前回の“考える言葉”シリーズで、“忍耐”について考えた。その“忍耐”をもっとも要する仕事の一つとして、人材育成を挙げることができよう。


 プロの仕事人として恥じることがない人材を育てようとすれば、かなりの時間を要するし、生半可な関わりようでは、人は育たない。ある時は手厳しく叱り飛ばし、ある時は褒めちぎったり、おだてたりする。時に、なだめることもあろう。


 人の成長でもっとも大切なことは、本人の主体性である。ゆえに、人材育成のポイントは発奮材料を提供することによって、正しい動機付けをおこない、主体性を引き出せるかどうかであろう。


 そこで、昔から話題になるのが「褒める育て方」がいいのか、それとも「“叱る”育て方」いいのかという課題である。その手のハウツー本がけっこう多いが、ほとんどがテクニカル的な内容に終始している。


 時と場合あるいは人にもよるが、私はどちらかというと褒めることよりも“叱る”ことが多いと思う。「豚もおだてりゃ木に登る」という言葉があるが、調子に乗りすぎて木から落ちてもらっても困る。それよりも、臥薪嘗胆!“叱る”ことによって、発奮し、忍耐を覚えさせたほうが、持続的な成長の支えになるのではないだろうか。


 それから、なぜ「褒めるのか」あるいは「叱るのか」という問題もある。


 褒めるという行為は、承認である。部下が称賛すべきことをすれば、正しく評価をしてあげて褒めるのは当然。それを励みにして、もっと高みを目指してもらいたいと考える。しかし、プロとしての要求レベルが高いのか、つい辛めの評価をしてしまい、褒めるタイミングを失してしまうことが多いようだ。


 その点、“叱る”理由は明白で、だから躊躇がない。将来への期待である。過ぎてしまったことは仕方がないし、責任取るのはトップの仕事だと思っている。しかし、人は自分の不始末に対して、大いに恥をかくのは大事なことだ。期待が大きいから“叱る”そして“叱られる”のである。「廉恥を重んじ、元気を奮えるような人間」であってもらいたいと考えている。


 だから、“叱る”場合、叱られるほうの度量も配慮する必要がある。大恥をかかされたと恨むのか、そこから教訓を学びとることができるのかは、その人間の腹一つでもあるからだ。


 いずれの問題かというのもあるが、“叱る”にしても褒めるにしても、要は相互の信頼関係あってこそのやり取りであろう。叱って、感謝される人間でありたいし、叱られて、成長できる人間でありたいと考える。

(H22.11.15)