今回の記事は心屋さんに読まれることを想定していません。なので口調は前のように穏やかではありません。
ですから本人ならびに信者の方は読まれない方がいいかもしれません。
前回の記事には随分反響がありました。読んだ方から「優しいですね」と言われたりもしましたが、本来の私はあまり優しい人間ではありません。
ただ、心屋さんの言動パターンがあまりに過去の自分と自分の父親に似ているので、彼に読んでもらうことを期待すると、あのような文面になってしまったのです。
何故なら、心屋さんは過去の私と、私の父親と一緒で心が繊細で、傷つきやすいタイプだと思ったからです。
心が繊細な人は、他人に何か言われる時に、きつい口調で言われると、すぐに傷付きます。
そのため、きつい口調の言葉は、脳が瞬時に「攻撃」と捉えてしまい、身構えてしまって頭の中に入らなくなってしまうのです。
しかし、この手のタイプは、繊細さを隠すために強がったことを言ってしまったり、口調がキツくなったりしてしまうので、周りからはその繊細さを理解してもらえません。
それが過去の私と、私の父です。
☆
最近の心屋さんを見ていると、もう彼は痛みを感じながら改めることよりも、ゆっくりと破滅する道を選んだようなので、もう彼に対して変わってほしいと思うこともなくなりました。
心屋さんは私の以前のブログを読んだかはわかりませんが、もし読んでその道を選ばれたのなら、ちょっと残念ですが、まあそれも仕方ないかもしれません。わたしには彼を突き動かすほどの力はなかったんだなと思います。無念。
かつて伯母が教えてくれた言葉を思い出します。
「あなたが間違えていることを教えてくれる人は、あなたのことを思ってくれている人よ。そうでない人は、あなたが失敗するのを見て陰で笑ってる」
☆私の思う、心屋さんの思考パターン
さて、今回は心屋さんのような行動や思考パターンを不思議に思う方に、私なりの解釈でこうじゃないかというのを説明します。
でも、心屋さん本人じゃない私が決めつけるのは良くないので、あくまで「過去の私だったらこう思って行動したのだろう」という推測の話です。
だから別に信じなくても良いです。
もし、モラハラで悩んでる人がいたら、モラハラする人の頭の中ってこんな風になってるんだなって思ってもらってもいいかもしれません。(あくまで一例ですが)
そう、過去の私も、父も、心屋さんも、多分同じことを考えていると思います。
それは、
自分は善い人間だし、傷つけるつもりで行動していないから、問題ない。
と。
そして、いつも自分のことを被害者側だと思っています。
何故そうなってしまうのか、気になりませんか?
私は、心屋さんを観察したことで、過去の自分の考え方や父の振る舞いを思い出して、その原因に気づくことができました。
それは「自分の気持ちを善悪のバロメーターと捉えていること」です。
ですから、自分が「相手のことを好き」と思いながらも照れから相手をこき下ろしても、それは根底に好きという良い感情があるから「善」となります。
また、自分の気持ちを「悲しく」させるものは、それがどれだけ的を射ている意見であっても、自分を悲しませたのだから、自動的に「悪」と認定します。
そして、例え自分が他人を傷つけたとしても、自分が「済んだこと」と認識したら、それは他人にとっても「済んだこと」になっていると思い込みます。
なぜなら全ての物事を自分の気持ちという物差しでしか測っていないから。
客観的に言動を判断する視点が欠落しているのです。
心屋さんがツイッターに現れた時、最初は心屋さんの批判をされている「黒猫ドラネコ」さんに妙に馴れ馴れしい口調でした。(経緯をご存じない方は黒猫さんのブログをご参照ください)
あれは、多分、あんな書き方をしたのは、そうすれば「自分の良さ」をわかってくれるって幻想があったからだと思うんですよね。
彼、多分最初に黒猫さんに突っ込まれた時は、心の中では「余計なこと言いやがって」ってちょっとむかっとしたと思うんですよ。
でもそれを抑えて、できるだけ友好的な気持ちと態度にしようと努力していたように私は感じました。
たぶん、その努力を友好的な口調ではなく、わかりやすく解説する方に向けたほうが良かったのだと思いますけど。
そこには、「友好的な気持ちになって接すれば必ず向こうには伝わるし友好的に返してくれる。だから黒猫さんは自分を傷つけることはもう言わないはず」っていう(勝手な)期待があったと思うんですね。
しかし、黒猫さんはそれに反して、批判的な姿勢を変えることはありませんでした。(恐らく、黒猫さんは心屋さんに、別に友好的でなくてもいいから、真摯にわかりやすく質問に答えてほしい、と思っていたことでしょう)
しかし、そんな黒猫さんの態度から、心屋さんの中では黒猫さんは「敵」で「裏切り者」で「加害者」だと認定されてしまいます。
なぜなら、自分がわざわざ友好的にしてあげたにもかかわらず、自分を攻撃することを言ってきて、自分の気持ちを「悲しく」させたからです。
心屋さんのフィルターで見たら、多分あの時の心屋さんは、「悪意ある敵に対しても、怒りを抑えて、友好的な態度を取ってあげた紳士」のように見えていたのだと思います。
しかし黒猫さんからすれば、「とんでもない教義を広めたせいで、家族を自殺未遂まで追い込んだ教祖(しかも質問にきちんと答えない)がなんか知らんけど馴れ馴れしい口調で喋ってきた」としか思いません。
というか冷静に考えれば、いくら心屋さんが友好的な話し方をしたからとて、それをサイコパスじみて気持ち悪いと感じることはあっても、ありがたいと感じることはないわけです。
しかし、心屋さんにとっては「愛情のある人間は、こちらが友好的な態度をすればそれを返してくれるもの」という認識があるので、黒猫さんの終始一貫した批判的な姿勢は、「自分の愛が伝わらない、冷酷で拗ねた人間」に見えるのです。
私の父はまさしくそんなタイプの人間でした。
今でも覚えていますが、5歳の頃に両親が喧嘩をしている時、私が母をかばおうと、母の前に出て父に何か言い返したことがありました(何を言ったかは覚えてませんが)
父は私のことを溺愛していましたが、その時は自分の感情を抑えきれずに私の頬をぶちました。
母に泣きつく私を見て、父が何をしたと思いますか?
彼はお茶目な顔で私に向かってウインクをしました。
私は父のことは大好きでしたが、子供ながら人をぶっておいてウインクする父のことを心底気持ち悪いと思いました。
しかし、彼の中では、子供をぶったことは自分の心を守るためにした防御反応だから悪いことではないのです
そして、子供をぶったことで多少の後味の悪さは感じつつも、自分の心は守れたので、彼にとっては子供をぶったことはすでに「過ぎたこと」です。
だから、子供に対してお茶目にウインクすることは、「子供への愛情表現(と後味の悪さの誤魔化し)」になるのです。
さて、そんな私も成長するごとに父と全く同じような人間になりました。
父とは5歳から離れて暮らしたのに、幼少期の影響とは恐ろしいものです。
自分で言うのもなんですが、私は性格が悪い子供でした。
子供のとき、私は友達の容姿を馬鹿にする発言をすることがありました。
でも、友達のことを好きと思っているから、心の中で好きと言う感情があれば、ひどいことを言っても悪口にはならないと信じていました。
今思うと典型的なモラハラ思考ですよね。
しかしそんな性格でしたから、当然周りからは嫌われます。
でも、自分では悪気がないし、むしろ自分のことを、繊細でとっても性格が良いと信じていたので、なんでそんな目にあうのかわかりませんでした。はたから見たら明らかにヤバい奴です。
小学六年の時、友人から「もうあなたとは友達でいたくない」と言われ、ようやく自分が危機的な状況にいることを理解しました。
しかし、それでもなかなか性格を改めることは難しくて・・何度もトラブルを起こしながら、この思考癖が抜けきるまで十年以上かかりました。
今でも完全に抜けてるか?って言われると自信がありません。
自分の感情と言動を完全に切り離して考えることができたのって、この出来事からかもしれません。
(この出来事はかなり自分的にショックなことだったんですけど、自分の言動を客観視することができたのは、どうもこの出来事からじゃないかなと思います)
そして、じゃあどうしたらこんな思考パターンに陥るのかと言う話ですが。
上のリンク先の出来事にも繋がることですが
私なりの考えでは、「悲しみをうまく消化できない(或いは消化の仕方を知らない)人」なんじゃないかと思ってます。
悲しみは本来、自分で受け止めることで消化されます。
しかし、悲しみ(というか感情全般)を受け止めずに否定すると、心は傷つき、自己肯定感が減るために生きづらさを感じてしまうのです。
しかし、悲しみを受け止める方法を教わらなかった人は、悲しみを与えた人間を攻撃することこそが悲しみから逃れる手段だと認識します。
これは育った環境による部分も大きくて、例えば親や身近にいる大人から「あなたをこんな悲しい目に合わせて、あいつはなんてひどいやつなんだ!」という言葉をかけられて育つと、子供は
「悲しいと感じることはダメなことで、だから自分を悲しくさせる人間は攻撃しても良いんだ」
と認識してしまうのです。
もちろん、悪意を持って攻撃してくる人がいる場合は、防御したり応戦することも必要ですが、
それは悲しみという感情を消化させるためではなく、自分の身を守るためにすることです。
そこを履き違えてはいけないのです。
あと、「悲しみを感じてたら何しても許される」「愛情があれば何を言っても許してもらえる」っていうモラハラ的な考えをしてしまう人は、多分、「感情」と「言動」を切り離して叱ってもらえなかったんじゃないかと思います。
例えば、親に注意されたことにへそを曲げて、物を投げつけてきた子供がいたとします。
たとえ自分が悪いとしても、注意されて「悲しい」「ムカつく」と感じることは仕方がありません。
でも、だからといって、物を投げつけるという行動は「ダメなこと」ですよね。何故なら、人を傷つけるかもしれないからです。
しかし、感情と言動の違いを認識していないと、この二つを区別して「何が良くて、何がダメなのか」を教えることができません。
感情と行動を区別して教えることができない場合、二つのケースが考えられます。
1 感情と行動を一緒くたにして許可してしまう
このタイプの人は、上の例で言うと、子供が「可哀想だから」という理由で行動の注意自体をしません。
すると子供は、「悲しい」と感じるのは「可哀想」な人間で、
自分が「可哀想な人間」だから「何をしても許される」と認識します。
すると、「悲しい」=「可哀想」=「何をしても許される」という図式ができあがるので、
悲しみを抱いた時、自分は何をしても許されるという考えになります。
(ちなみに父親はこのタイプなのかなと感じています)
2 感情も行動も否定するので、子供の機嫌をうまく直すことができず、最終的には子供に屈してしまう。
子供の気が親より強い場合に起きうるケースです。
子供の感情を頭ごなしに否定してしまうと、(「そんなことで泣くな!」と言ったり「そんなことで怒るな!」と言ったり等)
子供は自分の感情を認めてもらえないので、いつまで経っても機嫌が良くならないばかりか、ますます酷くなります。
ここで親が教育のスタンスを終始一貫できればまた変わると思うのですが、子供の方が気が強いとそれができません。
例えば子供がいつまでも駄々をこねたり、空気が一向に良くならなかったりすると、圧に屈してしまうのです。
そうして子供を甘やかしたり、子供の言うことを聞くことで機嫌を治そうとします。
こうした注意のされ方をした子供は、自分の機嫌が悪くなった原因(感情を否定されたこと)に気がつくことができないまま、ただ不機嫌でいたり、大きな声で騒いだり、駄々をこねたりすることで相手を操作できることに気がつきます。
また、感情を認めてもらえたわけではなく、自分の圧で相手を渋々認めさせていることがわかっているので、どこか後味の悪い感じを抱きます。そして、その後味の悪さは相手の認め方が悪いから引き起こしていると認識し、ワガママを叶えてもらったにも関わらず、イマイチ相手に感謝することができません。
そして実際には相手に多大な我慢をさせているにもかかわらず、そのことに気がつかず、ただ自分が善い人間だから周りは受け入れてくれるという盛大な勘違いをしてしまうのです。
(私はこのパターンでした)
こうして、「自分の感情」と「言動」の区別と、「言動により周りにどんな影響を与えるか」を認識できないまま成長してしまうと、親だけでなく周りの人にまでそれをしてしまうようになるのです。
そんな思考になった人間は、「自分が悲しい」と感じたら「物を投げてもいい」し、それで相手を傷つけても「自分は許される」とナチュラルに思います。
逆に、相手の指摘が的を射ていたり、自分のことを思って言ったことであっても、自分が「悲しい」と感じたのならそれは攻撃であって、受け止めなくてもいいと思ってしまうのです。
全てがこのパターンに当てはまるとは限りませんが、少なくとも私の父親と私はこうだったように思います。
以前、心屋さんの理論がなぜ信者に受けるのかを分析しましたが、あの時、心屋さんはご自身の理論がなぜ効果があるのか理解されていないと思うと書きましたが、その考えはやっぱり間違えてなかったと思います。
彼の理論に救われる人は、恐らく「負の感情」を認められたことに救いを感じているのですが、
彼自身は、負の感情を認めることを本当はよく理解していないのだと思います。
実は、自分の気持ちをバロメーターとして扱うことも、確かに幸せを感じるために必要なことなんですが、それで測れるのは「善悪」ではなく「自分の状態や自分が欲しいもの」です。
☆罪悪感を否定することは「自己否定」
心屋さんがどうして、あれだけ自分を愛そう的なことを言ってるのに、ご自身のことを愛せていないのか不思議だったのですが、心屋さんを見ていてすごく勉強になったことがありました。
それは、罪悪感は感情だ、ということ。
以前から、私は「感情」と「思考」は別物であるということを伝えてきました。
それは、
感情(悲しい、嬉しいといった心の状態)は変えられないし変えようとすると心は傷つくけど、
思考(感謝しよう、無視しよう、のような頭で判断すること)は変えることができる
というものです。
前向きな思考になりたいからと「悲しい」「辛い」という感情を否定すると、心が否定されて傷つき、余計にうまくいかなくなります。
なので、感情はどんなものであっても、受け止めることが大切なのですが、
罪悪感も、自然と湧き上がる感情なので、否定すると自己否定に繋がる。
ということを、心屋さんのおかげで気づくことができました。
でも、これには注意があって、それは罪悪感には実は根底に「未来への恐怖」からくる擬似的なものと、「過去への悔い」からくる本物の二種類があるのです。
そしてこの二つのものはそれぞれ、対処の方法が違うということです。
というのも、「恐怖」からくる罪悪感は擬似的なものなので無くせるものがあるのですが、「悔い」からくる罪悪感は、無くせないのです。
「恐怖」からくる罪悪感は、起こってもないことや他人のことを考えすぎることで起こります。
例えば、私の夫は週末の午前中に子供を連れて遊びに出かけてくれますが、最初の頃は「夫は実は大変なんじゃないか」と罪悪感を抱いていました。
しかし実際は、夫は子供といるのが楽しいようで、また私も気分転換して午後に機嫌良く過ごせるので、杞憂であることがわかりました。
つまり、私が抱いてたのは「夫が本当は嫌だと思っていたらどうしよう。そのせいで嫌われたら悲しいな」という、恐怖からくる罪悪感であったのです。
心屋さんは以前から「罪悪感をなくそう」としきりにおっしゃいますが、おそらく最初はこうした「恐怖からくる擬似的な罪悪感」のことを指していたのではないかと思いますし、この場合であれば(多少言葉は強くはありますが)「罪悪感を持たなくてもいい」という言葉は的を射てるでしょう。
しかし、起こったことに対する悔いは違います。
これは実際に心が感じていることなので、否定しようとすると心は傷つくのです。
私は心屋さんが、自分の理論で突き進もうとすればするほど、自分を肯定するどころか否定しているように見えるのは、この罪悪感、言い換えると悔いという感情を否定しているからに見えるのです。
悔いを感じている時は、なんだか苦い薬を飲んでいる気分になりますよね。
良薬口に苦しという言葉がありますが、きっと、悔いって薬のようなものなのだと思います。
私の過去を振り返っても、失敗したり間違えた事に悔いを感じたことで(例えば自分がはたから見たらスネ夫のようなマウンティング人間と自覚したりとか・・)、ひとつ視点が高くなったというか、視野が広くなったことは多かったように思います。
心屋さんは最近しきりに「たくさんの人を救ってきた」ことを書いてらっしゃいますが、私にはそれがなぜかわかります。
彼は今、自分の罪悪感(悔い)から逃げようとしているのです。
1人を不幸にしても、100人を幸福にしたら、悔いを味合わなくてもいいと思っているのです。
確かに世の中には、誰もが幸せになれるシステムは少ないかもしれません。
しかし、1人を不幸にしたという事実は変わることはありません。
だからダメというわけではなくて、そこで感じる悔いはきちんと受け止めなければいけないのです。
そうしてどれだけ自分の頭に、思考に「悔いを感じなくても良い」と語りかけても、悔いが彼の中から消えることはないでしょう。
私のことをもしブロックしても、黒猫さんに暴言を吐いても、周りを信者で固めても、罪悪感から逃れることはできません。それは体に絡みつく蛇のように、自分から離れることはないのです。
何故ならそれは、自分の心が生み出しているものだからです。
人が罪悪感、言い換えれば悔いという感情を完全に消し去ることができる時がくるとしたら、それは人が人では無くなる時なのだと思います。
心屋さんを見て、このことに気づけたので、心屋さんには素直に感謝してます。
でも、反面教師としてではなく、できればこのことには本人に気づいてもらいたかったな、と感じます。
ご本人に読まれることは想定してませんが、もし読んでくださっているなら、以下の言葉を捧げます。
あなたは私に対して、「ひどいことを言っている」と、思うかもしれません。
自分が責められ、傷つけられているように感じているかもしれません。
でもフラットな視点で私の文章を見てください。
私はあなたを見て、気づいたことを書いているだけです。
あなたに対して、死ねとか、苦しめとか微塵も思っていませんし、この文章の中に一度も書いておりません。
あなたには生きて、より良い道に進んで欲しい、幸せになって欲しいです。
(ただそこに到達するには、罪悪感、言い換えれば悔いという感情を避けることはできないだろうなとも思っています。)
あなたの理論で同じようなものを見たことがある気がしますが、
あなたを攻撃しているのは、私ではなく、あなた自身の心です。