オイラは、いわゆる、「腹を割って話す」ってことが好きなんだよね。
建前とか、社交辞令とかではなく、ホンネをぶつけ合う会話がね。
旅先では、当たり前だけど、初対面の人との会話がほとんどになる。
レストランや飲み屋、ホテルのスタッフの人、バスの運転手さん、立ち寄る街の商店街の人やスーパーやデパートの店員さんとの、なんて事もない会話ね。
相手から見れば、こっちはお客さんだから、最初はとても丁寧に話そうとしてくるわけ。
だけど、オイラは、その場限りの一過性の人間相手でもね、そういう建前の、上っ面だけの会話には耐えられない性格なんだよ。
だから、とりあえず、親父ギャグやしょーもないジョークの一つでも口にして、相手のガードを下げちゃおうとする。
この客は、細心の氣を遣って肩っ苦しく接客しなくても済みそうだって、相手に思ってもらえればシメたもの。
そうすれば、こっちのペースにどんどん乗っかってきて、オイラが客だってことを忘れて、ポロポロポロと、ホンネを口走り始めてくる。
中には、なかなかガードの堅い人もいるんだけど、そういう場合は、しつこくならない程度に、ボケたり、ツッコミを入れたりしながら、しばし様子を伺うわね。
まー、それでも、ガードが下がらない場合は、「あー、この店員さんは、オイラとは違う”村”の出身なんだな」と思って、潔く諦めることにしている。
“村”というのは、この世にやってくる前に帰属してた所で、かつ、この人生を終えた後にまた戻る場所っていう意味。
物理的にどんな姿をしているのかはわからないんだけど、そういう仕組みのようなモノが存在しているってオイラは信じてる。
魂とか霊魂みたいに表現する人が多いけど、オイラにとって、それはどちらかと言うと、自意識を帯びたエネルギーみたいなイメージなんだけど。
元々は同一で分断されていなかった自意識が、かりそめの儚いこの世という三次元の空間においては、肉体や個性を纏って、孤独を募らせていくのが人間じゃないかって思ってるから。
オイラは、自意識が肉体を伴ってこの世にやってきている理由の一つは、生きている間にできるだけたくさんの”村人”達を探し出し、再会するというタスクをこなすためなんじゃないかって最近気づいてきたんだよ。
この地球上のあちらこちらに隠れて暮らしている同じ村の仲間達を見つけ出す、いわば、”村人を探せゲーム”って読んでもいいかな。
自分の”村”の出身者は、男女を問わず、実は、この世の至る所に無数にいて。
だけど、なぜかわかんないけど、そう簡単には巡り逢えないような仕組みになっちゃってる。
人生をかけて参加するゲームのルールは、複雑じゃなければつまんないからね。
で、このゲームの中で”村人”を見つけ出すための有効な方法の一つに、ホンネで語り合うってやり方があるってわけ。
相手からホンネを引き出すためには、自らもホンネをさらけ出さなきゃいけない。
そうして、ホンネをぶつけ合って語り合っていく中で、全身に鳥肌が立つような歓喜の瞬間が訪れるわけ。
それが、「共感」なんだ。
ホンネをさらけ出して、隠しだてせずに語り合った末に辿り着く共感こそ、まさに、探し求めた”村”の仲間とついに再会を果たす歓喜の瞬間なんだよ。
だけどね、やっかいなのが、子供の頃と違って、人間、歳を重ねてくると、妙な警戒心が増強されていくので、なかなか、ホンネで話そうとはしなくなっちゃう。
だから、この世でも、本当に氣の許せる仲の人間同士だけで、夫婦とか、家族とか、友人とかの仲間だけの小さな村をこの世でも作ろうとしちゃう。
これでは、自意識の分断がますます進んじゃうことにもなる。
だから、ボクのように、旅に魅せられ、動き回ることを宿命として生きると決めた人間はね、その”村”のサイズや境界を無限に広げていきたいっていう願望を持ってるんだよね。
思えば、今のカミさんと国際結婚しているのも、英語を話すのも、外国人を世話をする仕事に就いているのも、ぜーんぶ、その願望の為せる技なんだろうな。
年齢や性別、言語や国籍も超えて、一人でも多くの人達とホンネで語り合いたいって、子供の頃から、ずーっと思ってたからね。
オイラが恋に落ちやすいのも、そのせいかもね。
だって、恋愛こそ、ホンネの語り合いなくしては成立しないからね。
とにかく、オイラは、これからもホンネをぶつけ合える”村人”との再会を求めて、旅を続けようと思う。
共感の歓喜の瞬間、別々の肉体と個性を纏った、分断された自意識が、本来の状態へと結合しようとするんだよね。
だって、元々は同一のものだったんだし、この世と肉体から離脱すれば、また、融合するのが、オイラ達の自意識なんだから。
肉体も、自意識も、結合の果てに、歓喜のオーガズムが付随するのは、理に適っているよね。
オイラは、そんなオーガズムを求めて、この村人探しの旅を肉体を脱ぎ去ることになるその瞬間まで続けようと思っているよ。