「<法>の支配」とはどういうことか理解しよう | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

「<法>の支配」とはどういうことか理解しよう





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「<法>の支配」が自由な祖国の偉大な発展と永続を保障する





大森勝久評論集より

「<法>の支配」が自由な祖国の偉大な発展と永続を保障する

2007年8月29日




第1節 「法治主義」ではなく「<法>の支配」を

 政府は共通の価値に基づく日米同盟を堅持すると言い、そのひとつとして「法の支配」を掲げる。政府は「法治主義」のことを法の支配と表現しているのだが、法治主義と<法>の支配は原理が異なっており、全く別のものである。日本には<法>の支配の観念もなく、当然、<法>の支配は実行されていない。英米系の<法>思想が<法>の支配である。立派な文明国家の統治は<法>の支配によってなされる。日本の政治があまりにも低級なのは<法>に基づく政治がなされておらず、それを拒否して法治主義によって行われているためなのである。日本国民にとって<法>の支配の思想の獲得は喫緊の課題である。

 <法>の支配でいう「法」とは、古くから言い伝えられてきた神聖な永遠の真理のことであり、人間の意志から独立して存在しているものである(以下、一般的な法律と区別するため「<法>」と記す)。古来からの伝習であり、慣習である。<法>は正義であり道徳である。<法>の支配とは、<法>が全てを支配することをいう。中世ヨーロッパのゲルマン各部族においては、<法>は王も神も支配するものとして<法>の支配の思想は普遍的に存在していた。 しかし近代に入ると英国を例外としてゲルマン各部族の<法>思想は消えていった。英国においてのみ、「コモン・ロー(慣習法)の支配」として継承され、かつ近代的な<法>の支配の思想に発展していったのである。17世紀初頭のコーク卿の果たした役割が大きい。<法>の支配においては、<法>に反する法律(議会における制定法)は制定してはならず、仮に制定されても無効である。
 


 英国の憲法は成文憲法ではなく、コモン・ロー(判例・先例・慣習)等の集合体である。英国の法には三つあると言われる。ひとつはコモン・ローであり、もうひとつは議会で制定された法律の中の特別のもの。つまり形式的には制定法ではあるが、コモン・ローを発見したとみなされるものがこれである。

 もうひとつは特別な慣習である。たとえば男女は平等ではなく異なるという古くからの当たり前になっている慣習は<法>である。従って、社会の制度・慣行を改造して、男性性、女性性を否定して人間を非人間に改造しようとする日本の「男女共同参画基本法」のような悪法律は<法>に違反しているから英国では立法されないし、されても無効である。<法>に違反する立法が許されず、無効とされるのは、その法律が<法>の立場からみると正義と道理に反しているからである。つまり<法>は正義であり道徳である。

 英国の伝統的な<法>の支配の思想を持った英国人が、アメリカ大陸に移住して米国を建国した。米国憲法は議会において制定されたのではあるが、コモン・ローが発見されたものだと見なされたから、米国憲法は法律ではなくその上位にある準<法>(コモン・ロー)なのである。<法>(の全てを発見することはできないので、一部)を発見して明文化したものが憲法と言うことになる。<法>→憲法(準<法>)→法律である。<法>の支配が英米の憲法原理である。
 



  <法>の支配とは、国王や大統領や議会や政府や裁判所であれ、<法>の下位にあって<法>に支配されるということである。もちろん国民も<法>に支配される。立法(議会)も命令(政府)も判決(裁判所)も<法>に従い、違反してはならないということである。言うまでもなく政治は<法>に支配されて行わなくてはならないということである。すなわち<法>の支配とは「<法>主権」のことであり、国民主権を否定し排除する。英米憲法には国民主権などない。<法>の支配は、<法>によって国家権力を制限し、また国家権力を分立して相互にチェックアンドバランスが働くようにして、国家権力の暴走を阻み、偉大な祖国の発展と国民の<法>に基づく自由・権利を守らんとするものである。

 一方「法治主義」「法治国家」でいう「法」とは、議会で制定する法律のことである。法治主義とは、行政や司法は法律に基づいて行わなくてはならないということであるが、その場合、法律が悪法であっても有効であり、それに基づく行政も裁判も合法となる。例えばナチスドイツの「全権委任法」のようなものが典型である。だが、<法>の支配によって統治される自由主義国家であれば、全権委任法は無効であるし、それに基づく行政は違<法>である。それ以前にナチス(国家社会主義労働者党)は勢力を拡大することすらできない。   

 <法>の支配が実行される国家であれば、法治主義は正しく機能するが、<法>の支配がない法治主義は、あるときは<法>の支配と自由主義を否定する左右の革新勢力=左右の左翼勢力を急成長させて祖国の乗っ取りを許し、<法>を否定した政治により祖国を破壊し、国民の自由と権利を圧搾し、祖国を亡国へ至らしめることにもなりうる。戦前のドイツがそうであったし、戦前(昭和前期)の日本もそうであった。

 明治憲法(1889年)は、英米の保守主義哲学と<法>思想(<法>の支配)を学んだ金子堅太郎や金子の著書からそれを学んだ井上毅、伊藤博文らによって起草された。「告文」で明らかなように、明治憲法は天皇の祖先から受け継いできた不文の<法>を明文化したものであるという仮構を取っている。法律ではなく、その上位に在る準<法>であるということである。もしも<法>の支配、明治憲法の支配という思想が指導者層と国民に教育機関を通して徹底的に教えられていったならば、日本の歴史は異なっていただろう。だがそうではなかった。
 


 そのために、1930年代になると左右の左翼が国を簒奪することになった。「右翼」と間違って捉えられているが、彼らは「革新」を自称したように、「反自由主義、反議会制民主主義、反資本主義、反正しい個人主義」の「国家社会主義」であった。彼らが唱える”国体”も、「明治憲法の天皇制」の否定であり「天皇主権の天皇制社会主義」のことであった。彼らの”国体”は反国体であった。彼らは日本の<法>と明治憲法を否定したのである。以上で分かるように彼らは右翼ではなく、共産主義とは別個の右の左翼である。彼らが「反共」を主張したのは”国体”の観点からであり、その他は共産主義と共通していた。だからこそ、彼らは反米英仏蘭であり、英米が支援する蒋介石国民政府と敵対したのである。彼らはその外見の国家主義とは異なり本質的に反日である。

 そして共産主義者はこの国家社会主義者に偽装して各部署に侵入して主勢力の国家社会主義勢力の思想と政策を利用して、自らの戦略目標の実現をめざし成功を収めていったのであった。スターリンの指示であった。左右の左翼が大東亜戦争(1937年~)を行い、国民の生命・自由・権利を圧殺し、祖国を破壊し亡国においやったのである。<法>の支配の思想が確固たるものとして存在すれば避けられたことである。保守主義=真正な自由主義とは祖国と祖国の<法>の支配を保守することである。
(2007年8月22日付戦略情報研究所「おほやけ」144号掲載・本論文は原文の一部の語句を訂正してあります)
 








第2節 日本国民は<法>を知っている

 7,8年も前になると思うが、ビデオでケビン・コスナー主演の「ワイアット・アープ」を観た。父親が少年ワイアットに威厳をもって「ワイアットよ、命に次に大切なものがこのアメリカ合衆国憲法だ。いつも憲法を読み、常に自分の行動の指針にしていきなさい」と教育するシーンが印象的であった。「<法>の支配」の教育である。日本では<法>の支配の思想自体が欠如している。私が<法>の支配の思想を知ったのは10年前の1997年であった。左翼思想にかすかに疑問を抱くようになってからも約15年かかって左翼思想から脱却し、やっと保守主義の入口に立てたのがこの年であった。私は中川八洋教授の『正当の哲学 異端の思想』(1996年刊)で<法>の支配の思想を初めて知った。日本では氏以外にこれを主張する著名人は今もいない。

 孫引きだが、明治憲法の共同起草者のひとり井上毅は1890年の『言霊』で、「わが国の憲法はヨーロッパの憲法の写しにあらずして、すなわち遠つ御祖の不文憲法の今日に発展したるものなり」(中川八洋氏『皇統断絶』140頁、2005年刊)と述べている。「告文」と同じ主張である。これは全てがそうだという意味ではないがフィクションである。起草者たちは、英国憲法系の1850年のプロイセン憲法(プロシア憲法ではない)に学んで明治憲法を制定した。英米の<法>の支配の思想を持つ井上は、明治憲法を天皇の祖先から伝えられてきた不文のコモン・ローを発見し発展させたものであるとすることによって権威づけて、<法>の支配を確立していこうとしたのであった。しかしながら、井上や金子堅太郎が有していた<法>の支配の思想は残念ながらその後教育され広がっていくことはなかったのであった。当時のエリートたちが、この核心的な課題を実行しなかった点は厳しく批判されるべきである。
 


 私たちは<法>の支配の思想を獲得し、<法>の支配を実現していかなくてはならない。私たちは<法>を知っている。たとえば、日本は自衛権を有し、そのための国防軍を保有するということは古くからの<法>(コモン・ロー)である。洗脳されてしまっている左翼(共産主義者、アナーキスト)以外の国民ならば誰しもが認めるだろう。もし憲法9条が通説のように自衛のための軍隊の保有を認めていないものだとすれば、9条は<法>に違反していて無効である。国民の生命・身体・財産の国家権力等からの自由が、古くからの<法>であることも国民が等しく認めるところであろう。また、先祖から受け継がれてきた国民の権利・自由は<法>的権利・自由であることも了解されるだろう。自生的な制度である資本主義経済が<法>であることも納得されるだろう。自明なことは不文法であってよいのである。二千年にわたって日本の制度である天皇制と皇位の男系男子継承が<法>であることも強く認められるだろう。

 こうした<法>を発見して英国系の憲法に学びつつ発展させて明文化したものが明治憲法であるということができよう。明治憲法にはもちろん条文上も主権は排除されている。そして天皇は明治憲法の運用においては英国型の国王と同じく、君臨すれども統治せずの地位に徹したのであった。それが日本の伝統(すなわち<法>)であったからだ。「天皇主権」は、当時の右の左翼の国家社会主義勢力や共産主義勢力の嘘プロパガンダである。私たち日本国民は明治憲法や皇室典範等によって<法>を知っている。それを保守し、<法>の発見や学習が不十分であったり不適切であったところは改良しつつ発展させていくことが求められている。
 

 


  <法>の支配という英米系の憲法原理においては、<法>が主権者となるから、憲法から国民主権は否定され排除される。現在の日本国憲法は第1条に国民主権があることで明らかなように、<法>の支配の憲法ではない。1条は<法>に違反していて無効である。削除しなくてはならない。国会を国権の最高機関とする41条も<法>に違反していて無効である。違憲立法審査権を持つ裁判所の方が上位にあることは明白であるからだ。男女は本質的に不平等であるから(<法>)、「両性の本質的平等」を謳う24条2項も無効である。米国でも英国でも国家と宗教との結びつきは濃厚である。日本でもそうだ。皇室の祭祀と儀式でも明らかである。従って憲法20条3項なども<法>に違反していて無効である。日本国憲法は<法>を発見して明文化したものでなくてはならない。そうでない条文は単なる<法>に反している無効の法律に過ぎない。私たちは<法>の支配を守っていかなくてはならない。<法>に基づく政治、裁判を実行しなくてはならないのである。 

 憲法9条は1946年8月の芦田均氏の修正により、自衛のために軍を保有できるようになったのである。連合国の全てが認めていたことである。歴代内閣の 9条解釈は「改釈」であり、<法>を否定した反国家的犯罪である。もちろん無効だ。裁判所はそのように判決する<法>的責務があるのにしてこなかった。裁判所も<法>に違反してきた。憲法9条問題は、国防という国家機関と国民の最高の<法>的義務・権利の問題である。内閣総理大臣が主導権を発揮して閣議で、「従来の解釈は誤りであった。<法>と9条に違反していた。9条は自衛のための国防軍の保有を認めている。自衛隊は軍隊である。従って日本国家の個別的および集団的自衛権は完全であり米国等と同等である」と決定し、裁判所が正しいと判決すれば、すぐに解決することである。あるいは裁判所が先行して判決を出せばよいことである。これは保身を排し政治生命を賭してやらなければならない<法>的義務である。国民は主権者ではない。国民の意思を問う必要など全くない。<法>が要求することを、政府も裁判所も議会も国民も実行しなければならないのである。「憲法改正」の方法では、改悪の結果になるだけである。 


 中川八洋氏は『国民の憲法改正』(2004年刊)で、「日本国憲法(中川草案)」を提起している。読者の方々には是非一読して頂きたいと思う。中川氏について少し書いておきたいことがある。私は氏の主張は、全体主義侵略国家のロシア、中国、北朝鮮およびその尖兵の左翼の侵略から、自由ある祖国を守り抜き永続させていく上で不可欠の重要な思想的武器になるものだと考えている。だから、これまでにも氏の主張を紹介してきた。私は氏の著書から多くを学び吸収してきた。この文もそれがなければ書けないものである。氏は天才だろう。しかしなぜ氏の主張は拡大していかないのだろうか。氏の性格的な問題も一因にはなっているのだろう。氏の文章の表現にそれを感じることもある。私はそういう点は批判的にとらえてきた。ただ氏の該博な知識や思想・理論は氏の姿勢・表現の問題から区別して摂取していくことができるものである。そして知識や思想・理論は公表されたときから、他の人々によって共有され加工されてその人のものになっていく性質のものである。
(2007年9月10日付戦略情報研究所「おほやけ」147号掲載)
  






第3節 <法>の支配は非核3原則を否定し、拉致解決を命じる

 非核3原則、核廃絶は左翼のスローガンだが、日本では「保守」を自称する自民党政府も唱えている。この8月も、安倍首相はヒロシマ、ナガサキの「左翼の反核集会」に出席して非核3原則、核廃絶を主張したのであった。この反核集会は反米集会(米国の核)でもある。ソ連=ロシア、中国、北朝鮮の尖兵であるヒロシマ、ナガサキの左翼の反米・反核集会に、米国の同盟国で核の傘の提供を受け、それを国家安全保障の柱にしている日本の首相が毎年参加するという無惨な現実が続いている。日本政府自らが反国防、反国家の行動をとっている。米国からも他の西側諸国からも不審を抱かれて当然すぎる行動である。日本の自称保守派には保守主義は欠如している。最初にヒロシマの反米・反核集会に出席して非核3原則を主張した首相は1983年の中曽根である。

 日本政府が毎年ヒロシマ、ナガサキの集会に出席して非核3原則、核廃絶を唱えるのは「国民主権」と「法治主義」と保身のためである。国民主権・法治主義と言ったのは、1972年に当時の佐藤栄作首相が、主権者たる国民の信託を受けた与党の自民党総裁・内閣総理大臣として、つまり主権者の代表として非核3 原則(閣議決定)を日本政府の立場にしたことを指す。主権者の代表が決めたことは正しく、全てを支配するというわけである。これが今日の日本の法治主義である。安倍首相も前例踏襲主義で、これに従っているのだ。その当時の日本国民は、共産主義で反日米国家のソ連と中国の核武装の現実を前にして、約半数は日本の核武装を支持していた。だが佐藤の非核3原則によって、核武装推進派は劇的に少数派に転落していくことになったのであった。日本は核武装して日米核同盟によってでしか、ロシア、中国、北朝鮮から日本の安全と独立を守り抜いていけないから、非核3原則、核廃絶は<法>と本来の憲法9条と98条に違反していて無効である。憲法98条1項は、憲法は国の最高法規であり、その条規に反する法律、命令、詔勅、国務に関するその他の行為(非核3原則の閣議決定)は無効であると明記しているのである。98条は真正の<法>である。<法>の支配を謳ったものだと言いうる。憲法1条の国民主権こそが間違いなのである。無効である。だが佐藤は主権者の代表として98条の方を否定した。 



 保身というのは、核武装推進を政策化しようとすれば、左翼マスコミが洗脳によって作り上げる(デッチ上げる)世論によって攻撃されて自分の地位が危うくなるのでそれを回避することを指す。歴代内閣が非核3原則を唱えようとも、誤っているものが正しいものに変化するわけではない。


 ヒロシマ、ナガサキの平和宣言は、「被爆者の心は非核3原則堅持、核廃絶である」と強弁するが、これは役所・被爆者団体・支援団体を牛耳る一部の左翼が作り上げた宣言でしかない。声なき被爆者の多数派の心は、日本は被爆国であるからこそ再び原水爆に遭わないようにするために核武装する絶対的な権利があるというものであるはずだ。対ロ・対中・対北朝鮮抑止力としての日本の核武装である。だがロシア・中国・北朝鮮の尖兵である本物の左翼は、日本の核武装を阻止してそれらの全体主義侵略国の核で再び日本を威嚇し、場合によっては投下させて日本を征服させようと狙っているのである。他の左翼は本物の左翼に巧みに利用されている。「核廃絶」のスローガンは、西側自由主義国には多大な拘束的な影響力を及ぼすが、全体主義国は一切拘束されない。つまりそれは全体主義侵略国の核絶対優位や独占を推進するための左翼の謀略スローガンなのである。最近のキッシンジャー(隠れ共産主義者)も唱えている。
 




 ヒロシマ、ナガサキの平和宣言は、反平和・反日米・反被爆者宣言である。左翼用語は反対語、転倒語が特徴である。彼らは主観はどうであれ客観的にはロシア、中国、北朝鮮の尖兵であり、国内における侵略勢力である。首相は出席を拒否し、かつ同集会を非難する責務がある。良識ある日本国民であれば、日本の安全と永続のための日米核同盟を考える。自由主義国の核兵器こそは自由ある平和の最大の武器であるからだ。自民党や一部の民主党の自称「保守派」、官僚、「保守言論界」、国民に<法>の支配の思想が欠如しており、国民主権と法治主義に堕してしまっているからこそ、日本の政治は左翼マスコミが洗脳によって作り上げる世論にも支配されて、反国防、反国家的な政治になってしまっているのである。このまま時間が経過すれば、日本は中国、ロシアに確実に征服されてしまうことになる。根本的に改革していかなくてはならないのである。


 拉致問題でもそうである。拉致被害者の大半は北朝鮮の特殊工作員が日本領土に侵入して連れ去った人々である。北朝鮮による日本の主権侵害であり侵略行動であって、当然憲法9条の自衛の軍事力の発動の事態である。ヨーロッパで拉致された人々も、国際法は主権国家に「在外邦人の保護」のための軍事力行使を認めているし、憲法98条2項は国際法規の遵守を命じているから、これまた自衛隊を投入してでも奪還する事態である。拉致被害者全員を救出し、北朝鮮に謝罪させ賠償させるのは、<法>が命じる日本政府の義務である。先の引用で分かるように憲法98条1項は不作為を許さない。しかし<法>の支配の思想がない政府や議会は、1条の国民主権に依拠して9条や98条2項そして98条1項を無視してきた。武力を行使して拉致被害者を救出することを放棄してきた。政府や議会の言う法治主義とは、都合の悪いときには憲法条文をも平気で無視する立場を意味しているのである。難しい問題では常にそうしてきた。政府と議会は昨年まで北朝鮮に対して経済制裁を科すことすら放棄してきたのであった。もちろんこういうときには左翼マスコミは政府を攻撃しない。もし保守マスコミが大々的に政府・与党を攻撃すれば政府・与党ももっと早く重い腰を上げただろうが、日本の保守マスコミ・保守言論の主流は政府・与党の批判勢力たり得ていない。




 昨年になって経済制裁が発動された。国民の運動の成果であるが、しかし安倍政権にしても拉致問題に真剣に取り組んでいるのではない。そのことは目撃供述等によって拉致の事実が明瞭であっても、政府は警察と共謀して拉致認定しないことで明らかである。つまり安倍政権も拉致被害者全員を救出する意志を持っていないのである。できるだけ少なく認定した方が拉致問題を「解決」しやすいし、次の日朝国交正常化へも早くつなげていけるという、許されない政治的打算が土台にあることが分かる。政府が認定しなかった人々は北朝鮮で死んでもらう、認定者でも北が「死亡した」と言っている人々も死んでもらうということなのである。国交が回復すれば、金正日は困った存在になる拉致被害者は殺害して存在を消してしまうからだ。断じて国交を回復してはならないのである。


 私は小泉政権時代の安倍氏の言葉に期待をかけ文にも書いたことがあったが裏切られた。安倍政権も政権の維持のために拉致問題に取り組んでいるのであって、拉致被害者を全員救出するためにそうしているのではないのである。領土侵犯と国民の多数の拉致という北朝鮮の侵略行動を断じて許さないという、主権国家の名誉を賭けた断固たる意志と思想に基づいてやっているのではない。<法>的義務としてやっているのではない。それゆえ政府が作成したテレビCMや DVDにも「政府は一生懸命やっている。拉致は許せない」と言うだけで、「拉致問題について情報を持っている人は出してほしい」という呼びかけは一言も入っていないのである。私はこれらを見られないが、特定失踪者問題調査会代表の荒木和博氏に手紙で教えていただいたことである(氏の『諸君!』6月号論文参照)。氏から送付いただいた政府の拉致問題に関する「国会答弁書」(6月15日付)も、誠意のかけらもない官僚の冷たい作文であった。安倍首相は自分の言葉で答弁することすらしていない。



 昨年10月北朝鮮が核実験をした時、安倍首相は直ちに「日本政府は非核3原則を堅持する」との声明を出した。この一事で拉致もノドンも核も米国を当てにする日本政府の姿勢が鮮明である。これらは全て日本が対象である。日本こそが主導して解決するのだとの強固な意志があれば、自ずと現状を打破していく政策が出てくる。「地政学が要求する日米核同盟」という拙文で書いたが、日本の首相はこの時、「北朝鮮は拉致被害者全員を直ちに解放せよ。ノドンミサイルと製造工場と核兵器と核関連施設を全て破壊せよ。さもなければ日本政府は非核3原則を閣議で廃棄し、NPT条約を脱退し、そして米国から核巡航ミサイルを緊急輸入して配備する」との声明を出し、具体的に行動を前進させていくべきであったのだ。そうすれば、日本の核武装を阻止したい中共が金正日に圧力をかけ全拉致被害者が解放された可能性は大きい。誰を首相、大臣、政治家、官僚にするかは決定的に重要である。
(2007年8月27日記・10月9日付戦略情報研究所「おほやけ」149号掲載)
 







第4節 国民主権を否定し<法>主権の確立を


 目を覆いたくなる日本の現状が何ゆえにもたらされているかは明らかだ。<法>の支配の欠如である。これを核とする正しい哲学や思想(保守主義)の欠如である。<法>の支配=<法>主権がなく、国民主権と法治主義だからこそ現在の日本になっている。これらのために、日本国民は偉大な国民に成長していくことができず、左翼は増殖する。両者の影響で、頭はいいかもしれないが正統な哲学や思想を学んでいない、統治者としての資格を欠いた人々が、政治家、官僚、裁判官になっていく。彼らは国家権力を私物化することになる。こうして堕落した統治がなされているわけである。このような政治は左翼やリベラルを増殖させるから、彼らを援助している政治と言うこともできる。国民年金の杜撰な管理や政治と金の問題が典型的である。そのために先の参議院選挙では、日本の国防など全くできず、国際社会における日本の信頼性を貶める外交政策しか主張できない左翼的(リベラル)な民主党を大躍進させることになってしまった。


 政治家や官僚は口を開けば「日本国憲法の原則のひとつは国民主権である」と言うが、「国民主権」は現在の彼らの地位と名声と利権を守る上でまことに好都合なのである。政治家は「我々は主権者たる国民の信託により政治をしている」と言うが、本心では国民を主権者と思っていない。「国民の代表である政治家こそが主権者だ。我々こそが国民だ」と思っているのである。一般国民を一段も二段も下に見て「先生、先生」と崇められるのを当然だと考えている。人格高潔な政治家は極めて少数派だ。官僚は「政治家の顔を立てるが、実質的に政策をつくり法律を作る官僚こそが真の主権者だ」と腹の中では思っている。政治家、官僚は口先では「憲法は国の最高法規である。憲法遵守の義務がある」と言うものの、平然と憲法を無視する。その論理は「憲法は国民主権を定めている。国民代表の我々こそが主権者ということだ。我々が決めた政策、法律、命令、閣議決定等がすべてを支配する」というものであろう。ここでの法治主義は<法>と正しい憲法条文を無視、否定するものである。 




 こうして彼らは国家権力を私物化して、<法>が命じる国益を守る政治や抽象的な言い方になるが国民全体の利益を守る政治を行わず、恣意的な政治を展開していくのである。官僚の特徴は前例踏襲主義、出世主義、縦割りの縄張り主義、そして無責任体質、隠蔽体質である。官僚主導政治が正しい政治になるわけはない。<法>と本来の憲法9条に反する9条「解釈」、それに基づく「専守防衛政策」も、非核3原則も前例踏襲主義によって死守されていく。これを違えれば出世は絶たれてしまうというわけである。官僚を支配しなければならない政治家も同様である。こうして私益、党益、省庁益に基づく低レベルの政治が、国益、国民益と詐称されて展開されていくのである。


 「公(おおやけ)」の意識を持っている政治家、官僚は一体どれ位いるのであろうか。一流企業に入り高給と社会的名声を得ることは民間人においては正当な私的利益の追求であるが、政治が好きだということから民間人と同じ次元の意識で、しかも権力欲も加わって政治家や官僚になっていく者がほとんどではないのか。非左翼のことである。左翼は別の目的を持っている。国益と国民のために私益を捨てて自己犠牲的に奮闘する人はまことに希少であろう。
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 <法>の支配の思想が広く国民に共有されていればこのようなことは無くなる。政治家や官僚や裁判官になるのは、<法>が命じる偉大な仕事をするためである。その仕事は祖国と国民のため、また国際秩序維持のためのものだ。<法>に基づく権限を行使することは、権利というより本質的に<法>的な義務である。立派な正義の政治や裁判を実行して当たり前であり、しないことは許されない。また意欲はあっても能力不足でその仕事ができない人は資格に欠けるのであり、その地位に就くことはできないということになる。更迭される。これが国民の意識になる。政治家、官僚、裁判官になるということは重い<法>的責務を負うことなのだ。



 今日の日本には<法>の支配の思想はない。国民主権なる誤ったイデオロギーがはびこっている。私たちはこれを否定して<法>の支配を確立していかなくてはならない。喫緊の課題である。国防を考えてみれば分かるだろう。<法>の支配があれば日本は核武装して日米核同盟へと同盟関係を発展させて祖国の安全と永続を守っていくことができる。もし日米核同盟を構築できない場合には、日本は2020年代には中国とロシアに征服され人口の10パーセントは殺害されてしまうことになるのだ。中国とロシアは核兵器を使用しない兵器として多大な努力を払って配備しているのではない。


 主権者とは、誰にも支配されない最高の権力を持つ者のことをいう。従って「国民主権」とはそもそも論理的に矛盾しており詭弁である。主権者である国民が政府から統治を受けることは論理的に成り立たない。誰でも分かるであろう。「国民主権」は現実には、政府、議会、裁判所という統治を担う者たちに、「我々こそが国民の信託を受けた主権者だ」という誤った意識を持たせることになっている。彼らは「主権者」として、最高法規の憲法(ここには<法>も多くある)を無視した法治主義で政治や裁判を行っていくのである。<法>に基づく統治がなされないのであるから、祖国と国民こそがその悪影響を受けることになる。「国民主権」とは国民の利益の否定なのである。 


 左翼は「国民主権」を「人民主権」の意味で利用している。本物の左翼は「共産党主権」の正体を隠して「人民主権」の意味で「国民主権」を利用して戦っている。拙文「正しい思想が獲得できていない保守派」に関連することを書いたので一読していただけたら幸いである。 




 全体主義国家には主権者が存在するが(共産党とか)、文明国家には主権者は存在しないのである。私たちは誤った危険なイデオロギーである「国民主権」を徹底的に解体しなくてはならない。そして<法>の支配=<法>主権を確立していくのである。立憲主義とは、すなわち<法>を発見して正しい憲法を制定することとは、「<法>→憲法」がすべてを支配するということである。正しい憲法では「国民主権」は否定されて排除される。日本国憲法の前文と第1条の「国民主権」は無効であり、排除されなくてはならないのである。


 日本国憲法第3条「国民の権利及び義務」は、国民の自由・権利を定めており、従って日本を自由主義国だと定めている。だから国民の自由・権利を破壊し国民の財産を奪うことをめざす共産主義などの全体主義勢力は違憲存在だと定めているのである。戦前昭和期の「右の左翼」である国家社会主義勢力もこれに入る。サダム・フセインのイラクも国家社会主義であった。日本の憲法学者が左翼を違憲存在だと批判しないのは、憲法学者のほとんどが左翼やそのシンパであるからだ。彼らは「護憲」を主張し、反憲法条文である第1条の「国民主権」を利用して日本国憲法を破壊しようとしている。左翼用語は反対語である。しかし保守派は憲法学者ら左翼を批判しえない。保守派は、戦前の「右翼」と間違って呼称されている右の左翼の国家社会主義勢力も批判しえない。むしろ保守系の中に紛れ込んでいる戦前を肯定する「右翼」の主張に大きく影響されてしまっている。これらは保守派に、<法>の支配を核とする正しい保守主義の思想が欠如しているからである。
 



 <法>の支配こそが、自由な祖国を発展させ、国民の権利と自由を保障して国民をして偉大な国民へと成長させていくものである。<法>の支配が否定されると、日本は正常なる発展を阻害され、歪められ、破壊され、最悪の場合には国の防衛ができなくなって中国やロシアに征服されることになる。または左右の全体主義勢力に国家権力を簒奪されることになる。これは内部からの侵略であり自由な祖国の死と同じである。左の左翼が支配すれば次には中国やロシアが入ってきて征服されることになる。




 <法>の支配が否定されるとき、日本国民は偉大な国民に成長していくことができない。第一に立派な教育が実施されない。そして現実の低級な、堕落した、反国家的な政治、行政、裁判によっても国民は誤った教育を日々されることになる。日本の安全と存続のためには核武装に基づく日米同盟の発展が絶対不可欠なのに、それを決断していくことができない政治、そればかりか日本の征服を目標にしている中国、ロシアを脅威ではないとして独裁国家との友好や戦略的互恵関係を唱えて敵国の味方をする政治、国土を侵犯されて多くの国民を拉致されたのに武力行使の姿勢すら見せない政治が、国民に愛国心や正邪を峻別する正義心や道徳心、あるいは自由の価値を正しく教育することができるだろうか。その逆を教育することになる。
 



 私たちは、政府をコントロールできない「お上」ととらえて従順に従ったり、政府に不満や批判を抱いても仕方ないと諦めたり、他方では左右の全体主義として反体制・反日へ走ってしまうことがないように、国民を教育によって偉大な国民へと成長させていかなくてはならないのである。しかしそんな思想的な教育は家庭でも学校でも社会でも全くなされていない。日本人には「自分の思想を持ち自分の考えをしっかりと主張できなくてはならない」という観念すら希薄だ。そういう誤った教育政策、教育行政がずっとなされてきたのである。<法>の支配に基づく政治ではない恣意的な政治をする者たちにとっては、国民は政治的には愚かであった方が都合がよいからだ。

 学校教育と家庭教育そして社会教育で「<法>→憲法→法律」という<法>の支配=<法>主権の<法>思想を徹底的に国民に教えていく。「国民主権」が誤りで危険なイデオロギーであることを教えていく。<法>によって国家権力を制限し国家権力の暴走を阻止し、国民の自由・権利を保障していくのである。<法>の支配とはそういうものであることを教えていく。<法>の具体的な内容、たとえば国防や国内の法道徳秩序の維持や国際法の遵守などを教えていく。日本国家の統治を担う者たちは<法>に支配されて統治を行わねばならず、それは権利というより<法>的責務であること、この重い責務を果たさず恣意的な統治をしたり、能力不足で仕事をよくなしえない人は、更迭されることを教えていく。国民は統治者に対する信頼だけでなく常にチェックと批判を忘れてはならないことを教えていく。
 


 日本をとりまく政治地理を教えていく。隣国に全体主義侵略国の核超大国のロシアと核大国の中国、核武装した北朝鮮がいること、従って日本は核武装して日米台湾NATO同盟や日米台湾インドNATO同盟というような自由主義国との同盟による対中露包囲戦略によってでしか国の安全と独立を守れないことを教えていく。共産主義勢力のスローガン用語の特殊性(反対語)と彼らの運動の目標、それは共産党独裁支配(自由な祖国の死と同義)や中国やロシアを導き入れての日本征服になることを教え、共産主義勢力は違憲存在であることを教えていく。自由主義と全体主義の戦いは永遠に続くこと、自由ある平和は不断の政治的・外交的・軍事的努力によってのみ維持されるものであることを教えていくのである。日本国民はこうした教育と自己学習と実践によって偉大な国民に成長していき得るであろう。日本国家は偉大な国家に発展していき得るだろう。


 <法>の支配の確立、<法>主権の確立を目指す国民運動に対しては、国民主権に依拠している現在の政治家、官僚等の多くからも猛烈な反対が展開されることは必至である。なぜなら彼らは現状から政治権力と名声と経済的利益を得ているからだ。こうした利害を背景に持つからこそ、国民主権を盾にした反対は強力なものになる。しかし私たちは既に、上述した憲法98条1項や99条(憲法遵守の義務)という<法>的武器も有している。私たちは真の保守主義を志向する人々が主導する形で、反対する勢力を正しい<法>思想・政治思想によって徹底的に論破して、<法>の支配=<法>主権を確立する国民運動を強力に推進していかなくてはならないのである。


(2007年8月29日記。第4節の掲載は2008年6月7日、これにあわせて3節までも一部を直しました。さらに2008年7月6日一部誤字を訂正しました) 
 

 









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