ねずきちさんのお話は素晴らしい | 日本人の進路

日本人の進路

左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

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ねずきちさんのお話は素晴らしい


ねずきちさんの日本人の実話には、いつも感動させられています。
一度はねずきちさんのお話を私のブログにも載せてみたいと思っていたので転載してみようと思います。
私の自己満足かもしれませんがお許しを。


ねずきちさんのブログをよく読まれている方はスルーしてください。










ねずきちのひとりごとより

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日本人はとても素敵だった



楊素秋 (ヨウソシュウ)さんという方がいます。
日本名を、弘山喜美子さんとおっしゃいます。
昭和7(1932)年のお生まれの方で、ご出身は、日本統治下の台湾、台南市です。

台南師範学校附属国民小学校、長栄女学校(中学、高校)を卒業しました。
彼女は、日本をこよなく愛した父の影響で、日本人と自覚して育ちました。
今も、思考する時も、寝言も日本語だそうです。

「日本と台湾の架け橋の釘1本となりたい」と、貿易や、通訳、日本語教師など、多方面で活躍され、金美齢さんや、西村幸祐さんとも親しい方です。






この方が書かれた本に、「日本人はとても素敵だった」(桜の花出版)という本があります。
自分たちは日本人だと信じていた“台湾人”の楊さんが、「生活者」としての目で大日本帝国を語った本です。

前にも二度ほどご紹介したことがあるのですが、この時期だからこそ、もう一度、あらためてご紹介したいと思います。

とかく戦前の日本は、軍国主義の悪い国だった、侵略国家だったと言われています。
その侵略された側の生活者の目線での日本統治時代というものがどのようなものであったか。

是非、ご一読いただきたいと思います。



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【はじめに】

世界で最も美しく素晴らしい日本に住んでいる皆様は、自分がこの国に生まれ、この国に住んでいる幸せと喜びを先祖に感謝し、無形の神様に畏敬の念を表すことはないでしょうか。


おびただしい星が存在する宇宙の中で、たった一つだけ生物が″生″を営んでいる地球に、私たちは人類の一分子として、多くの異なる国と皮膚の色の違った人種と共存し、生命を継承してきました。

そして、凡そその人間と称する者は、自分が生を受けて生まれ育ったその土地を母国と認識し、己が母国を愛し、土地を愛し、母なる国、土地を守ろうとする天性を備えています。


特に皆様は、世界七大強国の一つである、日本国に生まれ育った日本人ですが、日本人に生まれてきた喜びと誇りを持ち、生まれ育った土地、母なる国に感謝したことがあるでしょうか。



人間と称する動物は、往々にして大変我が侭且つ贅沢な者です。
最高の幸せの中に置かれても満足を知らずに、日々の生活の中にせっせと不満の元を拾い集め、塊にして他人に投げ付ける者も多いようです。

全ては国が悪い、他人が悪い、自分がこうなったのは他の人が悪いのだ…、というような″福の内にありて福知らず″の人間に、では君は悪いと決めつけた相手よりどれぐらい素晴らしい?と尋ねたら、どう返事をするのか興味深いものです。


しかしこんな人間が、私たち台湾に生まれ住んだ人間のように、ある日ある時、今日から日本人でないと言われたら、まごつかないでしょうか。

国籍を失った人間となり、見知らぬ所から侵入してきた外来政府に、君たちは中国人になったんだと言われたら、今まで不平不満の塊で文句ばかり並べてきた社会の反逆児は、先ずどう考えるでしょうか?





国籍を無くした人間の惨めさを知らない人たちは、「わぁ、万歳だ」と手を叩いて喜ぶでしょうか?

昭和二十年の八月十五日、日本が第二次世界大戦、つまり大東亜戦争に敗れた年、私たちが住んでいる台湾は、今まで祖国と言ってきた日本国から切り離され、選択の余地無しに中国人にさせられてしまいました。

君たちの祖国はこっちだよと言葉に蜜つけて侵入してきた外来政府は、実に天使の面を被った悪魔でした。

国籍を失った台湾人は、それから中国人となり、そして中国籍になったその時から、悲惨を極める奈落の底に落とされ、イバラの道に追い込まれてしまいました。



外来政府は、謀反を起こしたという烙印を押し、四十年もの長い年月にわたり″戒厳令″という名目で殺戮を繰り返したのです。

台湾全土の人民を震撼させたあの忌まわしい二・二八事件で殺された人の数は、当時の政府の圧力により報道されていません。

学生、若者、医者、学識ある者、特に財産を有する者など、死者は三万人にも上ると言われていますが、確実な数字は今でも分からないそうです。




因みに当時の台湾の人口は、六百万人でした。

戦争で死んだというなら、国のため、国民のため、とある程度納得ができましょう。


しかし、口では「我が同胞」と呼びかけ、国の柱として未来を担う有能な若者、学生に、謀反の罪を着せ銃で撃ち殺してしまうとは、あまりにも惨いことです。

六百万人の台湾人は、国籍の無きが故に父親、兄弟、夫、親友を殺されてしまいました。

殺された肉親を目にしても涙を流すことすら許されなかったのです。



今の日本の若者は、他国から統治されたことがなく、裕福で平和な国土で、幸せという座布団にあぐらをかいて過ごしてきたため、これが当たり前だと思っているのではないでしょうか。

でも、幸せは大切にしなければいけません。

なぜなら幸せは、国が立派であって初めて得ることが出来るものだからです。
国が立派でも、国民の一人一人が立派でなければ、いずれ国は滅びてしまいます。




ですから、若い人たちに呼びかけたいのです。

日本の若者よ、背筋をシャンとしてお立ちなさい。
そして自信と誇りをもって前に進みなさい!

私は日本を心の故郷と思っています。
そして台湾を愛するのと同じように、心から、祖国・日本に栄えあれと念じています。

一世紀の四分の三に手が届こうとしているおばあちゃんの私は、人生行路の最終駅にたどり着く前に、日本の若者が強く大きく大地に立ち、自信一杯、誇り一杯で、お国をリードし、世界の平和を守る姿を見たいと願っております。

私はいつも心の中で叫んでいます。

私を生み育てた二つの母国よ、共に栄えあれ!

平成十五年十一月九日        
蓬莱島にて 楊 素秋


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第一章 命の恩人は日本人

【大東亜戦争末期の台南】

大東亜戦争、いわゆる太平洋戦争の末期、ここ台湾でも空襲がひどくなり、私は生まれ故郷の台南を離れ、家族と共に大社村という母方の祖母の田舎に移り住んでいました。

昭和二十年の春、私は台南第一高等女学校(四年制の旧制中学)の入学試験を受けるために、疎開先から台南に戻らなければなりませんでした。
その運命の日を、私は今まで片時も忘れたことはありません。

大社村から台南市に行くには、当時は台湾の南北をつなぐ縦貫鉄道か、または局営のバスを利用するのが普通でした。

戦時中はいつ何時、警報が鳴り、空襲が始まるのか全く予測が出来ず、汽車もバスも定刻通りに到着、発車が出来ないことがよくありましたが、それについて皆愚痴をこぼすこともありませんでした。

台湾の南北に広がる西部平原の当時の風景といえば、畑に続く畑や、地平線に届かんばかりに広がる田んぼ、その中に、農家がぽつんぽつんと点在しているというものでした。

その平原の中央を縦貫道路という一本の大きな道が、平原を東西に切り分けるように走り、台湾の南端の都市、高雄市から州と州(現在の県)、都市と都市、町と町を数珠をつなぐ糸のようにつなぎ合わせて、北端の基隆市に伸びていました。


そして、その道を局営バスが北から南、南から北へと走り、人々を運んでいたのです。

かつては田舎の乗り物といえば、人の力を借りる「かご」か、暑い日射しの中を砂ぼこりにまみれながらのろのろと牛に引かれて進む「牛車」と決まっていましたが、この縦貫鉄道や縦貫道路のバスがそれに代わるようになり、やがて、生活に欠くことの出来ない交通機関として一般庶民に親しまれるようになりました。

私は戦争の始まる前に初めて、祖母と一緒にこの局営バスに乗りました。

汽車よりはるかに遅く、揺れも激しかったことをよく覚えています。
特に、でこぼこ道になると、車が跳ねる度に私は木製の椅子から飛び上がり、そしてドスンと椅子に落ちるのでした。


ですからでこぼこ道にさしかかると、「さあ大変」と、テレビで見た西部劇の暴れ馬の調教師みたいな格好で、しっかりと両手で前の椅子を掴んで、跳ね落とされないよう気を付けなければなりませんでした。

私たちの向かい側の椅子に座っていたおじさんは、腕組みをして足を前に投げ出し、口をあんぐり開けてずっと眠りこけていたのですが、不思議なことにでこぼこ道にさしかかると、目を覚まして座り直し、椅子から落ちたりしないのです。

大きな荷物を抱えて後部の座席を占領していた農婦らしき女性たちも、乗客全員に聞かせるような南部なまりのキイキイ声で絶え間なく話し続けていましたが、揺れが始まると慌てて前の椅子を掴んで席から振り落とされまいとしていました。

そして揺れが収まると、再び陽気な声で左右の客と語り笑うのでした。


こうして、向かい合った席が二列に並ぶバスの中は、でこぼこ道に入る度に、目を覚ました人も加わって、雑談と笑いの渦を巻き起こすのでした。

局営バスは、田舎に住む人たちにとっては憩いの場所であり、消息を伝え合う交流の場でもありました。

料金も安く、その上、村に入れば、停留所以外の場所でも乗客が「停車して下さい!」とか「ここで降ろして頂戴」と言えば、どこでも降ろしてもらえるというのも魅力でした。






【心細かった受験旅行】

疎開していた大社町の近くの路竹駅から汽車に乗れば、台南市まで平常時で四十五分、近所の停留所から局営バスに乗れば一時間十分程かかりました。

受験のために小学校六年生の私が台南市へバスで行くことに、父は真っ向から反対しました。

「誰かが付いていなければ遠くに行けないような女の子が、戦時下にバスで台南に行くなんて危険だ」と言うのです。

つい数日前、叔父の田んぼを借りている小作人が、祖母に「お婆さんの故郷の太湖で、空襲に遭ったバスが転覆して、乗っていた中学生が頭を打って即死したよ」と話していたばかりです。

どうしても汽車で行くようにと父が言うので、仕方なくそれに従うことになり、楽しい思い出が沢山詰まったバスで行くことはあきらめました。


出発日の早朝、私は受験に必要な物や教科書をリュックサックに詰めました。

それとは別に、前夜、菜っぱ色に染めた母の手製の木綿の袋二つに、三日分の米と野菜を均等に分けて入れておきました。

それを両手に提げてリュックサックを背負い、路竹駅に向かったのです。

路竹駅は大社村の隣の路竹村にあり、村と村との境界線上を鉄道の線路が走っていました。

駅から一本街道を挟んで向かい側にある商店街は、近隣の取引の中心でした。
村の真ん中辺りに、当時まだ珍しい四階建てのビルがありました。
その町で唯一のビルで、遠くからでもよく見え、村のシンボルになっていました。


これは育生病院といって、地方の名医であり公医でもあった母の実弟、つまり私の叔父が経営していたものでした。

祖母の家から路竹駅へ行くのに、歩きやすい道を選べばどうしても遠回りになりました。

近道をしたければ、途中から田んぼのあぜ道を通って行かなければなりませんが、それは、私にとっては一つの冒険でした。

祖母の家から路竹駅までの耕地の大部分は、叔父とその兄弟たちの所有地だったそうです。

駅までの距離は子供の足で十五分はかかりました。
牛車のわだちの跡を踏んで歩いて行くと、叔父の所有している瓦を焼く窯があります。
そこから右手の遠くの方に路竹駅が見えてくるのですが、真っすぐ駅に続く道はないので、その辺りからあぜ道に入ります。


出来るだけ幅が広く歩きやすいあぜ道を歩いて行くのですが、途中からあぜ幅が突然狭くなることがあります。

というのは、あぜ道は地主や小作人達が、自分の田んぼや借り受けた田んぼと、他人の田んぼを仕切るために、土を盛り上げて作ったものなので、あぜ幅は作った人によってまちまちなのです。

大小さまざまな水田の間を不規則に区切ったあぜ道は、遠くから眺めているとパズル遊びのはめ絵の溝が頭に浮かんできます。

そのあぜ道を歩いていると、水を張った田んぼが、太陽の光を受けてキラキラと照り映えてまぶしいほどでした。


台南で生まれ育った町っ子の私には、あぜ道はとても歩きづらく、ややもすると足を滑らせて転びそうになりました。

何しろリュックサックに両手に大荷物です。
気を付けながらそろそろと歩くのですが、所々に窪みがあって、それにはまらないように飛び越えなくてはいけませんでした。

また、時々お腹を膨らませた大きなカエルが二本の足を地べたに立ててあぜ道のど真ん中に座り込んで、こっちをにらみつけて通せんぼをするのに出くわしたり、キチキチと鳴きながら羽を広げて飛んで来るイナゴに驚いて立ちすくんでしまったりと、なかなかあぜ道を抜けられません。

やっとの思いで線路わきの砂利道にたどりついて、ようやくホッと安堵の胸をなでおろしたものです。
そこから駅まではもうすぐです。

駅の中にはいると、左手に切符売り場があり、正面に改札口があります。改札口の向こうには、上下線の四本のレールに挟まれた短い露天のプラットホームがありました。


今ではもう考えられないことですが、当時、田舎の改札口には仕切りはあるものの、かぎ型の掛け金で止めているだけで、簡単に外せて構内へは自由に出入り出来ました。

しかし、こんな簡単なことでも法を破って薩摩守(薩摩守忠度=ただ乗り)を演じる人は、聞いたことがありませんでした。




これは温和な台湾人がよく規則を守るからなのか、あるいは大岡越前守のような、理と知と情によく通じ、政治政策に長けた人物が多くいたからなのでしょうか。
とにかく、日本の統治時代は安心して毎日が過ごせた時代でした。

今、戦前を振り返ってみると、正直に暮らす人々、穏やかな世の中がよみがえってきます。

昼間店先に店番がいなくても、商品を盗まれる心配はなく、買い物客は「ごめんください」と言って店先に立って、店の主が顔を見せるまで待っていたものでした。
夜は戸に鍵を掛けなくても、安心して眠りにつくことが出来ました。

当時の台湾は、時間の流れが緩やかで、皆が平和に暮らす楽土であり、宝島でした。
しかし、戦争が始まると徐々に事情は変わっていきました。






【空襲で遅れた汽車】

さて、私は台南までの切符を買い、駅の待合室で汽車を待っていたのですが、待てど暮らせど、汽車はやって来ません。

一時間待ち、そして更に一時間が過ぎました。遅れにしてはあまりにも長すぎると、ちょっと心配になってきました。
しかし、同じ汽車に乗る人が大勢いるので、とにかく黙って待つことにしました。

その時、駅員のおじさんが待合室に顔を出して、汽車を待っている顔見知りの人に小声で話しかけました。
待合室の人たちは皆その話に耳を澄ませました。


それによると、汽車は定刻に高雄駅を出発したけれど、間もなく空襲を受けたとか、米軍の飛行機が爆弾を落として死傷者が出たとかで、汽車がかなり遅れてしまっているというのです。

台湾の南部の田舎にも、その頃から空襲の数が増えて、米軍の爆撃機のB-29や戦闘機のP-38が姿を見せるようになっていました。汽車を待つ皆の顔に不安と焦りの色が浮かびました。

しかし、長時間待たされても誰一人、愚痴や不平不満をこぼす人はありませんでした。
戦争という国難に直面した時、国民というのは危機感を覚えて、自分を主張したり我が侭を言ったりしなくなるのでしょうか。
あるいは台湾南部の人間特有の楽天的な気性で、騒いでも来ない汽車は来ないとすっかり割り切っていたのかもしれません。


普段は閑散として静かな田舎の駅は、汽車が遅れて、上り列車と下り列車の時間が重なり合ってしまったため、汽車を待つ人で溢れ返っていました。

ざわめきと人いきれで息が詰まりそうになり、私は両手に荷物を下げて待合室から外に出ました。
しかし、外も人でいっぱいでした。

目をやると、ガジュマルの木の下が割合にすいていたので、そこで、ぽつねんと立っていました。頭の中は明日の試験のことでいっぱいでした。

どのくらい経ったでしょうか、ポーと遠くで到着の合図を示す汽車の汽笛が聞こえてきて、待っていた上り線がようやく到着しました。 





【日本人将校さんとの出逢い】

木陰で改札が始まるまで待つつもりで立っていると、不意に「もし」という声がしました。
声の方に顔を向けると、濃紺に近いブルーの制服を着て、帽子をかぶった、いかにもまじめそうな日本の将校さんが目の前に立っていました。

「はい」と返事をすると、
「お手洗いに行きたいが何処だか教えてもらえませんか」と大変丁寧で綺麗な言葉遣いで話し掛けられました。

「はい、お手洗いなら、ここを真っすぐに行って突き当たりの右手にあります」と、私はお手洗いの方を指さしました。


すると、「どうもありがとう。すまないがこの包みを一寸預かってもらえませんか。大切な書類です」と言って、両手で持っていた紫色の風呂敷の包みを差し出したので、私は慌てて両手を出してそれを受け取りました。

「重要書類だから大切に持っていて下さい。そこから動かないで下さいね」と言うや否や、私の「はい」という返事も待たずに、将校さんはくるりと背を向けて大股でお手洗いの方に行ってしまいました。

包みを受けた私は「これは木箱だな」と思いました。
四角く大きな包みは見かけによらず軽いので、桐の箱だななどと推理を巡らせ、きっと大切な物に違いないからちゃんと持っていなくてはと思って、両腕に乗せられた包みを指で押さえて、身じろぎもせずに立って待っていました。


やがてその将校さんが戻って来ました。

「やあすまない、ありがとう。で、君はどこに行くの?」
「はい。台南です」
「一人で? こんなに危ない時に何をしに行くの?」
「明日女学校の入学試験があるんです」
「そうか。台南なら僕と同じ汽車だ」

そう話すと、将校さんは自分の手に戻った包みに目をやり、
「これは大変重要な書類で、今日の内に基隆に持って行かなくてはいけないのです。
しかし高雄で二時間近くも臨時停車して、なかなか動かないので心配しました。
この分では基隆に着くのは夕暮れか夜になりそうです」
とちょっと心配そうな表情をしました。


将校さんは、帽子が戦闘帽ではなかったので、普通の兵隊さんではないと思いました。
高雄から来たのだからきっと海軍か航空隊の方に違いないと思いました。
背はそんなに高くはなく、二十歳前くらいの感じでした。

やがて、汽車の給水作業が終わって改札が始まりました。
汽車の時刻が狂ったために乗客の数が膨らんで、混雑を極めていました。

私はプラットホームを右往左往して、車両のどこかに入れそうなすき間はないかと、空いている窓からのぞいてみたのですが、中は文字通りすし詰め、通路もギュウギュウ詰めでした。


デッキは尚更ひどい様子でした。
積まれた麻袋の上に何人もの人が体を寄せ合って立っていて、開いたままの戸口のステップにまで立っている人がいて、入り口の鉄棒に掴まっている人もいました。
「どうしよう」
私は心の中でそうつぶやいて、小走りに車両の中をのぞいて回りました。

すると突然、「危ないからこの列車に乗るのはやめなさい。次の列車に乗りなさい」という声がするので、そちらを見ると先の将校さんでした。
将校さんはデッキのステップに足を載せ鉄棒に掴まって立っていました。

でも、二、三時間待ってやっと来た列車です。次の列車はいつ来るか分からないのです。
「試験に間に合わなかったらどうしよう」と、明日の試験のことで頭の中がいっぱいだった私は、危険を考える余裕がありませんでした。

「明日の試験に間に合わない」と声に出すと、急に悲しさが込み上げて来て、それ以上言葉が出なくなり、涙が頬をつたいました。





【鉄橋上の汽車から落下】

すると将校さんの右側で、同じように鉄棒に掴まって戸口のステップに立っていた男の人が、体を無理矢理に中に押し込んで、何とか一人分のすき間を空けてくれました。
私は急いで両手で鉄棒に掴まり、ステップの上に立ちました。

「ああ、よかった」

私はほっとして、両手に持っていた二つの木綿の袋を左腕の肘に提げました。

「大丈夫ですか?」
右手に立っていた将校さんが心配そうに聞き、「危ないから降りなさい。次の列車に乗った方が良い」と、また言うのです。

しかし、ステップの上に乗ったままの状態がどれほど危険なものか考えが及ばなかった私は、頭を横に振って下を向き、そこから動きませんでした。


それが大変な事態に発展するとは、その時は思いもしませんでした。

駅長の発車オーライの合図の笛が鳴り、列車はゆっくりと路竹駅を離れて行きました。

最初のうちはよかったのですが、揺れもひどく、外の風をまともに受けながら立っているだけで、体力はどんどん消耗してきました。

鉄棒にしがみついている手はしびれ、腕の荷物が段々と重みを増して腕に痛いほど食い込んできました。

「大丈夫ですか?」
将校さんがまた私に聞きました。


しかし、私は返事をしませんでした。
いや、返事が出来なかったのです。
荷物の重さがどんどん腕にかかってきて、重さをこらえつつ鉄棒を握るのが精一杯で、返事をする気力がありませんでした。

将校さんがそれに気づいて「その荷物を捨てなさい、早く捨てなさい」と言いました。
私は、とうとう重さにこらえ切れなくなって、荷物を提げていた左手を鉄棒から離して、荷物を捨てようと手を伸ばしました。

重さでひもが腕にくい込んでいた袋が一つ手から離れ落ち、二つ目が手から抜けた時、列車はちょうど高雄州と台南州の境を流れる二層行渓に架かった鉄橋に差しかかりました。

ゴォーッと風を切って突進する列車の轟音にハッとした私は、途端に左足をステップから外してしまいました。


「あっ!」
 
川の上の鉄橋を突進する列車のステップに、片足で立っている自分の体から力が抜けて行くように感じました。

「助けて!」と叫ぼうとしましたが、声になったかどうか分かりません。
一瞬のことでしたが、長いようでもありました。

ただ目の前が真っ暗になり、私は意識を失いました。







【名も告げずに去っていった将校さん】

何が起きたのでしょうか。

遠くで大勢の人のざわめきがし、段々と近くなってきました。
誰かが私の頬を叩いています。
手をさすったり叩いたりする人がいます。

遠くかすかに、「こらこら、目を覚まして! そのまま寝ちゃいけないよ」と言う声が聞こえるのですが、まぶたが重くて目が開きませんでした。

「気の毒にね、いたいけな子供が。顔が真っ青だよ」
「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな」

周りの会話が少しずつはっきりして来ました。


その軍人さん? あの将校さんが私を助けて下さったのだろうか。
危険だからやめるようにと言っても言うことをきかなかった私を、ずっと心配して声をかけ続けてくれたあの将校さんが。
考えようとしても、頭がぼんやりしています。

誰かが私のまぶたをつまみました。
「おかしい、変だ」と思うのですが、体がいうことを聞きません。
確か立っていたはずの私は横になっていることは分かりました。
なぜだか分かりませんが、急に悲しくなってきて、泣き始めてしまいました。


「ああよかった、涙が出てくるくらいならもう大丈夫だ」という誰か男の人の太い声を耳にしたら、再び全てが遠のいていきました。

どのくらい経ったのでしょうか。
体を揺さぶられ、「目を覚まして、もうすぐ台南に着くよ」という声に驚いて、「えっ、台南!」と辺りを見回しました。
私は知らないおばさんに抱かれてずっと眠り続けていたのでした。

「あぁ、よかった。息を吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、そのおばさんはニコニコしながら、私のオカッパの頭をなでてくれました。


「これ、あなたの切符、何処に行くのか分からなかったんでね、ポケットを探ったら切符があったので見せてもらったのよ。
はい、しっかり持っているんだよ」と、切符を上着のポケットに入れてくれました。

汽車は段々速度を落として、見覚えのあるプラットホームへ静かに滑り込んで行きました。

「たいなーん、たいなーん」

聞き慣れたアナウンスの声が聞こえ、汽車は止まりました。
台南に着くまでひざを貸してくれたおばさんや周りの人に「ありがとう」とお礼を言うと、おばさんは「気をつけてね」と言って、私を抱いて窓から外に出してくれました。

すると、窓の外にはあの将校さんが待っていて、私を抱き降ろしてくれたのです。


そして、「ほんとに大丈夫ですか?」とニコニコして言いました。

「はい、もう大丈夫です。助けていただいてありがとうございました」

「しかし、ほんとに危なかったなあ、でもよかった。けれど一人で大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。あのう…」

「え?」

「お名前を教えていただけますか?」

すると何がおかしいのか、将校さんはプッと吹き出し、
「ハハハ、子供のくせに。いいから気をつけて帰りなさい」と言い、大分空いてきた車両に乗り込みました。


そして窓から顔を出して、「気をつけて帰るんだよ!」と言って、将校さんは私に手を振りました。

爽やかな笑顔でした。

列車がゆっくりと動き出しました。
黒い煙を吐きながら、ポッポーと汽笛を鳴らし、列車は速度を増してホームから離れて行きました。

将校さんの振る手が遠く遠くなっていきます。

長い汽車の列が段々と縮んで線となり、更に線から点になった汽車が遠く遠くかすんで見えなくなるまで、私は、その場に立ちすくんでいました。

将校さんへの感謝を繰り返し、武運長久を祈りながら。



あの轟音と共に激しく揺れ動く汽車のステップで、自分の体を支え、大事な風呂敷包みを守るだけでも大変なことです。

下手をすれば自分も落ちてしまうかもしれないのに、それを顧みず気を失って落ちていく私を咄嗟に掴み、引っ張り上げて下さった将校さん。

なのに私は、充分なお礼も言えないままでした。
やはり、名前だけでも聞かせてもらえばよかったと、後でどれほど悔やんだか知れません。

生きている間に、もう一度お会いしてお礼を言いたい。

それは、私のこの五十年以上変わらぬ願いです。
この本を手にとって下さるようなご縁があれば、と望んでやみません。

紫色の風呂敷包みを持っていた将校さん、
今どこにいらっしゃいますか?


どうかこの言葉が届きますように! 私はいつも台湾から「ありがとうございました」と心に念じております!

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(以下省略)







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