“べき論”なるものがあって、いろいろな意見があるらしい。


 “べき”とは、“べし(可し)”の連体形で「①当然の意(・・・するのがよい。・・・しなければならない)、②確実な推量の意(・・・するらしい)、③話し手の動作の語について、意志・決意を表す(・・・するつもりだ)、④可能の意(・・・することができそうだ)、⑤命令の意(・・・せねばならない)」(広辞苑)。


 “べき論”に対しては、否定と肯定の大きく二つの意見に分かれる。


 まず、否定論者の言い分はこうだ。「“べき論”は、観念論であって現実的でない。命令的で押し付けがましい。ストイックで、不自由な感じがする・・・・・」。一方、肯定論者はどうかというと、「あるべき事をそうあるべきとして追求するは、人間として当然である」と考えている節がある。


 どちらの言い分にも、一理ある。何も肯定・否定の二分法的な考えに捉われる必要はない。私はどちらかというと“べき論”的に思考する癖があるような気がするが、そこに止まらず、もう一歩踏み込んで考えるようにしている。


 例えば、「税理士として、いかにあるべきか?」という、あるべき姿を思い描いたとしよう。さらに一歩踏み込んで、「それは、自分にとって、そうありたいのか、そうでないか」と問うようにしている。「そうでない」とすると「なぜ、そうありたくないのか?」と考えるようにしている。それから、「あるべき姿を追求することをやめたとしたら、どうなるのだろうか?」ということも考えてみる。


 このように踏み込んで考えてみると、単なる“べき論”ではなく、自分にとっても極めて重要な内容であったり、気づいてなかった自分のしたい内容であったり、することがある。だから「すべき」ではなく、「する」あるいは「したい」という気持ちに変わることが往々にしてあるのだ。結果、多くの否定論者の言い分は解消されることになるだろう。


 人は誰でも、個人であると同時に社会人である。そのいずれかを肯定し、いずれかを否定するようなことはできない。しかし、分離思考の強い現代人の価値観は、二項対立的な判断をしてしまい、自己矛盾を引き起こしてしまう傾向にある。“べき論”の論争も、根本にはその問題がある。


 今盛んに叫ばれている企業の抜本革新は、企業としての「“あるべき姿”と“現状”との差」をいかに埋めるかの戦い(=自己差別化の戦略)である。“べき論”なくして、真に持続的成長はないと思う。


 “べき論”、大いにけっこう!それを自分の「する」あるいは「したい」に変えることができるかどうかは、その人の価値観に帰すべき問題であると考える。

(H22.10.18)