「在日韓国・朝鮮人のタブー、朝鮮進駐軍」(その2) | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

「在日韓国・朝鮮人のタブー、朝鮮進駐軍」(その2)






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日本の現在(危ない日本) より

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「在日韓国・朝鮮人のタブー、朝鮮進駐軍」



 (続き) 









=== 韓国・朝鮮人が日本にしたこと ===

1、20世紀初頭、朝鮮は実質的に国が破綻状態で外国(中国・欧米・ロシア)から
  侵略されそうになったので、当時軍事強国だった日本に併合してほしいと救いを求める。

2、日本はいやいやながらも朝鮮に同情し併合を認め、内鮮一体のスローガンのもと
  多大な資本を投入して朝鮮の国つくりに協力。
  韓国の皇帝は天皇陛下に次ぐ高い地位を与えられ、多くの朝鮮人が日本に来て学問・技術・芸術を学ぶ。

3、大東亜戦争時は日本の臣民として共に欧米と戦い、朝鮮からも多くの志願兵が集まる。
  


4、ところが日本が敗戦すると手のひらを返したように日本を裏切る。
  急に日本は敗戦国で朝鮮は戦勝国だと言い始め、日本の法律だけでなくGHQの命令も無視して
  略奪・レイプ・殺人やりたい放題。

5、農家を襲って食料を奪いヤミ市で大もうけ、さらに土地の不法占拠・覚醒剤の密売
  当時朝鮮が混乱していたこともあり、日本を自分達のものにしようと役所や警察を襲って占拠
  もちろん税金は一切払わず、税金を徴収に来た国税局の職員にケガをさせることも・・・
  あまりの横暴ぶりにマッカーサーが激怒し朝鮮は戦勝国ではない第三国だと宣言する(三国人の由来)
 


6、一方朝鮮半島では「ヨーコの話」や「和夫一家惨殺物語」にも出てくるように
  日本人女性を襲ってレイプし放題。被害に遭った女性はすべて泣き寝入り。

7、さらに、朝鮮人はアメリカのWGIPに習い日本人を洗脳し内部から支配することを計画。
  不法行為で儲けた資金力にものを言わせマスコミ・教育界・法曹界への影響力を強め
  「日本は極悪な加害者・朝鮮は善良な被害者」という図式を作り出し
  日本人に罪悪感をもたせるシステムを確立する。

8、在日特権・竹島侵略・従軍慰安婦詐欺
  これらは朝鮮人がお人好しの日本人を騙すことで得られた成果であると言える。

9、次の目的は『外国人参政権』『人権擁護法案』
 







朝鮮半島での出来事:和夫一家惨殺物語
(親日派のための弁明より)未翻訳部分

私は生粋の韓国人だ。
でも、韓国人というものがあまりにも情けなく、えいっと殺してしまいたいときがある。
なぜ日本の蛮行は暴くのに自分たちの汚い利己心と低劣な鍋根性には目をつぶるのか? 
日帝時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には,明らかに立派な人々も多かった。

ところが、和夫一家殺害事件のように韓国人は自分たちの間違いを
日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し事件を矮小化、隠蔽しようと躍起になっている。

以下は和夫夫婦が死んだ日ふだん彼から深い恩を受けていた
金ソンス君が見聞きしたことを記録した証言だ。
事件当時、金ソンス君も加害者だったが殺害行為には同調しなかったそうだ。

和夫氏は日帝時代によく見られた慶尚道地方の日本人地主だった。
地主とはいうものの和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策にしたがって
乗り気ではなかった朝鮮生活を始めたものだ。


公務員だった和夫は政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。
そのころの日本は一種の軍事独裁体制で政府の命令に従わなければ
すぐに売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。

当時、朝鮮にいた日本人地主のなかには朝鮮人の小作人たちから
法の規定以上の小作料を取り立てる怪しからぬ人々もいたが、ふだんから人情味の厚かった和夫は
小作料を収穫全体の十分の一とし村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。

自分たちの生活が困らなかったので総督府の法令にしたがってやむをえず受け取らなければならない
最小限の小作料だけをとったのだった。
貧しい小作人が食料がないと泣きつけば喜んで食べるものを分けてやったし村で誰かの葬礼があれば
家族総出で駆けつけ食事の支度はもちろん自ら慟哭して悲しみを分かちあうこともあった。
このように,和夫は人間への温かい愛情をもった真の人間だった。


また、和夫は近くに行き場のない孤児がいると連れ帰って面倒を見ていたが
その数は一人、二人と増え四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。
けれども和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し自ら喜んで彼らの父母を称した。

和夫の家族は、ふだんこのように朝鮮人を愛し日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。

しかし彼らは,日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日
自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより凄惨に殺害されたのだ。


その日から、万歳(マンセー)の声とともに太極旗が翻り、ついに朝鮮人の世がやってきた。
神は自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫君に嫉妬したのだろうか。
和夫が実の子のように育て、東京帝国大学にまで留学させたAを中心に、
和夫の家で教育を受け成人するまで育ててもらった青年たちが、
鎌とツルハシ、シャベルをもって和夫のもとに押しかけた。
当時、その場にいたキム・ソンス君は、このときのことを次のように証言している。

和夫:(優しい目で)なぜこんなことを。お前たち。

A:チョッパリ!日本へ失せろ。失せろってんだ。


和夫:(わざと怒り声で)私がお前たちに何か間違ったことをしたかい?
お前たちはみんな私の子供だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
お前たちの祖国が独立することは、私も日ごろから強く望んできたことだ。
踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器をもって私のところに詰め掛けてきたんだい。
私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。(涙を流して)本当に哀しいよ、朝鮮の子供たち。
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合うことはできないということなのかい。
お前たちが望むんなら、帰ってやろう。

A:意味深な目配せをBに送る(財産を全部処分して帰ったら、俺たちはどうやって食ってくんだ?)
B:死ね、チョッパリ、この糞野郎!


次々にツルハシが和夫の後頭部に振り下ろされ、それと同時に
たくさんのシャベルと鎌が体をずたずたに引き裂きはじめた。

和夫の妻は耐えられずに飛び出してきた。それまでじっとしていたCは和夫の妻を見ると、
彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。そして、なんと

十三人は、一週間前までお母さんと呼んでいた彼女を強姦しはじめた
(キム・ソンス君はこの場で自分が止めたなら、自分も殺されていただろうと語る)。

彼女はひどい集団強姦の途中で死亡した。
Dは普段お母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにし、
それでも内臓を掻き出して撒き散らした。


和夫にはひみこという娘が一人いた。普段、模範的でよい子だったひみこは、
学校が終わって家に戻り両親に起きた惨状を見ると、気が触れてしまった。
当時、ひみこの慟哭が何日も続き、近所の住民たちは眠れなかったという。

その後、孤児となったひみこは食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。
結局、彼女は九日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。ひみこは小学六年生だった。
和夫の財産は「勇猛で愛国心に燃える」朝鮮青年たちの手に丸ごと渡り、

この事件は村人たちの沈黙の中で徐々に忘れ去られていった。
(親日派のための弁明)金完燮



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中国残留孤児が存在するのに、なぜ韓国(朝鮮)残留孤児が存在しないのか?
親日派のための弁明(未翻訳部分)と考え合わせると恐ろしすぎる結論が導かれる・・・

振り返って考えてみれば
日本の敗戦後朝鮮半島では、このような殺害劇がたくさん発生しただろうと思われる。

日本の無条件降伏以後、北韓地域にはソ連軍がすばやく進駐し軍政を敷いたが
南韓に米軍が上陸したのは9月中旬だった。したがって約1カ月程度、
南韓地域には無政府状態が続いた期間があった。

韓半島には、さまざまな理由で日本人とそれに加担した者たちに恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし
彼らは日本人を殺し財産を強奪し
日本女性を強姦しただろうと思われる。
 


そして朝鮮人たちが8月15日、日本の降伏を喜んだいちばん大きな理由はおそらく
日本の一部として敗戦国の暗澹たる未来をともにするのが嫌だったためではなかろうか。

日本統治の最後の期間、特に大東亜戦争が始まった最後の4年間は
日本人はもちろん日本の統治を受けていた地域の住民たちも大きな苦痛に見舞われた時期だ。

それゆえ,朝鮮人たちにとって8月15日は,忌まわしい戦争の苦痛から脱することのできたという点で
また日本人たちを殺し財産を奪える機会が与えられたという点で、とても喜ばしいことだっただろう。

問題は、韓国社会において朝鮮人によってほしいままにされたこのような虐殺と残酷な行為は
まったく知られておらず、また調査されたこともなくわれわれが受けた被害だけは
繰り返し強調されているという点だ。
 


そして日帝統治の期間に受けたとされる被害なるものも
事実よりずっと膨らまされているだろうことは,容易に想像がつく。

朝鮮は日本の統治を受け未開な農業社会から短期間に資本主義工業国へ発展し
高い生活水準を享受してきた。しかし日本が戦争に負けるやいなや素知らぬ顔でまるで自分たちが
戦勝国にでもなったかのごとく日本を呪詛し彼らの財産を奪い虐殺した行為は
明らかに人倫に悖る犯罪行為にほかならない。このようにして日本人をすべて追放したあと
南韓国と北韓国の政府は強奪した日本人の土地と工場を「敵産」と呼び堂々と山分けした。

もし日本が戦争で勝利したり少なくとも領土を保全され休戦にでもなったなら、
はたして朝鮮人たちはこのように振る舞えただろうか。おそらく前よりもっと自発的に
日本人であることを主張しつつ忠誠を尽くしただろう。ところが戦争に負け
くっついていても別にいいことがないと判断した瞬間
彼らは態度を急変させ,日本に仇として接し始めたのだ。
 





1946年6月10日救療部報告書より

「満州や朝鮮からの 初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。

朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されて さらに散々に辱められたうえ、
虐殺されている光景であった。
  



「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。

夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17才になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて 幽鬼のごとく帰ってきたという。

みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。

部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。

城津での惨状は言語に絶した。
朝鮮人の男女が 数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から 赤児の着物まで
剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」


     
博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
レイプによって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。

昭和21年の春、堕胎のための専門病院設立のきっかけになる出来事があった。
医療救護に従事していた医師・田中正四は、港で引揚船から降りてきた教え子と再会した。

京城女子師範を卒業して 朝鮮北部の田舎の学校に赴任していた彼女は、
進駐してきたソ連兵に暴行されたのだ。しかも一度では済まず、相手も変わった。
兵隊同士が情報交換をしていて、部隊の移動のたびに新しい兵隊に襲われたのである。

救療部の関係者は 悩んだあげく 堕胎手術に踏み切った。

医療設備や技術の不備、そして何よりも、当時は堕胎を禁ずる法律があったからである。
しかし手術は失敗し、娘は命を落としたのである。



「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、「水子の譜」に収録されている。
同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、
レイプの加害者は朝鮮人が最も多く次いでソ連人、中国人、アメリカ人だという。






山口組三代目 「田岡一雄自伝」 1982年 徳間文庫

一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。

少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服(朝鮮人)の男たちだった。

通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、
無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。


こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には
目にあまるものがあった。警官が駆けつけてきても手も足も出ない。

「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、
街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。玉音放送ののち、今まで同じ日本人として権利を享受してきた
朝鮮人の態度がガラリとかわり、敗戦の責任を日本人とともに背負うのを拒否しだし、
それを正当化するために日本人に牙をむきはじめる。隣組み組織や防空演習等いっしょにやってきて
同じ日本人として助け合っていたのに、この変わりように、初め祖父は「冗談だろ?」と思ったらしい。


しかし、事は悪夢以上だった。
集団で土地をロープで囲み、バラックを建てていた家族を殺害し占拠する。
白昼、商店を襲い、商品を根こそぎ奪いそれを闇市で売りさばく。

バスや列車に無銭で駅員を殴り倒し、どかどか乗り込み、網棚の荷物を外に放り投げ、
そこで高いびき。警官狩りをして堂々と殺す等等。祖父曰く「町は彼らの遊び場になった。
日本人は逃げ惑うだけになった。






蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(2000年、日本教文社)ISBN 453106349X

昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。
山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、
呆然と立ちすくんでいた。
我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。
無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。

ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。
しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、
悔しさと無念の気持でいっぱいになり、
とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。
無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。


他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、
したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。
日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。
敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、
水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で
上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、
四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。


だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、
祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。

この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、

40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。
『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』
『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、
そんな会話が小声で交わされるのだった。


そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、
日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。
しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、
兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。

そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、
あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。
『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった
上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、
我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。

(中略)


昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。
そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。

新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、
列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。
ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。

私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、
やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。
少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。


心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。
また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、
8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、
それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、
たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。
こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、
連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。

若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、
この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。
ただ黙って見ているしかなかったのである。

(中略)


佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。
あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、
肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々に
おべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。

弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、
そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。

なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった
地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。




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日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。
万宝山事件は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争いから起こり、
朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。
満州では、朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。

こういった真実は現代のマスコミでは完全なタブーとなっている。
著名な駐日大使ライシャワーの「日本史」でも戦後の朝鮮人の
横暴は記載されていたが、たった1行書かれていただけなのに
在日や左翼の抗議が殺到したという。



現代を生きる日本人の皆さん、
日本人が終戦を迎えたときに韓国・朝鮮人に何をやられたのかよ~く心に刻んでください。
 


強い者には事大し、
衰えると手のひらを返して残酷なまでの裏切りをする、それが韓国・朝鮮人です。
有史以来、ずっとこの繰り返しです。
決して心を許してはならない民族なのです。

そして、都合の悪いことは力で封じようと躍起になります。
自分達が悪いことをしても罪の意識が無いのです。
都合が悪いことは全て他人のせいにして、己の非は決して認めようとしません。
 


そんな大げさなと思うかもしれませんが、
普段挨拶程度の付き合いならわかりにくいかもしれませんが、
利害が絡めば途端に民族性が露になります。

まともな人間もいますが、その人たちの身内までがまともとは限りません。
だからこそ、彼らと対峙する時は慎重でなければなりません。

もし、朝鮮民族がまともな人たちの集団であれば、
自分達がやったことを棚に上げて一方的に日本人を悪者にはしていません。
自らの罪をきちんと認め日本人被害者にそれなりの謝罪と償いをしているはずです。

それが戦後63年経つ今でも清算されず放置されたままです。
今後も韓国・朝鮮人が変わることはないでしょう。
日本人はそろそろ朝鮮民族と決別するべきです。
 







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日本のサヨク共産主義者、アナーキスト ・特亜勢力(シナ共産党工作員、反日韓国朝鮮人、反日なりすまし日本人) は日本を破滅に導く売国奴であり、日本の弱体化、中共への植民地化を進める「日本滅亡推進勢力」であると思われる方はクリックをお願いします 
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