最初に胸に違和感を覚えたのは夏休み後半でした。 2010年もとても暑い夏でした。居間のフローリングの床に少しでも涼を取ろうとうつ伏せになって寝てみました。その時、左胸にある何かが胸に当たるのを感じたのです。
丁度東京からお姑さんが遊びに来ていて、何気なく
私 「今年のあまりの暑さに床にうつ伏せになってしまうんですけど、左胸に何か当たる気がするんですよね。」
と伝えると、
姑 「ダメよ、そのままにしちゃ、今は早い人は40代から乳がんになるんだから。必ず病院に行くようにね!検査して何もなければ安心でしょ。」
と思いもかけず強く念を押されました。
正直痛みもないし、息子の事で頭が一杯でそれどころじゃない。しかし、母を若い時に急病で亡くした私は病気に敏感で、これ以上の不安を増やすのが嫌で、2学期が始まると近所のかかりつけ医に行きました。石灰化だと思いますが、念のため大学病院の乳腺科を紹介します、と先生から言われるがままに大学病院に行きました。 マンモグラフィ、CT、血液検査と受け、その後、結果について30代の若い先生から結果説明がありました。
先生「石灰化だと思いますが。生検はされますか?するとしても全く急ぐ必要もありません。」
私 「子供も小さいので、すぐに生検お願いします。」
先生「わかりました。では来週やりましょう。」
その日は待合室で長く待たされ、呼ばれる直前に、病院に置いてあった体験記を何気なく読んでいました。1人息子がいること、息子か小学校低学年でもあり、先生との会話はその体験記と全く同じで、デジャヴのように感じながら生検をお願いしました。
体験記の中で、その方はその後乳がんだと診断されていました。
生検の結果、私も乳がんでした。
ー今私に何かあったら、息子はどうなるのか
ーディスレクシアの息子はどうなる
ー私が死んだら夫は再婚する
ー再婚相手は息子を理解してくれるのか
絶対に死ねない!!
ブラックホールに落ちていくように真っ暗な中に突き落とされ、時にぞっとするほど穏やかで前向きになり、そして恐怖で身の置き所がなくなり、がんの告知を受けてからこれらの感情に掻き乱されていました。
息子のために絶対に死にたくない、自分のやり残した事はまだこんなにあるのに、そしてこれからの治療、手術への不安に夜も眠れなくなりました。
夫にも何度か死にたくない、と泣きました。夫は大学の薬学部の先生から、がんが1センチ以下なら死に直結する事はないと聞いている、大丈夫だよ、と繰り返してくれました。
息子への日々のアシストにも身が入らなくなり、息子にも取り乱した姿を見せていたと思います。 そんな母親の姿を見て息子は何かを感じたのでしょうか。
元来優しく陽気な子でしたが、告知を受けてしばらくしてから、私の事を労り、励ましてくれるようになりました。 私に笑いかけ、国語の読み聞かせの時は、1行1行を、めちゃくちゃメロディーで歌いめちゃくちゃ踊りをしてくれました。 母親のために必死だったのかな。泣けます。
「ママ、当たり前に愛してるよ」
「死なせないよ ぜったい」
その頃に言ってくれたこの2つの言葉は、
ブラックホールの底の底にいた私に光を照らしてくれました。
息子だけでなく、がんになって夫、家族、姉、親戚、友人達から、本当に大きな愛を感じる事が出来ました。 そして支えられました。本当にありがとう
やっとがんを受け容れる事が出来た時、私の闘病を通して、生きる、生き切る事を息子に伝えたいと強く思いました。
