自虐史観から真実の歴史認識へー日本を悪者とする自虐史観はもうやめよう(その1) | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

自虐史観から真実の歴史認識へー日本を悪者とする自虐史観はもうやめよう(その1)






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レムナント・日本近代史より

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi01.htm



自虐史観から真実の歴史認識へ


日本を悪者とする自虐史観はもうやめよう



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自虐史観01



インドのオールドデリー市街、チャンドラ・ボース公園の
「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)。
日本兵はインド兵と共に戦い、それがインド独立の基礎となった。
 










 ある日本人の学校教師が、戦後、マレーシアを訪れました。
 かつて日本軍は大東亜戦争(太平洋戦争)中に残虐非道を尽くした、と思っていた彼は、マレーシアにおける日本軍の活動を調査しようと思ったのです。

 彼は、マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチックに会って言いました。
 「日本軍はマレー人を虐殺したに違いありません。その事実を調べにきました」。
 すると、ノンチック議員は驚いて言ったのです。

 「日本軍はマレー人を一人も殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。それに、日本の将兵も血を流しました」。
 そのような話が、『教科書が教えない歴史』(扶桑社文庫)という本に紹介されています。
  







日本軍はマレー人を一人も殺さなかった

 じつはこのノンチック議員は、かつてマレーシアの独立に半生をかけた人です。
 マレー半島は、かつて150年もの間、イギリスの植民地支配に苦しんでいました。マレー半島だけではありません。当時アジア諸国において、独立国は日本とタイだけであり、他のほとんどは欧米列強の植民地と化していたのです。

 当時、欧米列強は、アジアは白人のために資源を供給すべき国々、白人に隷属すべき国々とみなしていました。彼らはアジア諸国から収奪し、搾取を続けていたのです。

 しかし1941年、日本は真珠湾攻撃と同時に、マレー半島に進撃。イギリス軍を打ち破りました。日本軍はその後、マレーシア独立のために訓練所を造り、マレー人青少年の教育に力を注ぎました。

 訓練生と共に汗を流す日本人の姿は、マレー青年たちに大きな感銘を与えました。
 「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」

 ――そうした機運が彼らの内に育てられたのです。さらに日本政府は、南方特別留学生制度を創設。アジア諸国独立のため、指導者養成を目指しました。
 







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自虐史観02


マレーシアのラジャー・ノンチック上院議員
「日本軍はマレー人を一人も殺していません」
 




 ノンチックは、その第一期生の一人でした。彼は、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちと共に、留学生として日本に派遣されます。

 日本人教官たちは留学生たちを、わが子のように厳しく優しく指導し、「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神を持つことだ」と励ましてくれたといいます。
 日本政府は食糧難の中にも、苦労して留学生の食糧まで集めました。この日本留学の経験は、ノンチックの人生を変えるものとなったのです。

 そののち1945年、日本は敗戦を迎えます。ノンチックは、そのとき決意を新たにしました。

 「日本はアジアのために戦い疲れて破れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」

 ノンチックらは、祖国独立のための戦いを続け、ついに1957年、祖国独立を果たしました。さらに、彼ら日本に来た南方特別留学生たちが中心となり、現在のASEAN(東南アジア諸国連合)が設立されたのです。

 ノンチックは、こんな詩を残しています。
「かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。アジアの国の誰にでも、自分のことのように一生懸命尽くしてくれた」。
 かつて日本軍は、東南アジアを舞台として戦いました。しかし東南アジア人を相手に戦ったのではなく、東南アジアを東南アジア人の手に取り戻すために、欧米人を相手に戦ったのです。
  





日本は「とてつもなく悪い国」だったか

 今日、大東亜戦争中の日本軍の「侵略」行為や、「残虐」行為が取りざたされることがあります。しかし私たちは、歴史というものを偏り見てはいけません。誰かが、
 「日本はアジア諸国を侵略した」
 と言えば、それで日本軍の行動がすべて侵略だったように思うなら、間違いです。

 現在の日本の学校で使われている歴史の教科書は、第二次世界大戦前後の日本のことを、「とてつもなく悪い国だった」と教えます。そのような教育を受けた日本人が、先のノンチックの話などを聞くと、
 「えっ、そんなことあったの?」
 「信じられない」
 と驚きます。このような日本人たちを見て、ノンチック自身、たいへん歯がゆい気持ちでいたそうです。
 


 私たちが教科書を通して教えられてきたことは、あまりにも一面的なものだったのではないでしょうか。

 歴史というものは、様々な出来事の積み重ねから成っています。私たちは、そうした歴史のすべてを知ることはできないでしょうが、少なくともバランスのよい理解をすることは、大切なことです。
 日本は悪いことだけをしたという考えに偏るのではなく、また、日本は全く悪くなかったというのでもなく、公平に歴史の真実を見つめる歴史観が必要です。
 



 戦後、タイの首相になったククリット・プラモートは、まだ自分が新聞記者だった頃に、こんな記事を書きました。

 「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。

 それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」 (「12月8日」サンヤム・ラット紙)。   














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自虐史観03



ククリット・プラモート(タイの元・首相)
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した」
 




 この言葉の通り、日本軍の東南アジア進出という一撃は、欧米列強による植民地支配を崩壊させました。大東亜戦争後、アジア諸国はすべて独立したのです。
  





インドネシアを独立させた日本人

 欧米列強の植民地だったのは、インドネシアも同じでした。インドネシアは、じつに約350年もの間、オランダの植民地だったのです。

 オランダの行なった「愚民政策」「貧民政策」――つまりインドネシア人を愚民、貧民のままに押さえ込むという政策のもとで、インドネシア人の平均寿命は、一説によれば35歳にまで低下していました。

 それだけにインドネシア人のオランダへの反感は根強かったのです。それで人々の間で、
 「いまに北方から黄色い強者が空から降り、圧政者を追放してくれる」
 という12世紀の王、ジョボヨヨの予言が信じられるようになりました。

 ですから大東亜戦争が始まった翌年、日本軍がインドネシアに上陸すると、現地の人は日本軍を歓迎し、積極的に作戦に協力しました。彼らの目に日本軍は、自分たちを解放してくれる「北方の黄色い強者」と映ったのです。

 日本軍はオランダ軍を破り、インドネシアに軍政をしきました。しかし、その軍政は、オランダの政策とは大きく違っていました。
 


 それはインドネシア人の自覚を高め、独立を勝ち取らせることを目指したものだったのです。事実、日本軍は、オランダ語に代えてインドネシア語を採用し、インドネシア人を軍事訓練し、住民組織を作らせ、また行政組織の重要な仕事をインドネシア人に委譲しました。

 これらのことは、たとえば1958年発行のインドネシアの学校用歴史教科書にも、日本占領の利点として記されています。

 また日本軍は、インドネシア義勇軍(PETA)を編成。日本人が隊長となって、防衛のための様々な訓練をインドネシア人に行ないました。

 ところが、そののち日本は敗戦。インドネシア義勇軍も解散させられますが、その4万人の隊員たちは、続くインドネシア独立戦争のための主力となります。

 インドネシアは、日本敗戦の2日後の1945年8月17日に独立を宣言しました。しかし、オランダやイギリスは再びインドネシアを植民地にしようと、一方的に攻撃してきたのです。
  


 これがインドネシア独立戦争です。このときインドネシア独立のために、自分の意志でその戦いに参加した日本人たちが数多くいました。

 その数は、千人とも2千人とも言われます。彼らは「共に生き、共に死ぬ」(共生同死)を誓って独立戦争に参加。その多くは戦死しました。しかしこの血の犠牲を通して、インドネシアは独立を果たしたのです。
 日本の軍政に問題がなかったわけではありません。しかし、インドネシアでは独立記念日に向
けての記念パレードで今もなお、インドネシア人によって日本の軍歌が誇らしげに歌われています。
 







フィリピン、ビルマ、インドを独立させた日本人


 一方フィリピンでは、日本人、原禎元大尉の率いる義勇隊が、フィリピン独立運動を支援。フィリピン人と共に、米国の軍隊と戦いました。

 ビルマでも、鈴木啓司大佐をはじめ、多くの日本人がビルマ人と共にビルマ独立義勇軍を編成し、独立運動を展開しました。

 インドでも、インドの独立のために援助した日本人が数多くいました。インドは1947年に独立。それまでのイギリスによる植民地支配に終止符を打ちました。

 この少し前に、インド法曹界の長老、パラバイ・デサイ博士はこう語りました。
 「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。
 


 インドだけではない。ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう」。

 また、東南アジア諸国独立における日本人の貢献について研究した、台湾の黄文雄(こうぶんゆう)氏もこう書いています。

 「犬養毅、頭山満をはじめ、明治維新以来、アジア各地の革命や独立運動のために自らの命や財産をかけた日本人は、数え切れないほど多い。……民族・国家を超えて献身的に尽くす日本人の精神は、世界でもまれに見る特筆すべき義侠心である」。

 このように東南アジアの人々の日本に対する思いには、中国や韓国の人々の感情とは、まさに逆のものがあります。
 とはいえ東南アジアでも、しばしば反日デモが繰り広げられることがあります。これはなぜでしょうか。

 私たちは、その反日デモをしている人間が誰なのかを、よく見きわめなければなりません。黄氏はこう述べています。
 


 「反日運動……を主導しているのは、華僑と、何らかの政治的意図のある日本のマスコミなのである。東南アジアの住民は基本的に親日的であり、大規模なデモになるような反日感情は持っていない」。

 東南アジアには、昔から「華僑」と呼ばれる中国人がいます。彼らは欧米列強による植民地時代には、白人と結託して現地人から搾取をしていました。
 当時、華僑は居住地の民族とは決して同化しないだけでなく、現地人を蔑視し、利益をほとんど地元に還元せず、吸い上げるばかりだったのです。
 またインドネシアなどではとくに、その商業活動は悪質で、統治者と結託し、彼らの手先となって、オランダ人よりも過酷にインドネシア人から搾取するほどでした。
 東南アジアの現地人と、華僑との間には、このようなわけで今も根強い反感と対立があります。それはこうした過去があるからなのです。

 かつて日本軍は、東南アジアから欧米人を追放するだけでなく、華僑の追放も行ないました。ですから華僑の中には、今も根強い反日感情を持っている人々が少なくありません。しかしそれは、東南アジアの現地人の感情ではないのです。
 








台湾で仁政を敷いた日本人

 一方、台湾ではどうだったでしょうか。
 台湾は、日本にとって最初の植民地となった地でした。かつて日清戦争の結果、台湾は、国際条約である下関条約によって日本に割譲された地だったのです。それは合法的に日本の領土となりました。
 日本領有当初の15年間は、住民による激しい武力抵抗が続きました。日本政府は、ゲリラの討伐に明け暮れました。けれども台湾の武力抗争は、日本統治時代に始まったことではありません。
 それ以前の清国による統治時代のほうが激しかったのです。しかし大正デモクラシーの影響が及ぶようになると、台湾では無政府主義者も、共産主義者、独立運動家、議会主義運動家などもみな武力を捨てて、平和的な政治運動に変わりました。それは時代の流れでもあったのです。
 一方、韓国も日本の植民地となった地でした。今日、韓国人が日本の統治時代に関して述べる批判は痛烈です。ところが台湾はどうかというと、かつての日本の統治時代をそれなりに評価する、親日的な人々が多くいます。
 これには幾つかの理由があるでしょう。しかしその一つに、統治者となった人々の方針や人柄の違いもあります。
 1940年から44年まで、台湾総督をつとめたのは、長谷川清という日本人でした。
 






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自虐史観04


長谷川 清 台湾総督
その仁政は台湾の人々から慕われた 








長谷川は、台湾総督になり、日本人の現地人に対する不当な差別を取り締まりました。台湾人に対して公正な態度で臨むよう、政策を進めたのです。その結果、台湾では、現地人に対する不当な差別や、いじめがほとんど見られませんでした。台湾出身の金美齢は、これを思い、

 「日本精神は公正の精神である」

 と書いています。
 


 長谷川はまた、前任の総督の時代に行なわれた台湾の伝統宗教や伝統芸能の弾圧を取りやめ、その復活を認めました。皇民化とは、形だけ日本人に見せることではなく、今日のアメリカのように、人種・宗教が違っても日本国民としての愛国心を育てることだと、彼は主張したのです。
 彼の治世は、長谷川「仁政」と言われ、今も台湾人から高い評価を受け、慕われています。
 台湾における日本の治世に、全く問題がなかったわけではありません。しかし長谷川以外にも、台湾の人々と共に働き、台湾の人々のために活動した日本人が数多くいました。
 そうした働きのゆえに、日本人の働きを高く評価する人々が、台湾には少なくないのです。
 日本が敗戦国となるまで、台湾は日本の植民地でした。しかしそれは、欧米の植民地政策とは大きく異なるものでした。
 


 欧米諸国は、植民地からの収奪を続け、利益を現地に還元することはほとんどありませんでした。現地の人々は欧米諸国から、取られる一方だったのです。
 それに対し日本は、台湾を内地の延長と考えていました。その地の近代化のために、日本は莫大な国家予算をつぎ込んだのです。

 当時、台湾は辺境の地であり、流刑地だったような所で、道路はほとんどなく、ダム、水道、電気、衛生など、インフラ(公共設備)は全くといっていいほど整っていませんでした。
 そこに技術者を送り込み、お金をつぎ込み、現地の人々と共になってインフラ整備を進めたのが、日本でした。植民地時代に日本が台湾から得た利益より、台湾への支出のほうが、はるかに上回っていたのです。
 日本にとって、台湾の植民地時代は、出る一方でした。今日の台湾の経済発展は、この日本による植民地時代の恩恵によるところが大きい、と言えます。黄文雄氏はその著『捏造された日本史』(日本文芸社刊)の中で、
 「台湾の近代化は、日本人の経営なくしてあり得なかったことは、誰も否定できない」
 と書いています。
 







なぜ日本は明治維新に踏み切ったか

 つぎに、中国や韓国について見てみましょう。

 大東亜戦争に至る時代の日本の行動に関する中国や韓国の批判は、痛烈です。なぜでしょうか。日本は悪いだけだったのでしょうか。
 いや、事情は単純なものではありませんでした。
 話は、明治維新から始まります。日本は、それまでの幕藩体制を放棄して、明治維新を断行し、近代国家に生まれ変わりました。
 


 それは古い体制のままでは、野蛮国として、やがて欧米列強の植民地とされてしまうことが、火を見るより明らかな状況だったからです。
 欧米列強による植民地獲得競争が、当時すでに激化し始めていました。たとえば日本がまだ徳川時代だったとき、隣の中国で「アヘン戦争」が起きました。
 それまでイギリスは、中国から大量にお茶を買って、輸入していました。その代金として、イギリスは中国に大量の銀を支払っていました。
 そのときイギリスは、きたない手を使って、その大量の銀を取り戻そうと考えたのです。
 まず、密貿易でアヘンを中国に入れます。そして人々の間に、はやらせます。アヘンは麻薬ですから、喫煙者は中毒になります。中毒になれば、もっと欲しがります。
 そうやって大量のアヘンを中国に売り込んだのです。こうして銀を取り戻すことに成功しました。
 この出来事は、欧米人の多くが当時、有色人種であるアジア人を人間とは思っていなかったことを、端的に示しています。
 


 しかし中国側は、イギリス側のこの策略に気づき、怒ります。アヘン患者の蔓延を国家の危機と考え、アヘンの密輸を禁じたのです。そして約2万箱ものアヘンを廃棄させました。
 これにイギリスが反発し、「アヘン戦争」が勃発したのです。結果は、兵器に優れたイギリス側の圧勝でした。

 アヘン戦争以後、中国はしだいに欧米列強の植民地と化していきます。日本人は、こうしたことを伝え聞いたのです。当時、中国の上海でこの様子を見た高杉晋作は、こう書き記しました。
 「中国人はほとんどが外国人の召使いのようだ。英仏の人が街を歩けば、中国人は傍らによって道を譲る。上海は中国の領土だが、英仏の植民地ともいえる」。
 そして、わが国もこのままでは欧米列強の植民地になってしまう、という強い危機感を持ちました。実際、欧米列強によるアジアの植民地化は、どんどん進行中でした。
 


 イギリスによるインド植民地化は明治維新の十年前には終わっていました。ビルマ植民地化は明治19年、マレー半島の完全な植民地化は明治42年、フランスがベトナムを奪ったのが明治20年、インドネシアが正式にオランダ領となったのが明治37年でした。さらにアメリカのハワイ併合が明治31年、フィリピン奪取も同じ年でした。

 他方、北からは不凍港を求めて南下してくる最大の脅威ロシアがあったのです。
 こうした野盗の群れが走り回る世界にあっては、自立国家を守るために、どうしても明治維新によって近代化を達成する必要があったのです。
 







近代国家に生まれ変わった日本

 日本は明治のこの大改革に成功し、それまでの封建制度を改めて、近代的国家に生まれ変わりました。
 明治維新というのは、とくに武士階級の人々の多大な犠牲によって実現したものです。それまで武士たちは、藩に属していました。それぞれの家柄に応じて、給料(禄)をもらっていました。
 その給料のもとになったのは、農民から集まった年貢です。しかし、明治政府はこの年貢が藩に集まるのではなく、すべて政府に集まるようにしました(廃藩置県)。
 こうして藩を廃止するのみならず、江戸時代までの主役であった武士階級を一挙に廃絶したのです。これは武士とその家族約180万人が失業し、収入を失なうことを意味しました。
 もしこんなことをヨーロッパで行なったら、ひどい反乱となったでしょう。実際、当時東京にいた外国人は、ヨーロッパでこんなことをしたら、血で血を洗う大惨事になっただろうと言いました。
 

 しかし、反乱は起きなかったのです。藩主以下、武士達は、天皇の布告に従いました。そして刀を置いて、町民になり、商売や事業を始めたのです。
 その背景にはまた、先見の明のある数多くの武士たちがいたからでもあります。明治維新とは、世界に例をみない「無血革命」だったのです。
 日本が幾つもの藩に分かれていてバラバラでは、外国が攻めてきたとき、とうてい太刀打ちできません。また当時、藩ごとに別々の通貨や尺度があったので、豊かな経済活動のための基盤ができていませんでした。
 そのために藩を廃止し、中央集権にしました。また士農工商の身分制度を捨て、みなを「国民」となしました。憲法をつくって法治国家とし、共通の通貨や尺度をつくって、産業発展の基礎をつくったのです。
 学校制度を充実し、生まれや家柄によらず、努力さえすれば地位や富を得られるような社会にもしました。こうして日本は、近代国家への変貌を遂げたのです。
 





旧態依然とした当時の中国と朝鮮

 しかし、ただひとり、日本が近代国家への変貌を遂げても、すぐ近くの朝鮮や中国は旧態依然としたままでした。
 それどころか、中国や朝鮮の国内状況は混迷を深め、ひどく弱体化していたのです。統治者は国益を考えず利己的に行動し、役人の間には賄賂が横行して、腐敗が国家をおおい、内戦が多発していました。
 









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自虐史観05


日韓併合前、1897年の韓国・ソウルの南大門。国家は破産状態
で、国民も為政者もアジアに迫り来る危機を理解していなかった。
 








 かつて幕末に勝海舟などは、東アジアに侵略してくる欧米勢力に対し、日本は中国や朝鮮と手を携えて当たるべきだと主張していました。ところがその中国と朝鮮の実状を知れば、まことに頼りにならないものだったのです。

 このままでは、中国も朝鮮も、食うか食われるかの弱肉強食の世界の中で、欧米列強の植民地と化すのは必至でしょう。そこで日本は、まず朝鮮とこの問題を話し合うため、外交官を派遣しました。

 しかし当時の李王朝(李氏朝鮮)の政府は、この日本の申し出を冷たくあしらったのです。
 というのは当時朝鮮の人々は、中国を世界の中心と見る「中華思想」、およびその中国からへだたるほど文化的に遅れた野蛮国であると見る「華夷秩序」の中に、どっぷりつかっていました。
 


 それで朝鮮の人々には、日本人が欧米のものまねをして国をつくりかえ、洋服を着始めた姿が、たいへん愚かに見えたのです。彼らは日本人を軽蔑し、嫌悪して、日本の使節を追い返すことまでしました。当時ニューヨーク・タイムズは、
 「日本人が話し合いを持とうとした試みを、朝鮮人が非友好的な横柄さであしらった結果、両国の関係は日々険悪となっている」
 と報じました。朝鮮はまことに扱いにくい相手だったのです。それなら日本は、朝鮮とのつきあいをあきらめて、放っておけばよかったじゃないかというと、そうはいきませんでした。
 地図をみればすぐわかるように、朝鮮半島はユーラシア大陸から日本列島に向かって、グイと突き出た形になっています。もしこの朝鮮半島にロシアまたは欧米諸国の勢力が居座ってしまえば、日本にとっては、のど元に凶器を突きつけられたような格好です。
 


 実際、ロシアはすでに手ぐすねを引いて、朝鮮や清国のほうへ領土拡大をねらっていました。欧米列強も清国に進出しつつありました。
 そうなれば日本も、安んじてはいられなくなります。当時ロシアや欧米が、植民地からいかにひどい搾取を続けていたかについて、日本のリーダーたちはよく知っていたからです。江戸時代を通じて武家社会であった当時の日本人は、中国や朝鮮の人々に比べ、危機意識に格段の差がありました。

 この状況は、たとえば長屋に住んでいるお隣同士の関係に似ていました。壁一枚を隔てたお隣の家が火事になれば、自分の家も類焼をまぬがれません。ですから、内政干渉と言われても、日本は隣の家の火の始末に関心をもたざるを得なかったのです。
 「そこで、明治の日本が最も願ったことは、朝鮮半島に、日本と同じ独立の気概をもった、外国に侵される心配のない近代的な国家が誕生することでした」
 と東大の藤岡信勝教授は述べています。
 日本が朝鮮を無理に開国させたのも、そのためでした。かつてアメリカの黒船が、鎖国日本を無理に開国させたように、日本も朝鮮に対してそのようにしたのです。
 


 それまで、朝鮮は清国の属国でした。しかし、日本が朝鮮を開国させたとき、日本はその条約の第一条に、
 「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有」
 する旨を明記しました。これは日本が、朝鮮は清国の属国ではないことを宣言したもので、画期的なものでした。以後日本は、朝鮮の自立と近代化に、手を貸していきます。
 日本は何とか、朝鮮が列強の支配を受けない近代的な独立国家になってくれるよう、努力を重ねていきました。しかし朝鮮の自立的な近代化の道は、やがて挫折します。
 そのとき、日本は自ら朝鮮支配に乗り出しました。けれども、そうやって乗り出せば乗り出すほど、やがて日本は朝鮮と中国の内戦の泥沼にひきずり込まれていきます。
 そして気づいたときには、もはや抜け出せなくなっていたのです。
 






朝鮮と中国を近代国家にしようとした日本


 日本は明治時代に、日清、日露の戦争を経験します。これらは両方とも、朝鮮半島をめぐる争いでした。

 日清戦争は、朝鮮で起きた内乱を契機として始まりました(1894年)。それを鎮めるため、日本と清国の両軍が朝鮮に出兵しました。
 これにより、朝鮮内の反乱(東学党の乱)は抑えられましたが、今度は、日清両国に対立が深まりました。
 清国は、朝鮮をあくまで自分の属国と主張し、日本を懲らしめようとしました。一方日本は、朝鮮を独立国として認め、朝鮮から清国の支配を排除するために戦ったのです。
 


 こうして日清両国の間に、戦争が始まりました。欧米は日本の敗北を予想していましたが、結果は日本の圧倒的勝利でした。
 兵員の数からいえば、じつは清国のほうが圧倒的にまさっていたのです。しかし清国軍はよく訓練された兵士ではなく、統制もきちんととれていなかったので、劣勢になればすぐ降参してしまうような者たちでした。
 そのうえ彼らには、盗賊なのか軍隊なのか、区別できないような性格もありました。『日清交戦録』第16号の外国人の手記によると、清国軍はソウルから平壌への撤退中に、沿道の村々を略奪したうえ、四方に逃亡したといいます。
 また、国民意識の差も大きかったと言えます。当時、日本では戦時公債を発行して戦費を集め、国民の関心づくりも徹底していました。
 ところが、清国は戦費をイギリスから高利で借りていました。かの孫文の談によれば、当時、清国の民衆で、清国が日本と戦争をしていることを知っていた者はほとんどいなかったとのことです。
 日本が清国との戦争に勝利したとき、日本はその勢いで行けば、北京にまで進み、清国を倒すこともできたでしょう。しかし、伊藤博文はそこまでしませんでした。彼は講和に持ち込み、清国の保全をはかりました。
 


 清国の民衆はそののち、清国が日清戦争に負けたことを知るようになります。けれども当時、清国の民衆の中には、日本に脅威を感じる者はいても、日本との戦争を日本の「中国侵略」と思うものは一人もいませんでした。
 むしろ東夷(東の野蛮国)の小国が、天下国家の清帝国を打ち負かしたという事実に、ある種の畏敬を覚えました。
 そして、もし清国も日本のように「明治維新」をやるなら、欧米列強の支配を受けるのではなく、彼らと対等の独立国家となる力をつけられるのではないか、という希望が生じたのです。
 それで中国のリーダーたちや民衆の中に、維新派の人々が生まれていきました。
 維新派の人々の中には、日本に学びに来る者も多くいました。そして日本は、彼ら留学生を積極的に受け入れたのです。それは、
 「清国が近代化し欧米列強に抗することができれば、アジアにとっても日本にとっても好ましい」
 という「清国保全論」が日本国内にあったからです。日本に学びに来た清国の留学生たちは、優に1万人を超えました。
 また日本に留学生が来るだけでなく、日本人教師たちも、清国に派遣されました。それは清の実力者、李鴻章らの招きによるものです。その数は約2000名にのぼりました。
 こうして日本から学んだ中国人らは、のちに中国近代化運動のリーダーとなっていきます。
  






北京市民に慕われた日本軍人

 日清戦争で、清国が日本に負けたことからもわかるように、清国は図体は大きくても、その内情は混迷を深めていました。
 そうした中、「義和団事件」が起こります(1900年)。これは中国から欧米勢力を排除しようとする民衆の反乱でした。しかしそのやり方は、かえって中国の混乱を増すばかりでした。
 このとき、彼ら暴徒を鎮めるためにイギリス、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリア、日本の8カ国連合軍が出動します。
 日本も出兵したわけですが、これは日本にとっては難しい選択でした。同じ黄色人種でもあり、うかうか介入するのはどうかという意見もありました。
 しかし、イギリスの強い後押しもあり、日本政府は兵力派遣を決意しました。これは日本政府のPKOの前身ともいえるものです。
 


 日本の兵力派遣は、中国の国内の混乱を平定することを目的としていました。しかしこの混乱に乗じて、自分の領土拡大をはかった国がありました。
 ロシアです。義和団事件が満州に飛び火し、ロシア人が殺傷される事件が起きると、ロシアはそれを口実に、満州占領を行ないました。
 ロシア軍は怒濤のように満州に流れ込み、街を焼き、一般兵士は好き勝手に略奪し、虐殺し、市民の生活を脅かしました。
 こうした軍隊の横暴は、中国人には昔からよく知られたことでした。ロシア軍だけでなく、中国の軍隊も同じ様なものだったからです。
 とくに中国の敗残兵が、好き放題に略奪を働き、婦女暴行を働き、虐殺するのは、中国の伝統文化の一つといっていいほどでした。
 


 しかしその中国人たちを驚かせたのが、日本の軍隊だったのです。北京に入城し、そこを平定した日本軍の規律は厳しく、末端の兵士に至るまで非行をすることがなかったからです。
 「この様子は、北京市民にとって有史以来初めて目にする光景だった」
 と中国人歴史家が述べています。そのため北京市民は、布や紙に「大日本順民」と書いて日本軍を歓迎しました。
 日本軍は略奪や暴行を厳しく取り締まり、そのために治安はすぐに回復し、商店も営業を再開できました。
 これに引き替え、ロシア軍に占領された地域は悲惨でした。その地の住民たちは続々と日本占領区に逃げ込み、保護を求めてきました。ロシア軍管区を日本軍管区に替えて欲しい、という懇願が出されたほどです。
 












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自虐史観06


柴五郎中佐
彼の軍隊は中国の庶民から尊敬された 






 日本軍管区を指揮していたのは、柴五郎中佐でした。しばらくして、柴中佐に日本から帰国命令が来ました。そのとき、町の老若男女はこぞって別れを惜しみ、涙ぐんだといいます。 




東アジアからロシア軍を追い払った日露戦争

 ロシアは満州を占領し、支配下におきました。義和団事件がおさまっても、ロシアは満州から軍を引き揚げず、そこに居座りました。
 ロシアは膨張主義をとった国です。強引な領土拡大を次々に行なっていました。そして土地を支配すると、そこから略奪していました。
 そのロシアにとって、次のターゲットは朝鮮でした。日本の近代史は、このロシアの脅威に動かされたものであると言えます。
 もし朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、日本はもはや、首もとにナイフを突きつけられたようなものです。
 


 ところが当時の朝鮮は、日本ほどの強い国家意識を持っておらず、政治経済の近代化もできていませんでした。兵力も微々たるものでした。それで朝鮮半島の領有をめぐり、やがて日本とロシアの間に、日露戦争が勃発します(1904年)。
 それは朝鮮半島と満州からロシアを追い払うための戦争でした。日本がその開戦を決意した背景には、ロシアの南下に反発するイギリスやアメリカの支持もありました。
 日本軍はよく戦い、連戦連勝して、ロシア軍を打ち破りました。朝鮮と満州からロシア軍を追い払ったのです。

 その日本の勝利は世界を驚かせました。黄色人種がはじめて、白人に戦争で勝利したからです。しかも相手は、大国ロシアでした。
 これはまた、白人支配に苦しんでいたアジア諸国にも、大きな希望をもたらしました。
 「我々も日本のように維新を行なうなら、欧米の支配から脱し、独立国家になれる」
 という気概を彼らの間に生んだのです。日露戦争における日本の勝利は、植民地の束縛の中にあったアジア諸国やアフリカ諸国に、計り知れない希望と勇気を与えたのです。
 そうした意味で、日露戦争は世界史的意義を持つものでした。
 


 ロシアにとって日露戦争は、極東における彼らの侵略政策が、一時的に失敗に終わった出来事にすぎません。しかし日本にとって、それは国家の存亡を賭けた戦いだったのです。
 また、この日露戦争の時の話として、日本軍に捕まったロシア人捕虜たちの話があります。
 当時、ロシア人捕虜の収容先の一つとして、四国の松山がありました。そこには約6000名の捕虜が収容されました。そのとき県は、
 「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して破れた心情をくみとり、一時の敵愾心にかられて侮辱を与えるような行動はつつしむこと」
 と県民に訓告していました。
 松山に来た捕虜の大半は、傷病兵でした。彼らに対し赤十字の医師や看護婦らは、懸命に治療と看護に当たりました。手足を失った者には、当時の皇后陛下より、義手、義足が贈られました。
 


 当時捕虜だったF・クブチンスキー氏は、日記にこう書き記しています。
 「敵国でこのようなやさしい思いやりを予期したであろうか……。医師や看護婦の献身的な心くばりは、真の人間愛の表れである。それは神聖にして不滅のもので、キリストの愛と名づけられるものである」。
 また日本政府は、日露戦争後の明治40年、戦死したロシア兵たちのために忠魂碑を建てました。まず敵兵のための忠魂碑を建てたのです。その2年後に、戦死した日本兵のための忠魂碑を建てています。
 






満州は「無主の地」だった


 「もし日清・日露戦争で日本が負けたら」という仮定をするなら、どうでしょうか。朝鮮は、中国よりはロシアの一部になっていたことでしょう。ロシアの勢力は、たいへん巨大だったからです。
 日本の大陸政策は、よく「中国侵略」ととらえられてしまいます。しかし、じつは日本の朝鮮政策と、満州進出は、ロシアの南下を防ぐのが目的でした。

 日本にとっては、なによりロシアの膨張主義に対抗することが、危急の課題だったのです。
 日露戦争後、日本は、朝鮮が二度とロシアの勢力と結びつくことがないよう、朝鮮の外交権を奪います。そして日本の従属下におきました。これには欧米の支持もありました。
 さらに1910年になると、日本は朝鮮を併合(日韓併合)。朝鮮を日本との合邦国家とします。朝鮮は日本の一部とされました。
 しかし、この日韓併合は行き過ぎだったとの批判もあります。なぜなら当時、すでに日本は日露戦争で南満州を手に入れていました。それでロシアがただちに朝鮮に侵入してくる心配は、なくなっていたからです。
 


 しかし当時、朝鮮の国家財政は破綻。朝鮮の指導者には腐敗がはびこり、国内は荒れ、自立的再建はもはや不可能という状況にありました。これ以上放置しておけば、アジアに混乱をもたらす呼び水になったと考えられ、日韓併合はやむを得なかったとの意見もあります。
 一方、満州について見てみると、満州はかつての万国公法の基準から言えば、当時まだ「無主の地」でした。アメリカ国務長官ヘンリー・スチムソンはかつて『極東の危機』の中で、
 「日露戦争当時、満州はほとんど空き地同然の辺境で、最初に植民に成功した国民の手に帰すべき、競争の目標物として放置されていた」
 と書いています。事実はまさにそうで、日本は日露戦争後、移民競争に負けじと、盛んに満州移民を推進していきます。
 そしてそこに、一大文明圏がつくられていきました。それは中国人からみると別天地、パラダイスのように見えたほどです。そのため中国人の流民も、日本人以上にそこに移民してきました。
 


 そもそも当時の中国は、地方軍閥間の争いによって内戦が続いていました。しかも彼ら地方軍閥は、住民に重い税を課し、搾取していました。
 それは先取りで、むしり取る税です。数年先や、数十年先まで、なかには百年後の租税まで取り立てるものまでありました。
 そんなふうですから、日本の経営する満州の地は、彼ら苦しめられてきた者たちにとって、パラダイスのように思えたのです。そして年に百万を超える中国人流民が流れ込んで来ました。
 日本は満州の荒野に鉄道を敷き、殖産興業につとめ、教育に力を注ぎました。この殖産興業は、戦後、中国への置きみやげとなり、今も社会主義中国の工業の基礎となっているほどです。
 では、なぜその後、中国と日本との間に戦争が起こったのでしょうか。
 






中国の内戦の泥沼にひきずり込まれていった日本

 それには複雑なものが、からみ合っています。しかし大きな目で見ると、日本は中国の内戦の泥沼に巻き込まれていったことがわかります。
 中国は、あたかも巨大なブラック・ホールのように、日本をその泥沼にひきずり込んでいったのです。
 当時の中国を、まとまった一つの国家のように考えたら誤りです。当時、中国は内戦によってズタズタに引き裂かれた地であり、国家の体をなしていませんでした。
 さて中国の内部では、欧米や日本のような近代国家になることを目指す維新派と、ロシアのような共産国家になることを目指す共産主義勢力とが対立していました。
 維新派勢力の代表は蒋介石、共産主義勢力の代表は毛沢東です。当初、蒋介石の軍隊は毛沢東の軍隊よりも圧倒的に優勢でした。
 一時、共産軍は全滅に近いところまで行ったほどです。ところが共産軍は劣勢を挽回するために、あることを計画します。
 それはこれ以上、蒋介石軍と真っ向から戦っては、もはや勝ち目はない。だから日本軍をこの中国に引きずり込み、日本軍と蒋介石軍とを戦わせて、どちらか生き残った方と戦う、ということでした。






(続く)
 







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