日米戦争はなぜ起きたかーアメリカは、自分の真の敵が誰かを見誤った(その2) | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

日米戦争はなぜ起きたかーアメリカは、自分の真の敵が誰かを見誤った(その2)








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レムナント・日本近代史より


http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi06.htm




日米戦争はなぜ起きたか 









 (続き) 












大東亜戦争は人種戦争だった


 日米戦争、大東亜戦争とは何か。それは根本的に「人種間闘争」「人種戦争」でした。また、傲れる白人支配に終焉をもたらすための戦争でもあったのです。

 アメリカと日本の行動をもう少し詳しくみてみましょう。

 日本は第一次世界大戦後、国際連盟に「人種差別撤廃法案」を提出します。それは白人の黄色人種に対する差別に苦しんでいた日本にとって、きわめて重要な意味を持っていました。当時の日本は世界の五大国の一つであり、唯一の黄色人種の国家でした。

 日本の非常な努力の結果、この画期的な法案には、多くの国々が賛成しました。ところが、議長であったアメリカ大統領ウィルソンが発した鶴の一声、

 「この提案は全会一致でなければ可決すべきでない」
 


 で結局、否決されてしまったのです。国内で人種差別をしていたアメリカは、人種差別撤廃法案を断じて認めるわけにはいかなかったのです。

 このように世界で初めて「人種平等」を国際舞台の場で提唱したのが日本であり、それを力づくでつぶしたのが、アメリカやイギリスでした。

 ウィルソンは、「民族自決」を唱えた大統領として知られています。しかしそれはあくまで欧州の民族に関してだけで、アジアやアフリカの民族など眼中になかったのです。すべては白人支配の存続と、自国の利益をねらったものでした。

 アメリカとしては、黄色人種と対等につき合っていくつもりは毛頭なかったのです。日本は、このように人種偏見のうずまく欧米諸国を相手に渡り合っていかなければならなかったのです。それがどれほど大変なことだったか。
 


 日本は第一次世界大戦に参加した結果、ドイツ領だった南洋諸島(マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島など)を統治することになりました。

 そこには日本統治により、やがて学校や病院が立てられ、ミクロネシア人の半数以上が初めて実用的な読み書きができるようになりました。住民全員に予防接種も実施され、漁業、農業、鉱業、商業が振興され、製糖業も目覚ましく発展して、住民の生活水準は著しく向上しました。

 人々の多くは今も親日的で、パラオでは八割の人が名前の一部に日本名をつけています。またパラオの国旗が日の丸に似ているのも、親日感情の表れです。

 第二次世界大戦後、この地域はアメリカの統治下に移されました。しかしアメリカは、この地域を水爆の実験場程度にしか扱いませんでした。またアメリカ人が、二宮金次郎像を引きずり下ろし、南洋神社を取り壊したことは、現地の人々にとって耐え難い行為だったといいます。
 


 この南洋諸島は、グアム島の東隣りに位置します。グアムはアメリカ領、一方の南洋諸島は日本領です。すぐ隣り合わせでした。しかもグアムとアメリカ本土の間に、日本領が入った形です。アメリカはひそかに、この邪魔者・日本への敵意を燃やしました。 










共産主義に無頓着だったアメリカ


 アメリカはこのように日本に対してライバル意識を持つ一方、共産主義の拡大には全く無頓着でした。

 一九二三年~二四年にかけて、すでに共産化していたソ連は、外蒙、および烏梁海(ウリヤンハイ 蒙古西方辺境)の地域を、卑怯な手を使って侵略し、そこを共産化してしまいました。

 このときアメリカはどうしたかというと、その恐るべき意味を理解せず、一言の批判も加えなかったのです。またアメリカは、共産主義の侵略・拡大に対し何の措置もとりませんでした。

 アメリカにとっては、それは白人同胞のしたことであって、所詮は対岸の火事にしか思えなかったからです。
 


 当時、共産主義の拡大の脅威を本当に認識していたのは、アジアでただひとり日本だけでした。共産主義の拡大がやがて世界とアジアを危機に陥れることを、日本は充分認識し、その拡大に対抗していたのです。

 ところが、アメリカはその日本を、ことさらに敵視し叩こうとしました。そこには、日本はアメリカの中国進出の障害だとみる利己的理由があったからです。

 世界情勢をもっと大局的にみれば、本当に障害なのは日本ではなく、むしろ、すでに始まっていた共産主義のアジア侵略でした。ソ連の共産主義者は外蒙への侵出後、甘い言葉をもってさらに中国に近づき、中国を共産化しようとねらっていたのです。
 


 こうした共産主義者の侵略、またアメリカの態度について、後にダグラス・マッカーサー元帥は、

 「太平洋において米国が過去百年に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだ」(一九五一年五月、上院軍事外交委員会)

 と述べています。アメリカは世界情勢を見誤っていたのです。
 










中国の内戦に巻き込まれた日本


 そうこうするうちに、中国の共産主義者の謀略により、日本は中国の内戦に巻き込まれてしまいます。

 当時、中国の共産軍は、蒋介石の国民党軍に追いつめられ、風前の灯火となっていました。それで共産軍は、中国内戦に日本軍を引き込み、日本軍と国民党軍を戦わせて、その間に共産軍の建て直しを計ろうとしたのです。

 日本には、もともと中国内部に入っていくつもりなど、全くありませんでした。満州国が成長してくれれば、充分だったのです。それはソ連の脅威を防ぐ防波堤となったでしょう。

 日本は実際のところ、広大な中国の内戦にまでかまっている余裕など、ありませんでした。ましてや侵略の意志もありません。しかし度重なる中国側からの挑発、また中国側の謀略により、日本は満州国を守るため、万里の長城の内側に足を踏み入れていきました。
 


 日中戦争(当時は支那事変と呼ばれた)の勃発です(一九三七年)。

 日本は蒋介石の軍と戦いました。しかし、日本は何度も和平に持ち込もうと努力しました。ところが和平が成立しそうになると、必ずといっていいほどそれを邪魔する事件が起き、和平は破綻したのです。

 それらの事件の背後には、ソ連またはアメリカの手引きがありました。彼らは日中が戦うことを望み、それを誘発したのです。

 ソ連の目的は、日中戦争によって日中両国が弱体化したところをねらって、両国を共産化することにありました。一方のアメリカは、日中戦争によって日本を弱体化させ、それによって中国の巨大市場をわがものとしようとねらっていたのです。

 つまり、この日中戦争を単に「日本の軍部の暴走」だとか、「明治憲法の欠陥」「参謀本部の無能さ」などで説明することは、単なる一面の説明にすぎません。戦争の原因を日本国内のことだけで説明しようとするのは、自虐史観におとしいれるものです。

 戦争の原因は、むしろ外にありました。外から迫り来る悪意は、日本に否応なく決断を迫り、日本を巻き込んでいったのです。
 


 このときアメリカは、日本を叩くため、蒋介石の国民党軍に対し莫大な援助をしていきました。なぜなら、蒋介石が戦ってくれるなら、アメリカは自分の血や汗を流さずに中国から日本を追い出し、中国に自分の権益を築けるからです。

 しかし、蒋介石への援助が日本叩きに効果がないことがわかると、アメリカはやがて直接対決に日本を誘い込んでいきます。
 








中国に幻想を抱き続けたアメリカ


 日中戦争開始は、日本にとって歴史の大きな分かれ目でした。満州国建国までは、まだ良かったのです。それはのちに、ほとんどの国が承認するところとなりましたから。

 けれども、日本が万里の長城を越え、中国内部にまで足を踏み入れたことは、アメリカの怒りを買うこととなりました。アメリカとの戦争を避けるという観点からするなら、日本は満州までにとどめておき、中国内部へは絶対に足を踏み入れるべきではなかった、との意見があります。

 日本は満州国をひとり立ちさせることだけに力を使うべきであり、日中戦争は何としても阻止すべきであったと。確かに、もしそれができたなら、確かにアメリカとの戦争も避けられたかもしれません。

 しかし当時アメリカは、日中戦争を望み、それを利用したのです。
 


 全く理解しがたい話ですが、アメリカ人は自国に来た中国人は徹底的に差別し排斥していながら、遠い中国大陸には、ロマンチックな幻想を抱いていました。その幻想は、一九三〇年代には、パール・バックのノーベル賞受賞作『大地』に描かれた中国人の姿への感動によって強められました。

 また当時の大流行作家ジェームズ、ヒルトンは、中国奥地に神秘的な理想郷「シャングリラ」があるという荒唐無稽(こうとうむけい)な小説『失われた地平線』を書き、これが映画化されて空前の大ヒットとなりました。

 また『タイム』『ライフ』誌を創刊、ラジオ、映画、ニュースにも大きな影響力を持ったヘンリー・ルースは、宣教師を父とし中国で育ったという個人的な思い入れから、親中・反日の報道に徹していたのです。

 彼は、蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴と絶賛しました。中国にいるアメリカ人外交官が、いくら「現実の中国はそうでない」と説明しても、アメリカ本国の政府や国民の反応は全く違う方向を向いていました。
 
















日米戦争06


毛沢東と組んで日本軍と戦った蒋介石(写真は1945年)。
アメリカ人の多くは蒋介石の正体を見誤っていた 







 一方の蒋介石も、アメリカ人のこの奇妙な幻想をたくみに利用しました。蒋介石は、自分の軍がなした中国民間人虐殺を日本軍のしわざにみせかけ、その捏造写真をアメリカ国内にばらまいて、反日宣伝を繰り広げました。

 「日本の暴虐」を証拠づけるとされた有名な捏造写真の数々は、この時期に、蒋介石の国民党によって作られたものです。

 また蒋介石夫人の宗美齢は、アメリカで開かれた講演会で、「日本の暴虐」を訴えて泣いて見せました。英語はペラペラ、しかも美人、またキリスト教徒を演じる蒋介石夫人の語る言葉によって、異教徒の日本人と戦う敬虔なキリスト教徒夫妻というイメージが作られ、アメリカ世論はまんまと蒋介石の国民党支持にまわっていったのです。
 


 アメリカの著名人や、マスコミ、政治家はすっかり騙されました。たとえばオーウェン・ラティモアは、自分に逆らう者を機関車のボイラーで焼き殺すようなやり方をしていた蒋介石を、「真に民主的なリーダー」とまで呼んだほどです。

 蒋介石は民主的なリーダー、日本軍は暴虐な人々という観念がアメリカ人に作り上げられていったのです。一方、そのころ一般のアメリカ人の六〇%は、世界地図のどこが中国か指し示せないほど何も知りませんでした。

 また大東亜戦争開戦後のイギリスで、

 「蒋介石は、中国内外における巧みな宣伝に支えられてはいるが、その実は、腐敗した政治家たちに囲まれているファシストにすぎない」

 と評されるようになっても、アメリカは騙され続けました。イギリス外務省極東部長アシュレー・クラークは、アメリカを訪れた際、

 「現実の中国についての限りない無知」

 に驚愕したといいます。
 

 








偽書『田中上奏文』


 その頃、中国の共産主義者がつくった偽書『田中上奏文』(田中メモリアル)が出回るようになりました。これは「日本は世界征服の陰謀を企てている」という内容の反日文書で、アメリカ議会でも回し読みされました。

 これが偽書であることは、当時の日本の正式な上奏文形式に合致していないことなどからも明らかです。しかし、アメリカ人の反日感情を燃え上がらせるのに、大きな効果を発揮しました。

 日本を、「美しき民主中国」を脅かす強暴な侵略者として非難する声があがったのです。田中上奏文は、その後延々と反日宣伝に使われました。結局、こうして作られたアメリカの幻想により、中国の内戦は泥沼化し、日本は抜け出せなくなってしまったのです。
 


 しかし、日本は中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を終結させ、中国を再建するために活動していきました。それは自力で内戦を終結できない中国を平定し、アジアに新秩序を建設するという、道義的介入でもあったのです。

 日中戦争が始まって約一年半後には、日本は中国の約半分を占領しました。そして中国の民衆を保護し、そこに近代的な農業や、産業、法制、教育などを持ち込み、中国再建に取り組みました。

 しかしアメリカは、本国に巨大な国土を持ちながら、本土からはるかに離れた地球の裏側の中国に経済市場を求め、日本に対して「お前は引っ込め」とばかりに干渉し続けてきました。

 アメリカは、中国の蒋介石の軍隊への援助を強めました。アメリカ(そしてイギリス)は蒋介石に対し、幾つかのルートを通し、多大な軍事物資や、武器、そのほか経済的な供給をなしていました。

 もしこのアメリカなどからの莫大な援助がなかったら、重慶の山奥に逃げていた蒋介石の軍は、日本の前に降参し、講和に持ち込んでいたことでしょう。しかし莫大な援助を受けていたことにより、彼の軍は持ちこたえていきます。
 









ルーズベルトの幻想


 それにしても、蒋介石はなぜ日本と戦い続けたのでしょうか。蒋介石にとって本当は日本は敵ではありませんでした。彼の本当の敵は共産軍でした。

 にもかかららず、彼が日本と戦い続けた一つの理由は、もし日本と和解すれば「弱腰!」と大宣伝され、失脚させられてしまうからでした。彼はみずからの保身のために戦い続けたのです。

 もう一つの理由は、彼は日本と戦うことによって、アメリカの援助をさらに引き出し、その援助を対共産党戦のために温存することを計っていました。彼は「日本と手をにぎるぞ」と脅しをかけながら、さらなる援助を引き出していました。

 そうやって、アメリカからの援助を対共産党戦のために温存していたのです。要するに蒋介石にとって、日本との戦争は「金づる」でした。彼は権力をにぎるために、アメリカと日本を利用したのです。
 


 もっともその蒋介石の夢は実現しませんでした。彼は結局、共産軍に負け、台湾に逃げてしまうはめになるからです。

 しかし蒋介石の野望によって迷惑を受けたのは、アメリカと日本でした。なぜなら、両者はそののち大戦争を交えなければならないはめになったのですから。

 さて、この蒋介石を不幸にも信用していたのが、アメリカで大統領になったルーズベルトでした。ルーズベルトの特殊なアジア人観は、その後の日米関係に決定的な影響を与えています。
 












日米戦争07


フランクリン・ルーズベルト大統領。彼は徹底した反日
主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近に
はソ連のスパイがうごめいていた
 








 ルーズベルトは、「いつも中国人には親しみを感じている」と言っていました。なぜなら、彼の祖先が中国とのアヘン貿易で儲けたからでした。彼はまた、蒋介石を偉大な指導者と讃美し、援助を惜しみませんでした。

 その一方でルーズベルトは、日本は世界征服の陰謀を企てている悪の帝国と信じていました。彼は「田中上奏文」とほぼ同じ内容の話を学生時代に聞き、それを信じ続けていたのです。

 さらにルーズベルトは、スミソニアン博物館教授アレス・ハードリシュカに、「日本はなぜ邪悪なのか」を内々に研究させ、その結果、

 「日本人が邪悪なのは、我々よりも頭蓋骨の発達が二〇〇〇年遅れているからだ」

 というようなことを本気で信じていました。そのために彼は、日本人を病原菌にたとえ、「日本人の根絶」を理想として抱いていたのです。
 


 ルーズベルトはまた、中国に対しては甘い幻想を抱き、さらに共産主義のソ連に対しても甘い幻想を抱いていました。ルーズベルトには共産主義への警戒感がほとんどなかったのです。

 そして第二次大戦中は、ソ連と同盟を組み、あの大虐殺者スターリンと仲良くしました。ルーズベルトは、スターリンの望むものをあげていれば、彼は侵略やアメリカの邪魔をしないだろうなどと言っていました。

 そのためルーズベルト政権の中枢には、ソ連のスパイ網が広がり、暗躍を続けていました。アメリカはその後、そのために悩まされることになります。

 さて、アメリカやイギリスが蒋介石の国民党軍を支援したため、日中戦争は、日本対白人の代理戦争の様相を呈しました。蒋介石は、白人の傀儡となり、戦争は泥沼化しました。
 











日本の息の根を止めようとしたアメリカ


 このアメリカやイギリスが蒋介石に援助物資を送っていたルートを、「援蒋(えんしょう)ルート」といいます。「援蒋ルート」の全輸送量の半分以上を占めていたのは、仏領インドシナから中国へのルートでした。

 日本はやむなく、そのルートを遮断するため、ベトナム北部に軍隊を進駐させます(一九四〇年九月)。

 この進駐は、当時のイギリスやアメリカ、ソ連がしていた軍の外国への進駐に比べ、非常に紳士的なものでした。とくにソ連のバルト三国への進駐は、侵略にほかなりませんでした。アメリカ、イギリスも不戦条約違反を犯していました。

 一方、日本のベトナム北部への進駐は、二ヶ月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末、その地域を支配していたフランス政府からOKをもらってのことだったのです。
 


 ところが、このときアメリカは、自国やイギリス、ロシアなどのしたことには何もふれず、ただ日本を非難して、日本を封鎖するための「ABCD包囲網」というものを作りました。

 ABCDとは、アメリカ (America)、イギリス (Britain)、中国 (China)、オランダ (Dutch)の頭文字です。これはアメリカ主導に行なわれた日本に対する厳しい経済制裁でした。ABCD包囲網により、日本には石油や鉄をはじめ、生活必需品などが入らなくなってしまいました。

 しかし、こうしたこともすべて、先に述べた「オレンジ計画」の一環だったのです。

 今日も、アメリカはしばしば他国に対して「経済制裁」という手法をとります。最近では、イラクや北朝鮮に対する経済制裁などです。しかし、最近のアメリカは同じ経済制裁をするにしても 、たいていは行き過ぎない、賢いやり方をするようになっています。
 


 あまりやり過ぎると、向こうが牙をむき、戦争を起こしてくるからです。けれども、ABCD包囲網という経済制裁は、まさに日本に「死ね」と言うほどのキツイものでした。

 ですからこの経済制裁は、戦争を誘発するものだとして、ルーズベルト大統領の前のフーバー大統領は決して行なわなかったのです。しかしルーズベルトは、この経済制裁に踏み切りました。

 貿易に依存するしか生きていく方法のない日本は、まさに窮地に立たされました。さらに、一九四一年にアメリカは日本人の在米資産を凍結し、また日本に対する石油の全面禁輸を実施しました。

 石油が入らなければ、車も走らず、飛行機も飛ばず、工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄をわずかしか持たない日本にとって、これは死活問題でした。
 


 これほどキツイことをすれば、日本は戦争を決意するだろうということは、もちろんアメリカにもわかっていました。しかしアメリカは、それを望んでいたのです。

 以前私は、イスラエルに住むユダヤ人歴史家のアビグドール・シャハン博士が来日したとき、彼を連れて日本の神社を案内したことがあります。そのとき彼はしみじみと、こう言いました。

 「多くの人は、日米戦争は日本軍の真珠湾攻撃によって突然始まったと思っているが、そうではない。その前に、アメリカが日本に対してしてきた悪辣な事柄の数々を知らなければ、なぜ日米戦争が始まったか理解できない」

 まさにそうなのです。日米戦争は、真珠湾以前から始まっていました。

 それでも、日本はこのときもまだ、米国との関係修復のために最後の努力を積んでいました。日本は、野村駐米大使と来栖(くるす)臨時大使を派遣し、交渉に当たらせたのです。彼らは、日米首脳会談を強く申し入れました。
 


 日本側は、ABCD包囲網を解いてくれるなら、中国大陸からの撤兵も考慮するとの案を用意していました。そして中国でのアメリカに対する門戸開放、機会均等も約束すると。これはちゃんと記録にもあることです。日本側は大きな妥協の条件も用意していたのです。

 しかし、当時のルーズベルト大統領は、話し合いの場に出てきませんでした。

 もし両者が誠心誠意、交渉のテーブルについて話し合ったなら、日米戦争は回避されたに違いありません。ところが、アメリカ側はこのとき、のらりくらりするばかりで、交渉の要求にも、示した条件にも返答しなかったのです。

 そしてやがて一九四一年一一月二六日、アメリカのハル国務長官は野村大使と来栖大使を呼び出し、突如、あの悪名高い「ハル・ノート」という一方的な対日要求を通告してきました。

 これが、日本に真珠湾攻撃を決意させるものとなったのです。
 
















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日本のサヨク共産主義者、アナーキスト ・特亜勢力(シナ共産党工作員、反日韓国朝鮮人、反日なりすまし日本人) は日本を破滅に導く売国奴であり、日本の弱体化、中共への植民地化を進める「日本滅亡推進勢力」であると思われる方はクリックをお願いします 
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