特段、真剣に勉強した覚えもないが、オイラの生計は英語で成り立っている。





若い頃も今も、英語を話せることに対して、憧れもなければ自負もない。





ただ、昔も今も、旅好き、人好きな性分は変わらない。





海外へ旅に出れば、英語は必須。また、その旅先で人付き合いを求めれば、やっぱり、英語を話さざるを得ない。





特に、一目惚れした綺麗な女性をデートに誘ったり、交際を求めたりする際には、財布の中身以上に、英会話力が大切になる。





だから、そうこうしているうちに、いつの間にやら、勝手にそれなりの英語力が身についてしまった。





ウチのカミさんは英語ネイティブで家にいる時のオイラとの会話はほとんど英語。





そのため、高2の息子はオイラよりも遥かに流暢な英語を話すバイリンガルだ。





先日、彼と話していて、ふと、英語と日本語の違いについての話題になった。





そして、お互いに共通した認識だったのが、英語を話す時って、日本語を話している時よりも、自然に”陽キャ”になってしまうということ。





これは英語を日常的に話す環境にいる日本人なら、大抵は共感してもらえるんじゃないだろうか。





日本語には、日本人としての自分を日本国内に閉ざしていこうとする力がある気がする。





これは我が家の特殊な環境にいるとはっきり感じられる。





オイラと息子が妻の前で日本語で会話していると、当たり前だけど、自分の日本人としてのアイデンティティをひしひしと実感してしまうから。





英語ネイティブの妻がそこでは国際的価値観の象徴なんだけど、そういうものからどんどんと自分の意思を遠ざけ閉じていくような妙な違和感が発生してしまう。





それに対し、英語を話す時って、世界に向けて、自分を開いていくようなエネルギーを感じる。





だって、当然ながら、英語を話す相手や場所は、外国人であり、国際的な環境なわけだから。





二十代の一時期、こんなオイラでも先の見えない閉塞感からなかなか脱することができず、塞ぎ込む日々が続いたことがあった。





親兄弟も、仲の良い友人達も、いろんなアドバイスや励ましを心を尽くして与えてくれてはいたけど、かえって閉塞感が募ってしまうような逆効果にしかならなかった。





そんなオイラを救ってくれたものこそ、英語だったのだ。





繊細で多感な若者なら誰しも、社会人としての自覚を促される年頃になると、日本社会に満ちている義務感と従属への無力感に苛まれる憂鬱と向き合わなくてはならないものだ。





そして、この国に生きる多くの人々が、その憂鬱を抱えたまま歳をとり、出口のない閉ざされた円環の内部を彷徨っているのかもしれない。





幸運なことに、オイラは英語に出逢い、外へ向けて開かれた、無限の自由へと自分を解放してくれる幸福の航路を歩み出すことができた。





人間はどこに生まれようと、何物にも囚われて生きる必要など微塵もないし、自由を求めて生きるように、本来デザインされているものだとオイラは信じている。





その場所が、そこにいる人が、自分に合わないと感じたなら、さっさと別の場所へ移ればいいはずだし、その自由が本来人間には付与されているべきだ。





オイラにとっては、それが英語だったということ。





アナタにとってのそれは何だろう?