には既に法隆寺金堂に安置されていたと見ます。

 その金堂潅頂幡については、「片岡御祖命(かたおかのみおやのみこと)」の奉納とされており、これは聖徳太子の娘であって、山背大兄の妹である片岡女王と考えられます。しかも、潅頂幡は主に死者の追善に用いられるため、皇極天皇2年(643)に滅亡した山背大兄のを長とする上宮王家の追善として作成されたのであって、百済観音も恐らく同様であったと三田氏は推測します。

 百済観音像は210センチもあって異様に背が高いのですが、梶谷亮治氏によると、これは金堂の壁画の観音像とほぼ同じであるため、その関連で考えてよいとされています。

 三田氏は、菩薩像は髪形によって高さがかなり変わるため、髪の生え際から足下までを計測すると、百済観音は196.2センチ、壁画の観音は196センチであって、確かに一致していた由。これは唐小尺だと8尺となり、仏は丈六、つまり一丈六尺(16尺)ですので、仏の半分の大きさということになります。

 つまり、金堂の釈迦像は「等身」とされていますが、仏の半分の人間の大きさということで造られていたことになります。

 問題は、百済観音は鬟や臂から先を除いては、クスノキの一木から彫刻されています。ひょろ長い姿はそのためですね。この一木へのこだわりは台座にまで及んでいます。ただ、その台座の蓮弁などを見てもわかるように、百済観音の彫刻技術はかなり粗い由。一方、光背の蓮弁は非常にシャープであって唐草や火炎が濃密に描かれているとか。

 このため、三田氏は、別人の作とも考えられるとしつつ、時期の違いである場合は、天智9年(670)の法隆寺の火災によって重い光背が失われ、早い時期に作成しなおされたのではないかと想像します。

 なかなか、面白くなってきましたね。いずれにしても、百済観音像自体は、あまり新しい作ではなさそうです。