満洲物語 ~五族協和~
時は康徳五年(一九三八年)夏。
伊藤孝一は満洲開拓団の一員として、遠く朝鮮半島西南端の地「木浦」から汽車で数日の時をかけ、ついに昨日、満洲国入りを果たした。
朝鮮半島と満洲国の境目である「安東」から満洲へ入国したその日のことである。
そこから孝一の目に見えたのは、日本や朝鮮半島と同じ背の高い木々や点々と存在する田んぼ、それに背の低い山、といった日頃から見慣れたような景色しか見えなかっものの、その景色ともわずか半日足らずでおさらばとなってしまうことになることに、この時の孝一はまだ想像すらもできていなかった。
それは、深夜の汽車に揺られながら朝鮮半島を汽車で移動していた時と同じく、座席に横になって眠りながら朝を迎えた時であった。。
窓からまっすぐ差し込む太陽によって、大きなあくびと共に目を覚ます孝一。
他の乗組員にぶつからないよう静かに体を起こし右側にある窓を覗き込むと、そこから孝一の目に映ったのは——、
果てしなく続く地平線にと共に大地を連ねる高粱や各種麦、それに大豆やトウモロコシ等、様々な野菜が朝日に色づき、さんさんと実る悠久なる丘であった。
「すげえ、これが満洲か——」
孝一は満洲の風景に、思わず全身が震えてしまった。
幼き頃。孝一は半分を海で覆われ、そしてもう半分は小高い岩山群という狭い町に両親と共に暮らしていた。
走ることが大好きだった孝一にとって、もし海が陸地で目に見える最果まで走ることが出来たらどれだけ楽しいことか、と海を見ながらよくそんな夢を見ていた。
そして父親の仕事により、故郷と同じ海の街である木浦に映ってからも、やはり海を見ては同じような思いにふけっていた。
だからこそ孝一にとっては、自分の足で行くことのできる地平線の先に強烈な驚愕とそして心の底から湧き上がる感動を覚え、体が震えたのだ。
孝一は湧き上がる好奇心をこの目と体でしかと確かめるため、おもむろに汽車の窓を思いっきり上へあげると、汽車の真横から吹き付ける乾いた風が勢いよく孝一を飲み込んでは思わず体ごと汽車の外へ放り出されそうになる。
急激な風が静かな朝の静かな汽車を飲むと隣で寝ていた開拓団の仲間達は、なんだなんだと声を上げては目を覚ます。
すると彼らは目の前で半分体が窓の外に出てしまっている孝一を発見し、慌てて孝一の足腰を掴んでは引っ張り、間一髪、なんとか車内へ戻ることに成功した。
「兄貴、何汽車の外に飛び出そうとしていたのですか」
いのいちに起きては助けに入った、坊主頭の青年「ナミル」に怒られた孝一は、
「はははっ、ミアンミアン(悪い悪い)。汽車の速度が朝鮮の時より早かったせいなのかな。少し身を乗り出しただけなのに、汽車の風で思わず飲み込まれそうになるところだったぜ」
笑いながらも額にはかなりの冷汗が流れていた。
「だけど満洲の空気という物は随分と気持ちいいぞ。朝鮮半島の空気よりも乾いているのからなのな、かなり気持ちのいいもんだぜこれは」