日本の悲劇はソ連(コミンテルン)による日本共産化革命によって引き起こされたものである(その3) | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

日本の悲劇はソ連(コミンテルン)による日本共産化革命によって引き起こされたものである(その3)ー大東亜戦争(日中戦争、太平洋戦争、日ソ戦争)は共産主義者の謀略により引き起こされた

 

 

 

ー日本の悲劇は日本の政界、日本の軍部に入り込んだ共産主義者の謀略により引き起こされたものである。

共産主義者は忠誠を誓う母国はソ連であり、ソ連のため、日本が欧米や中国と戦争を引きおこし、大敗北して大混乱状態を作り出し、その混乱に乗じて日本を共産主義国とするため、謀略の限りをつくしたのである。

 

ー大東亜戦争(下記3戦争)

日中(対蒋介石)戦争、太平洋(対米、英,ほか)戦争、日ソ戦争・ソ連による一方的な日本侵略戦争

は近衛文麿などの謀略により、日本が戦争に引きずりこまれたものである。

日本の悲惨な戦争は共産主義者によって引き起こされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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http://ameblo.jp/kororin5556/entry-12239089260.html
満州開拓団の悲惨な結末(その3) 
2017-01-17 22:39:18NEW !
テーマ:戦争と平和、MMN

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ソ連による日本共産化の禍毒ー満州開拓団の悲惨な結末(その3)







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満州開拓団の悲惨な結末 

2012年10月 Minade Mamoru Nowar
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0607HisannaSaigo.html

 

 

 

 

 

 

(続き)

 

 

 

 

省市名 日本人人口
新京特別市 161,712
吉林省 75,233
竜江省 48,156
北安省 62,408
黒河省 14,059
三江省 65,612
東安省 61,396
牡丹江省 97,931
間島省 29,332
浜江省 41,222
哈爾浜市 78,695
通化省 15,746
安東省 36,930
奉天省 177,739
奉天市 247,765
四平省 29,150
錦州省 62,914
熱河省 11,807
興安総省 23,383
不一致補正 -20,332
小計 1,320,858
関東州:大連 228,842
合計 1,549,700

満蒙終戦史は以上の通り

 渡部昇一上智大学名誉教授の著書『昭和史 松本清張と私 大正末期~
二・二六事件
(ビジネス社 2005年12月発行)第191頁で下記のように述べている。

「(1933年当時、満州で)匪賊(ひぞく)と呼ばれるテロリストたちは、
推定100万人から300万人いたといわれます。


ほかにも「半農半賊=状況次第で匪賊になる」、

「宗教匪」、「政治匪=敗残兵」、「共匪=共産ゲリラ」・・・など神出鬼没、

昭和8年(1933年)だけでも、匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は
72件を数えた、というデータがあります。」

渡部名誉教授が
匪賊と表現されている100万人~300万人の中国人暴徒の
大部分は、旧大日本帝国陸軍の
【満蒙開拓団】政策によって
土地を奪われた農民たちである。


1931年の満州事変以後、東宮鉄男(関東軍陸軍大尉、張作霖殺害の実行犯)
石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の首謀者)、加藤完治(農業指導者)
石黒忠篤らは【満蒙開拓団】政策を積極的に推進した。

かれらは、誰ひとりとして、
【土地と水、特に農地の争奪こそが人類の紛争の根源】
という発想を持たなかった。

果てしなく続き、解決の曙光さえ見えないイスラエルとパレスチナの
悲惨な紛争も、原因は【土地と水の争奪】である。


ソ連軍と武装中国人暴徒集団のレイプ(強姦)、暴行、殺戮、強奪によって
約24万人の開拓団母子老人家庭避難民が死亡した。

旧大日本帝国軍部の【満蒙開拓団政策】と、1945年7月の
【開拓団の日本人母子老人家庭は、見棄て、見殺しにする】方針の
痛ましい犠牲者である。

『検証・満州1945年夏 -満蒙開拓団の終焉』第53頁~第71頁は、
団員、420人あまりが【集団自決】した哈達河(ハタホ)開拓団中央
グループの悲惨な最期について、納富善蔵さんの談話を載せている。
(麻山事件)


哈達河(ハタホ)開拓団は鶏西(チーシー)市から東へ約8キロ、当時の
ソ連との国境のすぐ近くにあった開拓団である。

哈達河(ハタホ)開拓団中央グループは逃避行の途中に、
ソ連軍の戦車隊と武装した中国人暴徒集団に前後をはさまれて
身動きできなくなり、ついに全員集団自決の道をたどったのである。

中央グループが集団自決する前に、先頭グループ約300人も、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団に襲われて、殺害されるものや、
負傷者が続出して集団自決していた。

 
「まず団長がピストルで頭部を撃ち抜き死んだ。
続いてあちこちで自殺が始まった。

銃を手にした男たちが、白い布で鉢巻きをしたり、目隠しした
わが妻、わが子を撃ち殺した。

短刀でわが子の胸を突き刺し自分も死んでいく母もいた。

喉を突き血みどろになって転がる者、草をわしづかみにしてもだえる者、
この世のものとは思えない恐ろしい情景だった」。



NASA衛星画像

参考資料1:
蓑口一哲著『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史Ⅲ』(新生出版 2005年6月発行)
 『第1章 哈達河開拓団と麻山事件』第7頁~第86頁
参考資料2:
中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す』草思社 1983年3月発行


 同書第98頁~第102頁には、ハルビン市と牡丹江市の間にある現在の
賓県市にあった大泉子開拓団と財神開拓団の悲惨なデータを載せている。

45年8月15日現在、両開拓団合わせて、550人いた。
武装した中国人暴徒集団に襲われて殺害されたものと、
自決者(=自殺者)は294人であった。

武装した中国人暴徒集団に襲われて、男手のない女子・子供・老人だけの
開拓団は、もう生きられないと観念して自決(=自殺)の道を選んだのである。


その後阿城に収容されたが病死者が続出、143人に達した。
死亡者は合計437人、全体の79.5%に達する。

 同書第244頁で、著者の合田一道氏は
「満州開拓団の人たちを死地に追いやったのは、まぎれもなく
わが国の政治であったと
断言せざるを得ないのである」と述べている。

中国軍国防大学教官で、戦史研究家の徐焔(シュ・イェン)大佐は、
著書 『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
(朱建栄(ツゥ・ジェンロン)訳 三五館1993年8月発行)第180頁


「土地を日本「開拓団」に強奪された農民と、鉱山や工事現場で
強制労働に従事させられ地獄のような生活をした労働者は
憎しみが特に深く、関東軍の敗退後、彼らが最初にしたことは

棍棒、鍬などを手に、日本人や旧「満州国」の警察などに
復讐することだった」
と述べている。

 1945年8月、凶暴なソ連軍兵士たちと、日本人に対する復讐意識に
もえる武装した中国人暴徒たち
の、レイプ(強姦)、暴行、殺戮、強奪の
犠牲となった満州開拓団の人たちに対するインタビューを中心に、
数多くの自決者(=自殺者)を出した満州開拓団の悲惨な末路について
詳しく述べた著書、『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史Ⅲ』(新生出版 2005年6月
発行)
』の 第284頁で、著者の蓑口一哲氏は下記のように述べている。




満州事変後、満蒙開拓団という新しい政策を推進したのは、
東宮鉄男(関東軍陸軍大尉、張作霖殺害の実行犯)、
石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の首謀者)
加藤完治(農業指導者)、石黒忠篤らである。


当時の高橋是清蔵相は満蒙開拓団に不賛成であった。

高橋蔵相の【移民など可哀想だから良くない】という一言で
いったんはしぼみかけたこの構想であるが、
1932年の5.15事件(海軍将校が犬養毅首相ら政府首脳を
殺害したテロ事件)
で、高橋是清は更迭されてしまう。


満州国建国後、この構想は具体化された。

日本を破滅に追いやった満州事変の首謀者である
石原莞爾ら関東軍参謀たちは、1945年8月の
【満州開拓団の悲劇】の責任者としても、
その罪を厳しく糾弾されなければならない。

 半藤一利氏は、著書『ソ連が満洲に侵攻した夏』(文藝春秋1999年7月発行)
の第313頁で、「囚人部隊を先頭に立てたという説もあるが、(満州へ)
一番乗りで突進してきたソ連軍兵士はドイツ戦線で鍛えられた猛者が多く、
戦場で鍛えられはしたが、教育や訓練で鍛えられる余裕のなかったものが
多かった。(日本人は)時計はもとより、机、椅子、鉛筆、消しゴム・・・
何から何まで奪われた」


 「かれらが開拓団の逃避行を平気で攻撃してきたのは、
戦場の常とはいえ、許されることではない
」と述べている。
保護すべき日本人母子老人家庭難民や民間人である開拓団員を
保護せずに、逆に、レイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪を行ったことは
【人道に反する罪】である。

 前掲書第313頁に述べられている通り、犠牲はそれらにとどまらない。
いまにあとをひく数千人の残留孤児の問題である。規律が滅茶苦茶な
ソ連軍兵士のレイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪によって、日本人母子老人
家庭避難民は、【子供を置き去りにせざるを得なかった】ほど、
死と隣り合わせの極限状態に置かれたのである。


 前掲書第271頁~第273頁で半藤一利氏は次のように述べている。
「日本本土では確実に、そして早急に平和と安息が訪れてきている。しかし
満州では、まさしくその正反対のことが行われようとしていた。ソ連軍の
進駐の日を境に、大小都市や町で【悪夢】がはじまったのである。市内の
治安はその日を境に混乱し、乱れに乱れていった。殺人、婦女強姦、強奪、
暴行はひんぴんとして行われだした。8月18日以降、ハルビン市はソ連兵
による強奪、暴行、強姦の街と化した。」



NASA衛星画像

You Tube:【軍歌】関東軍軍歌
(筆者は満州の国民学校で毎日歌っていた。歌詞の一部は変わっているが。)

You Tube:満州国国歌




     


6.奉天
(現在の瀋陽)における
開拓団・婦女子の悲惨な状況


米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年~46年冬の死亡率を高めた。

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。


元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」


日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。

服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。

学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。


参考資料:
読売新聞
(夕刊)2006年11月24日第22面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
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結果から判断するならば、石原莞爾、板垣征四郎、及び、
かられの「だいそれた犯罪」を容認・支持した
旧大日本帝国陸軍の最高指導者たちの脅しに負けた
廣田内閣の犯した罪はあまりにも重いといわざるをえない。


誠実一筋に生き、人を責め、非難することのなかった
廣田元首相は、
首相の座についたために、
旧大日本帝国陸軍の犯した罪をわが身に背負って、
A級戦犯という濡れ衣を着せられて、
絞首刑に処せられた。

正に悲劇であった。

 

 

 

 

(続く)

 

 

 

 

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