自虐史観を打ち破れ(その1) | 日本人の進路

日本人の進路

左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

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自虐史観を打ち破れ(その1)




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松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」より

2010-10-28
青年日本の歌(昭和維新の歌)


学生時代、時折口ずさんでいたこの歌が
民主党政権の国を憂うる誠のない姿勢
経団連の社稷を念う心のない経営理念を
目の当たりにして、
最近すごく心に沁みるようになってきました。













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Remnant日本近代史 より


自虐史観から真実の歴史認識へ



日本を悪者とする自虐史観はもうやめよう






$日本人の進路-自虐史観001


インドのオールドデリー市街、チャンドラ・ボース公園の
「インド独立義勇軍(INA)と日本兵たち」の像(日の丸に注目)。
日本兵はインド兵と共に戦い、それがインド独立の基礎となった。









ある日本人の学校教師が、戦後、マレーシアを訪れました。

 かつて日本軍は大東亜戦争(太平洋戦争)中に残虐非道を尽くした、と思っていた彼は、マレーシアにおける日本軍の活動を調査しようと思ったのです。

 彼は、マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチックに会って言いました。
 「日本軍はマレー人を虐殺したに違いありません。その事実を調べにきました」。

 すると、ノンチック議員は驚いて言ったのです。

 「日本軍はマレー人を一人も殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。それに、日本の将兵も血を流しました」。
 そのような話が、『教科書が教えない歴史』(扶桑社文庫)という本に紹介されています。





日本軍はマレー人を一人も殺さなかった

 じつはこのノンチック議員は、かつてマレーシアの独立に半生をかけた人です。
 マレー半島は、かつて150年もの間、イギリスの植民地支配に苦しんでいました。マレー半島だけではありません。当時アジア諸国において、独立国は日本とタイだけであり、他のほとんどは欧米列強の植民地と化していたのです。

 当時、欧米列強は、アジアは白人のために資源を供給すべき国々、白人に隷属すべき国々とみなしていました。彼らはアジア諸国から収奪し、搾取を続けていたのです。

 しかし1941年、日本は真珠湾攻撃と同時に、マレー半島に進撃。イギリス軍を打ち破りました。日本軍はその後、マレーシア独立のために訓練所を造り、マレー人青少年の教育に力を注ぎました。
 訓練生と共に汗を流す日本人の姿は、マレー青年たちに大きな感銘を与えました。

 「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」
 ――そうした機運が彼らの内に育てられたのです。さらに日本政府は、南方特別留学生制度を創設。アジア諸国独立のため、指導者養成を目指しました。









$日本人の進路-自虐史観002

マレーシアのラジャー・ノンチック上院議員
「日本軍はマレー人を一人も殺していません」






 ノンチックは、その第一期生の一人でした。彼は、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちと共に、留学生として日本に派遣されます。

 日本人教官たちは留学生たちを、わが子のように厳しく優しく指導し、「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神を持つことだ」と励ましてくれたといいます。

 日本政府は食糧難の中にも、苦労して留学生の食糧まで集めました。この日本留学の経験は、ノンチックの人生を変えるものとなったのです。

 そののち1945年、日本は敗戦を迎えます。ノンチックは、そのとき決意を新たにしました。
 「日本はアジアのために戦い疲れて破れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」
 ノンチックらは、祖国独立のための戦いを続け、ついに1957年、祖国独立を果たしました。さらに、彼ら日本に来た南方特別留学生たちが中心となり、現在のASEAN(東南アジア諸国連合)が設立されたのです。

 ノンチックは、こんな詩を残しています。
「かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。アジアの国の誰にでも、自分のことのように一生懸命尽くしてくれた」。
 かつて日本軍は、東南アジアを舞台として戦いました。しかし東南アジア人を相手に戦ったのではなく、東南アジアを東南アジア人の手に取り戻すために、欧米人を相手に戦ったのです。





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日本は「とてつもなく悪い国」だったか


今日、大東亜戦争中の日本軍の「侵略」行為や、「残虐」行為が取りざたされることがあります。しかし私たちは、歴史というものを偏り見てはいけません。誰かが、
 「日本はアジア諸国を侵略した」
 と言えば、それで日本軍の行動がすべて侵略だったように思うなら、間違いです。

 現在の日本の学校で使われている歴史の教科書は、第二次世界大戦前後の日本のことを、「とてつもなく悪い国だった」と教えます。そのような教育を受けた日本人が、先のノンチックの話などを聞くと、
 「えっ、そんなことあったの?」
 「信じられない」
 と驚きます。このような日本人たちを見て、ノンチック自身、たいへん歯がゆい気持ちでいたそうです。
 私たちが教科書を通して教えられてきたことは、あまりにも一面的なものだったのではないでしょうか。



 歴史というものは、様々な出来事の積み重ねから成っています。私たちは、そうした歴史のすべてを知ることはできないでしょうが、少なくともバランスのよい理解をすることは、大切なことです。

 日本は悪いことだけをしたという考えに偏るのではなく、また、日本は全く悪くなかったというのでもなく、公平に歴史の真実を見つめる歴史観が必要です。

 戦後、タイの首相になったククリット・プラモートは、まだ自分が新聞記者だった頃に、こんな記事を書きました。

 「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。

 それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」(「12月8日」サンヤム・ラット紙)。








$日本人の進路-自虐史観003

ククリット・プラモート(タイの元・首相)
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した」






インドネシアを独立させた日本人

 欧米列強の植民地だったのは、インドネシアも同じでした。インドネシアは、じつに約350年もの間、オランダの植民地だったのです。
 オランダの行なった「愚民政策」「貧民政策」――つまりインドネシア人を愚民、貧民のままに押さえ込むという政策のもとで、インドネシア人の平均寿命は、一説によれば35歳にまで低下していました。


 それだけにインドネシア人のオランダへの反感は根強かったのです。それで人々の間で、
 「いまに北方から黄色い強者が空から降り、圧政者を追放してくれる」
 という12世紀の王、ジョボヨヨの予言が信じられるようになりました。

 ですから大東亜戦争が始まった翌年、日本軍がインドネシアに上陸すると、現地の人は日本軍を歓迎し、積極的に作戦に協力しました。彼らの目に日本軍は、自分たちを解放してくれる「北方の黄色い強者」と映ったのです。

 日本軍はオランダ軍を破り、インドネシアに軍政をしきました。しかし、その軍政は、オランダの政策とは大きく違っていました。

 それはインドネシア人の自覚を高め、独立を勝ち取らせることを目指したものだったのです。事実、日本軍は、オランダ語に代えてインドネシア語を採用し、インドネシア人を軍事訓練し、住民組織を作らせ、また行政組織の重要な仕事をインドネシア人に委譲しました。

 これらのことは、たとえば1958年発行のインドネシアの学校用歴史教科書にも、日本占領の利点として記されています。


 また日本軍は、インドネシア義勇軍(PETA)を編成。日本人が隊長となって、防衛のための様々な訓練をインドネシア人に行ないました。

 ところが、そののち日本は敗戦。インドネシア義勇軍も解散させられますが、その4万人の隊員たちは、続くインドネシア独立戦争のための主力となります。

 インドネシアは、日本敗戦の2日後の1945年8月17日に独立を宣言しました。しかし、オランダやイギリスは再びインドネシアを植民地にしようと、一方的に攻撃してきたのです。



 これがインドネシア独立戦争です。このときインドネシア独立のために、自分の意志でその戦いに参加した日本人たちが数多くいました。

 その数は、千人とも2千人とも言われます。彼らは「共に生き、共に死ぬ」(共生同死)を誓って独立戦争に参加。その多くは戦死しました。しかしこの血の犠牲を通して、インドネシアは独立を果たしたのです。

 日本の軍政に問題がなかったわけではありません。しかし、インドネシアでは独立記念日に向けての記念パレードで今もなお、インドネシア人によって日本の軍歌が誇らしげに歌われています。






フィリピン、ビルマ、インドを独立させた日本人

 一方フィリピンでは、日本人、原禎元大尉の率いる義勇隊が、フィリピン独立運動を支援。フィリピン人と共に、米国の軍隊と戦いました。

 ビルマでも、鈴木啓司大佐をはじめ、多くの日本人がビルマ人と共にビルマ独立義勇軍を編成し、独立運動を展開しました。

 インドでも、インドの独立のために援助した日本人が数多くいました。インドは1947年に独立。それまでのイギリスによる植民地支配に終止符を打ちました。

 この少し前に、インド法曹界の長老、パラバイ・デサイ博士はこう語りました。
 「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。

 インドだけではない。ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう」。


 また、東南アジア諸国独立における日本人の貢献について研究した、台湾の黄文雄(こうぶんゆう)氏もこう書いています。

 「犬養毅、頭山満をはじめ、明治維新以来、アジア各地の革命や独立運動のために自らの命や財産をかけた日本人は、数え切れないほど多い。……民族・国家を超えて献身的に尽くす日本人の精神は、世界でもまれに見る特筆すべき義侠心である」。

 このように東南アジアの人々の日本に対する思いには、中国や韓国の人々の感情とは、まさに逆のものがあります。
 とはいえ東南アジアでも、しばしば反日デモが繰り広げられることがあります。これはなぜでしょうか。
 私たちは、その反日デモをしている人間が誰なのかを、よく見きわめなければなりません。黄氏はこう述べています。
 「反日運動……を主導しているのは、華僑と、何らかの政治的意図のある日本のマスコミなのである。東南アジアの住民は基本的に親日的であり、大規模なデモになるような反日感情は持っていない」。



 東南アジアには、昔から「華僑」と呼ばれる中国人がいます。彼らは欧米列強による植民地時代には、白人と結託して現地人から搾取をしていました。

 当時、華僑は居住地の民族とは決して同化しないだけでなく、現地人を蔑視し、利益をほとんど地元に還元せず、吸い上げるばかりだったのです。

 またインドネシアなどではとくに、その商業活動は悪質で、統治者と結託し、彼らの手先となって、オランダ人よりも過酷にインドネシア人から搾取するほどでした。

 東南アジアの現地人と、華僑との間には、このようなわけで今も根強い反感と対立があります。それはこうした過去があるからなのです。

 かつて日本軍は、東南アジアから欧米人を追放するだけでなく、華僑の追放も行ないました。ですから華僑の中には、今も根強い反日感情を持っている人々が少なくありません。しかしそれは、東南アジアの現地人の感情ではないのです。









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愛国心を育てる名言 より



自虐史観から目覚めるきっかけ

日々是桜


歪んだ歴史教育によって植え付けられた自虐史観に、初めて疑問を持つようになった出来事。目覚めるきっかけ。皆さんにはどのような出来事やきっかけがあるのでしょうか。(自虐史観には染まらなかったということであれば、それがなによりなのですが)◆きっかけは台湾映画「悲情城市」

私の場合は1990年日本公開の台湾映画「悲情城市」がそのきっかけでした。

玉音放送からはじまる物語は、我が国の敗戦から1949年の国民党政府の統治開始に至る台湾の激動の歴史を描いた叙事詩大作。

1988年、李登輝氏が台湾総統に就任した翌年に製作されたこの映画は、当時タブーであった「228事件」を真正面から取り上げたことで大きな話題になりました。

また、その後のアジア映画ブームの先駆け的な作品でもありました。

1982年の「歴史教科書の『侵略』→『進出』誤報問題」以降、日を追うほどに熱を帯びる自虐史観。

まだ「自虐史観」が熱かったあの頃、「玉音放送」にはじまる映画の冒頭を見ながら、中国・韓国についで、今度は台湾での日本軍の悪行が晒されるのかと、そんなことを考えたのを覚えています。



しかし、私の想像を超えたシーンの数々に息を呑みました。日本統治時代は美しい思い出として描かれ、日本人の美徳が台湾人によって敬われ愛されている。

先の大戦中、日本人は悪いことしかしなかったと教えられてきたが、これは一体どういうわけだろうか。

初めの一石がこの時に投じられました。




◆台湾にハマった友人の話

また当時、私の友人が怖いもの見たさから、戒厳令が解除されて間もない台湾を旅行し、その魅力にすっかりハマって帰国しました。

その頃はまだ、都市はともかく、田舎の方まで旅行や商用で足を伸ばす日本人などごくわずかです。

日本統治時代を懐かしむ、特に田舎の日本語世代は身近に「日本」がないだけに、郷愁は募るばかり。

そこへふらりと日本人がやって来たのだからたまらない。


友人曰く、バスや電車に乗れば初老(当時)の日本語世代が必ず寄って来て、全身で喜びを表現し、大声で小学校唱歌を歌いだす。

食堂では、酒を飲まされ、家にまで連れて行かれ、軍歌の涙の熱唱。隣近所からも人が集まり、寝る間もない。

物価が安いうえに、台湾の人々のもてなしに、滞在期間中にお金を使うことはほとんどなかったとか。

しかしなにより、私の友人は台湾の人々の暖かい心に一番魅了されたのでした。

映画の中の美しい日本。台湾にハマった友人の話。


普段、調べごとなどしたことのなかった私でしたが、台湾の歴史を調べるうちに、どうやら台湾では日本統治時代が高く評価されているらしいということがわかったのでした。




◆映画「悲情城市」は「天岩戸開き」

私の自虐史観からの目覚め、ざっと以上の通りです。

映画「悲情城市」は、私が自虐史観とともに心の中に封じ込めてしまった『日本』を引っ張り出してくれました。

たとえは悪いかも知れませんが、私にとってこの映画は神話にある「天岩戸開き」のようなものです。

それ故に、私には大変大切な映画なのです。

その映画を久しぶりに大きなスクリーンで見ることができる!

この感激から、本記事をエントリーしました。

BOW30映画祭
http://www.bowjapan.com/bow30/index.php





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